ぼくが、彼と出会ったのは、二十歳の誕生日だった。
この国の成人年齢は十八歳だが、飲酒が許されるのは二十歳になってから。
二十歳になったぼくは、先に二十歳になっていた大学の友人たちから誘われて、初めてお酒を飲みに行ったのだ。
最初の店は安い居酒屋で、ぼくは初めてのお酒を飲んだ。
ビールは苦くて美味しさがよく分からなかったけれど、甘いカシスオレンジやカルーアミルクは美味しいと感じたから、ぼくは子ども舌なのかもしれない。
ふわふわと気が大きくなって、何でもできるような気がしてきたのは、酔ったからかもしれない。
後になって思うのだが、その日、ぼくはかなり酔っていたのだ。
居酒屋が終わって次の店を選ぶときに、親友がぼくに言ってきた。
「行ってみたい店があるんだ。どうかな?」
「どんなお店か聞かないと返事はできないよ」
「ピアノの生演奏をしているバーらしいんだけど、ぼく一人じゃ不安で」
親友の提案に、ぼくたちは顔を見合わせた。
当然ぼくはバーなんて行ったことがないし、他の友達もそうだった。
「行ってみる?」
酔って気の大きくなっていたぼくは後先考えずに口にして、親友の案内でそのバーに向かった。
バーの扉はよく磨かれた木で、格調高く、ぼくたちのような二十歳になりたての若者を歓迎してくれるとは思えない。
怖気づいたのは友達だった。
「このバーで、支払いができるとは思えないし、やめとかない?」
「いくらかかるか分からないよ?」
二人の言うことももっともだったのだけれど、気の大きくなっていたぼくは親友の手を引いてバーの扉を押し開けていた。
友達二人は入る勇気がなくて帰ってしまった。
からんと、木製のドアベルが涼しく鳴って、ぼくと親友は店内に入る。
店内はひとの声はほとんどなく、ピアノの音が優しく流れていた。
どこに座っていいか分からないぼくと親友に、バーテンダーさんがカウンター席を示す。
「初めてですね。よろしければこちらへ」
その時点で、ぼくはかなり酔いがさめていたのだと思う。
場違いなところに来てしまった。
バーはお客さんの年齢もぼくたちよりかなり上で、内装も格調高くてとてもぼくたちが似合う場所とは言えなかった。
「ご、ごめん、誘っちゃって」
「いや、いいよ。一杯だけ飲んで帰ろう」
親友は不安なのかぼくの袖をちょんと摘まんでいる。
小声で話しながらカウンターのスツールに座ると、バーテンダーさんがぼくたちに視線を向ける。
「何を飲みますか?」
「え? えーっと」
メニューも何もないのに注文を取られてぼくは大いに慌ててしまう。困っていると、隣りに座る親友は大きな体を縮めて恥ずかしそうにしている。
「初めていらっしゃったお客さんだから、一杯目は御馳走させてもらいますよ。気に入ったら、また来てくださいね」
注文を取らずに作り始めたバーテンダーさんに、ぼくと親友は身を固くしてスツールに座っていた。スツールは高くて、百七十にちょっと届かなかったぼくの身長では足が床に届かないくらいだった。
緊張していると、ぼくの前にはパイナップルがグラスの淵に飾られた飲み物が置かれる。親友の前にはミントが入っていて、グラスの淵にライムが飾られた飲み物が置かれた。
「パイナップルはお嫌いじゃなかったですか?」
「大好きです」
「ピニャコラーダというパイナップルとココナッツミルクのお酒です。そちらはモヒートと言って、ミントとライムとソーダのお酒です」
恐る恐る口を付けてみるとピニャコラーダはマイルドな甘さでとても美味しい。パイナップルは大好きだったので、緊張していた気持ちが少し解れる。親友はモヒートを飲んで気を落ち着けているようだった。
飲みながらピアノの演奏に耳を傾けていると、ちょうど演奏が一曲終わって、ピアニストがこちらの方に歩いてきた。カウンター席の端にピアニストが座ると、バーテンダーさんはウーロン茶らしきものを彼に出している。
色素が薄いのか髪の色は薄茶色で長めに伸ばしており、緩やかに波打つその髪の間から白い横顔が見えている。
ものすごく顔立ちの整ったひとだと思わず見とれてしまったら、ちらりとそのひとがこちらを見た。
薄い色の目を細めて、バーテンダーさんに聞いている。
「彼らのはヴァージン?」
「あ、分かりました?」
ヴァージン!?
