「まどか? 起きた?」
掠れたようなハスキーな声で問いかけられて、ぼくはベッドから落ちそうになった。
昨夜のことはよく覚えている。
酔っぱらって動けなくなったぼくと親友を、お酒を飲んでいなかった紫苑さんが車で送ってくれるということになったのだ。家が近かった親友を先に送った後で、紫苑さんがぼくに囁いた。
「帰したくないな」
セクシーに響くその言葉に、ぼくは心拍数が上がって、小さく頷いていた。
「ぼく、一人暮らしだし、明日は授業ないし……」
「まどかって呼んでもいい?」
「は、はい!」
それから紫苑さんの部屋にお持ち帰りされて、ぼくは紫苑さんに導かれるまま、紫苑さんを抱いた。ぼくが初めてだと聞いても紫苑さんは嫌な顔をせずに、優しくぼくを受け入れてくれた。
二十歳の誕生日に、ぼくは童貞を捨てたのだ。
「あ、の、紫苑さん……」
「寝てる間に体は拭いたけど、気持ち悪いだろうから、シャワー入る?」
「あ、はい」
「先に水飲んでね」
ペットボトルのミネラルウォーターを手渡されて、ぼくはそれを開けようとして頭が痛いことに気付く。昨日飲みすぎたからいわゆる二日酔いというやつだろうか。
ぼくがペットボトルの蓋に手を置いて固まっていると、紫苑さんがぼくの手からペットボトルを取って、蓋を開けてぼくに差し出してくれる。
「硬かった?」
「い、いえ。ありがとうございます」
顔が熱い。
昨日ぼくは紫苑さんと寝てしまった。
この年まで恋愛には全然興味がなくて、付き合った相手もいなかったから分からなかったけれど、ぼくは男性が好きだったみたいだ。
ペットボトルに口を付けて傾けると、ごくごくと半分くらいまで飲み干してしまった。それだけ喉が乾いていたのだろう。
それが分かっていて紫苑さんはぼくにミネラルウォーターを渡してくれたということになる。
慣れている。
非常にスマートな紫苑さんに、やはり誰とでも寝るなんてことを言われるだけはあるのかと思って見つめてしまうが、紫苑さんは気にした様子はなく、部屋の隅に置かれている電子ピアノのところに移動していた。
ざっくりと首筋が開いたカットソーに、細身のパンツ。足元は裸足だ。
それだけなのに、こんなに格好いいなんて。
解いているので緩やかに波打つ薄茶色の髪が、ふわふわと揺れるのも色気がある。
何よりも、その首筋。夢中になってぼくがつけてしまった赤い痕があるのに、隠そうともしていない。
ベッドから立ち上がったところで、ぼくは全裸だということに気付く。恥ずかしくて股間を隠しながらバスルームに移動すると、紫苑さんの声がかかる。
「服は全部洗濯して乾燥機にかけてるから、洗濯機から取って」
「は、はい。ありがとうございます」
ぼくが紫苑さんを抱いて、眠ってしまった後、紫苑さんはそんなことまでしてくれたのか。
体も拭いてくれたというし、どれだけご迷惑をかけてしまったのだろう。
バスルームでシャワーを浴びさせてもらって、すっきりして、ドラム式の大きな洗濯機からちょっと皴の寄った服を取り出して着ると、ぼくは裸足のまま部屋に戻ってきた。
紫苑さんの部屋は、ものすごく広いワンルームのようだった。
ベッドは衝立で隠されているだけだし、鳥かごのようなソファもある。
キッチンは対面式で広かった。
「朝ご飯、何か食べる?」
「いいんですか!?」
ぼくは完全に紫苑さんとは一晩だけの関係で、遊ばれたのだと思っていた。
こんなに色気のある美しい大人のひとが、ぼくなんて相手にするわけがない。
それなのに、さっさと帰れとは言われず、朝ご飯に誘われている。
「ぼく、何か作ります」
「おれの家だし、おれが作るよ」
「いえ、ぼく、管理栄養士目指してるんで、腕は確かです」
これ以上紫苑さんにご迷惑をおかけしたくないと主張すると、紫苑さんの薄い色の目がちょっと見開く。
「管理栄養士になりたいんだ。すごいね」
「保育園のときに、給食が美味しくて、こんな美味しい給食がどうして作れるのか聞いてみたら、管理栄養士さんが献立を作ってくれているからって教えてもらって、それ以来、管理栄養士になりたいんです」
「保育園のときのまどか……かわいかっただろうな」
ふっと紫苑さんの表情が緩んで、笑顔が見えてぼくは心臓がばくばくする。
これって、恋じゃないだろうか。
ぼくは紫苑さんに恋している!?
