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3.親友の告白

 紫苑さんとのお付き合いが始まって、ぼくは紫苑さんの家に入り浸るようになってしまった。

 紫苑さんは昼から深夜までの仕事で、紫苑さんの家に行くか、バーに行くかしないと紫苑さんに会うことはできないのだ。

 毎日でもバーに通って構わなかったのだけれど、紫苑さんはそんなぼくを止めた。


「あのバーは落ち着いてて治安もいいけど、あのときの客がまた来るかもしれない」

「それだったらなおさら、そばにいたいです」

「もうあの客は出禁にすることが決まってるし、追い返せるから大丈夫」

「それならなんで……」


 バーに行けばピアノを弾いている格好いい紫苑さんを見ることができるし、紫苑さんの売り上げにも貢献できるはずだ。そんなことを考えるぼくに、紫苑さんが掠れたようなハスキーな声を少しひそめる。


「学生さんに毎晩お金を払わせたくない」


 それに、まどかをみんなに見せたくない。


 そんなことを言われてしまうと、ぼくは胸が高鳴ってどうしようもない。

 掠れたようなハスキーな声はセクシーだし、少し困ったように眉が下がっているのも愛しくて仕方がない。


「代わりに、これ」


 手渡されたのは、犬のキーホルダーのついた合鍵だった。

 この部屋の合鍵をもらえてしまうだなんて!

 興奮するぼくに、紫苑さんはちょっと寂しそうに言う。


「愛想が尽きたら、その鍵はポストに入れておいて」

「そんなこと、絶対にないです!」


 宣言すると、紫苑さんがぼくの頬に軽く口付けを落とした。


「付き合うんだったら、敬語、やめてね?」

「は、はい! じゃない、うん!」


 こんな年上のひとに敬語をやめてしまっていいのか悩む間もなく、ぼくは紫苑さんの言う通りにしていた。


 紫苑さんはバーで働いているけれど、バーでお酒を飲むことはないそうだ。

 車で通勤しているし、飲酒運転で捕まったら大変だろう。

 紫苑さんと付き合って一週間、ぼくは紫苑さんの家で紫苑さんの帰りを待っていた。


 朝から大学の講義があって、それからカフェのアルバイトをして、疲れていたので鳥かごのようなドーム状の天井のあるソファで横になっていると、眠ってしまっていたようだ。

 玄関が開く音で目を覚ます。目は覚めていたけれど、起きるのが面倒くさくて円形のソファの上で体を丸めていると、紫苑さんが近付いてくる気配がした。


「ただいま、まどか」


 ふわっと紫苑さんのつけている少し甘い香水の匂いがして、ぼくの頬に柔らかなものが当たる。


「き、キス!?」

「まどか、起きてたの?」


 頬を押さえて飛び起きたぼくに、紫苑さんは目を細めて静かに笑っていた。

 掠れたようなハスキーな声の紫苑さんは、笑うときに声を出さない。普段の声も密やかで、常に囁かれているような気がして、ぼくはドキドキしてしまう。


「お帰りなさい、紫苑さん。お腹空いてない? 何か食べる?」


 飛び起きてぼくが聞けば、紫苑さんは目を細めたまま、ぼくの唇に唇を重ねた。


「まどかが、食べたい」


 うわー!

 こんなこと本当に言って、めちゃくちゃ格好よくて色っぽい男性なんているんだ!?

 こんなのドラマか漫画の中の世界だと思っていた。

 ドキドキしながら、ぼくは紫苑さんに抱き着く。


「ぼくも、紫苑さんとしたい」


 正直に言えば、紫苑さんがぼくの頬を撫でる。


「シャワーを浴びて準備してくる。待っててくれる?」

「待ってる!」

「寝落ちてたら、かわいくて起こせないよ?」

「寝落ちない!」


 宣言してぼくは紫苑さんを見送った。


 初めてのとき、素直にそう言ったはずなのに、紫苑さんは誤解していたようだった。


「男が初めてって意味かと思ってた」

「そうじゃないです。紫苑さんが何もかも初めてです」


 キスも、性行為も。


 白状してしまうと、紫苑さんはすごく驚いた。


「まどかみたいなかわいい子が、よく誰にも食べられなかったね」


 ぼくは食べられる方なのか。

 紫苑さんとの行為も、全部紫苑さん主導で、気持ちよくしてもらったけれど、女性に対してもぼくはそんな風に見えているらしかった。肉食系女子とかよく言うけど、そういう女性にモテそうと紫苑さんは思ったみたいだった。


 女性はなんとなく大事にしなきゃいけない存在で、ぼくは触れるのが少し怖かったけれど、それも紫苑さんと抱き合って分かった。

 ぼくは男性が好きだったんだ。


「紫苑さん、身長は?」

「百七十八だけど?」

「わぁ……ぼくは百六十八です」


 十センチも身長差がある紫苑さん。

 どちらかと言えば抱かれるより抱く方のイメージが強かったけれど、紫苑さんは抱かれることを好むようだった。


 紫苑さんとの会話を思い出していると、紫苑さんがバスルームから出てきた。バスローブだけ羽織っている紫苑さんは、色素の薄い首筋や脚が見えて、それだけで体温が上がってくる。