掠れたようなハスキーな声で問いかける様子があまりにもセクシーでくらくらしてしまう。
しかも口にしたのはヴァージンなんていう単語だ。
「あ、あの」
「アルコールを入れてないカクテルを、ヴァージンピニャコラーダとか、ヴァージンモヒートとか言うんですよ。
「それ、おれのせいじゃないよね」
あ、そういう意味だったのか。
ぼくは性経験がないので、それをからかわれているのかとどきりとしてしまった。
バーテンダーさんはぼくたちの年齢を確認しなかったと思ったら、ノンアルコールのカクテルを出してくれていたようだ。それはそうだろう。二十歳になりたてのぼくたちの年齢なんて見ても分からないし、二十歳になってないお客にお酒を出したら、店の責任になる。
納得してぼくはピアニストに視線を移す。
ピアニストは紫苑さんというお名前のようだ。
紫苑さんの整ったお顔をじっと見ていると、テーブル席から客が移ってくる。
「今夜こそは、いい返事を聞かせてもらえますよね」
「恋人がいるんじゃなかったんですか?」
「誰とでも寝るんでしょう? 恋人がいても構わないんじゃないですか?」
ねっとりとした口調で絡んでくる客に、紫苑さんは迷惑そうにしている。それでも眉間に皴を寄せている顔がセクシーだし、掠れたようなハスキーな声が色っぽいのでぼくは紫苑さんから目が離せない。
「嫌がってるじゃないですか。やめてください」
思わずぼくが止めると、客はぼくの方を見て明らかに性格の悪そうな笑いを浮かべた。
周囲の客もざわつき、この客に注目しているのが分かる。
「こんな坊やまで射止めるんですか。さすがですね、あなたの魅力は。教えてあげたらどうですか、あなたが誰とでも寝るってことを」
「お客様、少々お酒が過ぎたようですね。お会計致しましょうか?」
「客を追い出すのか?」
暴れ出しそうな客に、ぼくはスツールから降りてその客の前に立った。身長はぼくの方が低いけれど、ぼくには自信があった。
「今の暴言、録音させてもらいました」
「へ?」
「スマホって便利ですよね。簡単に録音できちゃう。これをあなたの恋人さんが聞いたらどんな気持ちになるでしょうね」
「そ、そんな、連絡先も分からないのに……」
狼狽える客に、ぼくは笑顔のままその客の写真をスマホで取る。そしてスマホを操作しているふりをする。
「ほら、これで全世界にあなたのしたことが広まりました。SNSって便利! すぐに特定されて、恋人さんにも情報が届くでしょうね」
「こいつ! 何しやがる!」
客がぼくに飛び掛かって、スマホを取り上げようとしたところで、紫苑さんが立ち上がった。素早く動いた紫苑さんが客の腕を捩じり上げて、押さえ付ける。
「トラブルは困ります。お帰りを」
紫苑さんに促されて、客は渋々会計を支払って帰って行った。
ぼくが紫苑さんを見上げていると、店内から拍手が巻き起こる。
「あの客、紫苑さんにしつこくて、たまりかねていたんですよ」
「若者、よくやってくれた!」
「紫苑さんが守られてよかった!」
店の中にいた客も紫苑さんを守りたい気持ちでいっぱいだったようだった。
ぼくが照れていると、紫苑さんが手を差し出してくる。
「
「
「ありがとう、円くん」
紫苑さんの手は大きくて温かかった。
その後、ぼくは店内の客からまず年齢を聞かれて、身分証明書を見せて二十歳だということをしっかり示すと、色んなお酒を奢られてしまった。
そのせいで、ぼくはすっかり酔っ払った。