紫苑さんのバーの空気を邪魔しないピアノの演奏もだったけれど、絡んできた客が自分の方に迷惑をかけているときには我慢してぼくに飛び掛かろうとしたら押さえ付けた強さも、ぼくを導いてくれたあの色香滴る姿も、体を拭いてくれた優しさも、ペットボトルの蓋だって開けてくれた格好よさも、もうぼくの胸の中にいっぱいに満ちていて、紫苑さんが好きとしか思えない。
紫苑さんはぼくのことなんて遊びと思っているかもしれないが、ぼくは紫苑さんに夢中だった。
「昨日も、かわいかった」
掠れたようなハスキーな声で囁かれて、ぼくは耳まで熱くなってしまった。
冷蔵庫の中のものは何でも使っていいと許可を得て、冷凍庫に入っていたパンの淵にマヨネーズをひと回しかけて、その中に卵を割り入れて、上からチーズをかけてトースターで焼く。
簡単だがぼくのお気に入りのメニューは紫苑さんの口に合うだろうか。
「コーヒー、好き?」
「えっと、ミルクを半分入れたら飲めます」
子ども舌なのでコーヒーの苦みが苦手で、いつもミルクたっぷりのカフェオレにしてしまうのだが、ぼくが言えば、紫苑さんはカプセル式のコーヒーメーカーでコーヒーを入れて、カップにたっぷりとミルクを注いでくれた。
本当はお砂糖も欲しかったけれど、そこまで子どもだとは思われたくない。
焼き上がったパンを取り出してお皿に乗せると、紫苑さんがカップを手渡してくれた。
二つしか椅子のないテーブルで向かい合わせに座ってパンを齧り、コーヒーを飲む。ミルクの甘みがあるせいか、コーヒーはそれほど苦みを感じなかった。
お腹がいっぱいになったところで、紫苑さんが、もう一度ぼくに自己紹介をしてくれた。
「新井紫苑、先月四十歳になったばかり」
「ぼくは、高槻円、昨日二十歳になりました」
改めての自己紹介に年齢がつくと、ぼくは紫苑さんとの差を見せつけられてしまう。
紫苑さんはこんなスタイリッシュなマンションに住んでいて、ピアノが上手で、カプセル式のコーヒーメーカーなんてお洒落なものを持っている大人なのだ。
ぼくなんて相手にされないとへこんでいると、紫苑さんが長い髪を掻き上げて額に手をやる。
「二十歳なの? ……おれ、犯罪者だね。こんなおじさんと悪かったね」
「え!? 紫苑さんがおじさん!?」
四十歳と言えば確かに親の年齢の方が近いけれど、紫苑さんは美しいし、色気があるし、とてもおじさんとは思えない。ちょっと年上のお兄さんと思ってから、そんなひとと一夜を過ごしてしまったことに気付いて、顔がまた熱くなる。
「全然おじさんじゃないですよ。紫苑さんは格好いいし、美人だし、素敵だし……」
「君の親の年齢だよね。そんなおじさんの相手をさせて申し訳なかった。犬に噛まれたと思って忘れて」
「忘れられません!」
パンを食べ終わった後の手を払って、ぼくは強く紫苑さんの手を握り締めた。紫苑さんの手は大きくて、指が長い。ピアノを弾くひとの手だ。
「昨日の紫苑さん、とても素敵だったし、ぼく、初めてだったけど、紫苑さんと一夜を共にできて嬉しかったです」
「初めて? 女の子とは?」
「な、ないです……。昨日が正真正銘の初めてです」
恥ずかしく答えると、紫苑さんが両手で顔を覆う。
「あんなに男前だから、すごくモテると思ったのに。本当に、おれなんかが初めてでごめん」
「男前ぇ!?」
驚いて紫苑さんの方に身を乗り出すと、紫苑さんがため息をついている。
「バーでおれを助けてくれたでしょう? そのとき、男前だなって思ったよ」
「あんなの、誰でも思い付くことですよ」
「お客様に手を出すのは許されないから、いつも我慢してたけど、助けてもらって胸がすっとした。まどかは、おれのヒーローだった」
ぼくが、紫苑さんのヒーロー!?
そんなことを言われるとは思わなくてぼくは椅子から飛び上がりそうになってしまう。
紫苑さんはおれを一夜の遊びではなくて、男前だと思って誘ってくれていたのか。
「ぼく、紫苑さんが好きです! 付き合ってください!」
紫苑さんの両手を握り締めて言えば、紫苑さんは困った顔になっている。
「おれ、悪い大人だよ? まどかに似合うような相手じゃない。おじさんだし」
「紫苑さんはおじさんじゃないです。美人だし、格好いいし。お試しでもいいんで、ぼくと付き合ってください!」
必死に縋るように言えば、紫苑さんは苦笑している。
「初めて寝たから、勘違いしているだけだと思う。まどかには、もっといい相手がいるよ」
「いません。紫苑さんが一番です」
つくため息まで色っぽいんだからどうしようもない。
薄い色の唇に今すぐでも口付けたい。紫苑さんを抱き締めたいと暴れるぼくの本能を、必死に理性で押さえ込む。
「まどか、おれはずっと……」
「紫苑さんの過去とかどうでもいい。今の紫苑さんが好きです」
何か言いたそうにしている紫苑さんを遮って宣言すると、紫苑さんが降参の意を示すように両手を上げた。
「そこまで言われたら、付き合うしかなくなるじゃない? でも、いつでも別れて大丈夫だからね。おれに幻滅したらいつでも言って」
きっと、まどかはおれに幻滅するよ。
諦めたように言うのですら、掠れたようなハスキーな声で発せられたら、色っぽくて抱き締めたくなってしまう。ぼくの方がかなり身長は低いので、抱き締めると胸に顔を埋めるようになってしまうかもしれない。
「こんなはずじゃなかったんだけど」
小さく呟かれた紫苑さんの声に、ぼくはそれを聞かなかったことにした。