「まどか、シャワーは?」

「浴びたよ」

「それじゃ、おいで?」


 ベッドに招かれて、紫苑さんに緩く両腕を広げられて、ぼくは紫苑さんの胸に飛び込んでいた。


 紫苑さんと抱き合う時間は濃厚で、蜜のように甘い。

 初心者のぼくが気持ちよくなれるように紫苑さんは導いてくれて、紫苑さんのこれまでの経験を思うと嫉妬で少し胸がちくちくするけれど、そんなことも忘れさせてくれるくらい最高の夜を過ごした。


 目覚めると朝で、紫苑さんはベッドでぐっすりと眠っていた。

 ぼくと紫苑さんは生活時間が違うので、できるだけ音を立てずにぼくはシャワーを浴びて着替えると、紫苑さんにお昼のサンドイッチを作って冷蔵庫に入れて、書置きをしておいた。


『紫苑さんへ。

 大好きです。冷蔵庫にサンドイッチがあります。食べてね。

 円』


 合鍵を使ってしっかりとドアを閉めてぼくは大学まで走った。


 大学の講義には間に合って、ぼくは居眠りもせずに午前中の講義を終えた。

 昼休みに食堂に行くと、情報学部の親友が横に座ってきた。


「最近、忙しいみたいだけど、バイト増やした?」

「ううん、別に」


 誤魔化そうとしたぼくに、親友の目がじっとぼくのシャツの襟の辺りを見ている。

 視線を落とすと、暑くて第三ボタンまで開けていたぼくの鎖骨の上に、赤い痕が見えた。


 紫苑さん!?


 夢中になるとぼくも紫苑さんの肌に痕をつけてしまう。紫苑さんは色素が薄くて肌が白いので、痕がものすごくつきやすくて、目立つのだ。

 でも、紫苑さんに痕をつけられていたとは思わなかった。


「虫刺され! 最近多いでしょ! 暑くなったし!」


 言い訳をしようとしても、親友はじとりとぼくを見つめてくる。

 これは、どうしようもない。


「好きなひとができたんだ。お付き合いしてる」

「どんなひと?」

「ちょっと年上だけど、美人でものすごく素敵なひと」


 正直に言えば、親友はぼくの赤い痕を指先でつついてきた。


「こんなキスマーク付けるような独占欲の強そうな相手が? 年上とか、騙されてるんじゃない?」

「紫苑さんはそんなことしない!」


 勢いで言ってしまってから、ぼくは後悔した。

 親友はあのバーで紫苑さんと客とぼくのやり取りを見ていたはずだ。


「紫苑さんって、あのバーの!? ダメだよ、絶対遊ばれてる!」

「遊ばれてても、ぼくはいいんだ。紫苑さんが好きだから」


 遊ばれてても構わない。

 それはそうだったが、紫苑さんは美しい外見に反して、遊んでいるようなそぶりは見せなかった。仕事に行く以外は家にいてストイックに電子ピアノを何時間も弾いている。食事を忘れるくらい集中してピアノを弾く紫苑さんに、ぼくは声をかけられないことが多い。


 夜は大胆なくらい積極的にぼくと抱き合うけれど、それも仕事が終わってからだし、紫苑さんは真面目なひとだと思う。


「誰とでも寝るって言われてたよ?」

「そういうこと信じちゃうの? あんな客の言うことを」


 親友の言葉でもそれは許しがたかった。

 ぼくが強く言えば、親友は涙目になっている。


「ぼくが、好きだったのに」

「え?」


 親友は紫苑さんのことを好きだったのだろうか。

 そういえばバーに行きたいと言い出したのも親友だった。


「そうなの? 紫苑さんのことが……」

「円の馬鹿! 円のことが好きなんだよ!」


 青天の霹靂。


 ぼくは雷に撃たれたように動作が止まってしまった。

 まさか親友がぼくのことを好きとは思わなかった。

 親友とは中学時代からずっと一緒なのだが、そんなそぶりは全く見せてこなかった。


「ぼくが好き? え? いつから?」

「中学のときから。高校も大学も、円に合わせて選んだよ。でも、円は男を好きじゃないだろうから、告白できなかった」


 涙ながらに告白する親友に、ぼくは困ってしまう。

 親友のことはずっと友達だと思っていたし、恋愛対象ではなかった。


「もっと早くに言っておけばよかった……。円をとられる前に」

「ご、ごめん」

「謝らないでよ。もっと惨めになる」


 涙を拭きながら親友が椅子から立ち上がる。

 立ち去る親友をぼくは追いかけることができなかった。

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