大学から一度自分の部屋に帰って、明日の準備と着替えを持って、バイトに行く。
カフェのバイトはキッチンに入っているので、ずっと料理を作りっぱなしだ。栄養学部の学生と面接で伝えたら、キッチンに入るようにお願いされたのだ。
調理実習で実践で衛生面も習っていたし、料理に関してはある程度自信がある。
小さいころから両親は共働きで、弟の面倒を見ていたのだ。
夕飯は賄いを食べさせてもらって、店の閉店の八時まで働いて、真っすぐに紫苑さんの部屋に帰る。
紫苑さんの部屋にはもうぼくの私物が揃っていた。
シャワーを浴びて、紫苑さんが買ってくれたパジャマに着替える。
てろてろとした光沢のあるそのパジャマは、紫苑さんと色違いで、紫苑さんが薄い紫、ぼくがシャンパンピンクだ。
高級品っぽかったので遠慮したのだが、ぼくのサイズで買って来られたものを返品するわけにはいかず、着させてもらっている。肌触りがよく、着心地がいい。
着ていた服は紫苑さんの脱衣籠にある服と一緒に洗濯機に入れて、乾燥までボタン一つで操作する。
お腹もいっぱいになったし、昨日も盛り上がってしまったし、眠くなって鳥かごのようなソファに横になると、親友の声が聞こえてくる。
――円の馬鹿! 円のことが好きなんだよ!
中学のときから親友に想われていただなんて、考えもしなかった。
ぼくはなんて鈍いんだろう。
きっと何度も親友を傷付けた。
今日親友は泣いていた。
それでも、親友を追いかけて涙を拭いてあげられなかったのは、紫苑さんを諦めるということができないからだった。
「ごめんね……」
小さく呟くと、眠気が襲ってくる。
ぼくはそのまま鳥かごのようなソファで丸まって眠っていた。
目が覚めたのは朝になってからで、ぼくはいつの間にかソファからベッドに移動していて、紫苑さんに抱き締められていた。
紫苑さんのベッドは広いのだが、紫苑さんはぼくを抱き締めて眠ることを好む。
昨夜は紫苑さんが帰ってきたのにも気付かずにぐっすり眠っていたようだ。
ぼくが身じろぎすると、紫苑さんが目を覚ましてぼくの耳元に囁く。
「
「え!?」
「寝言で、『誠ちゃん、ごめん』って言ってた」
ぼくは寝言でまで謝っていたようだ。
「し、親友だけど……」
「まどかがおれを助けたときに、すごい目でおれを睨んでたあの子かな?」
「紫苑さんを睨んでたの!?」
そんなこと全く気付いていなかった。
紫苑さんは誠ちゃんがぼくを睨んでいたことに気付いていたようだ。
「どうしたの? コーヒーでも飲みながら話す?」
「う、うん」
もう起きてしまったし、紫苑さんはぼくの話を聞かないと眠らないだろう。
紫苑さんは毎日二時過ぎに帰ってくるのに、今の時刻は六時半。早く話してしまわないと、紫苑さんが寝る時間もなくなるし、ぼくが大学に行く時間にもなってしまう。
キッチンに移動するとカプセル式のコーヒーメーカーで紫苑さんがコーヒーを入れてくれた。紫苑さんのはブラックで、ぼくのはミルクが半分以上。
それを飲みながら、椅子に座って話す。
「誠ちゃん、ぼくが好きだったんだって」
「そうか。そうだと思ってた」
「気付いてたの?」
「おれを牽制して来てたからね」
ぼくは全然気づかなかったのに、紫苑さんは誠ちゃんがぼくを好きなことに気付いていた。
「本当はまどかにはあの子の方が似合うって分かってたよ。でも、一晩だけでも夢を見たかった」
「夢だなんて!」
「おれみたいなおじさんに、こんな若い子が本気になるわけないって思ってた」
「ぼくは紫苑さんが好きだよ? 大好きなんだよ?」
愛してるって言葉はまだ恥ずかしくて使えないけれど、精一杯の愛を伝えると、紫苑さんが寝起きで乱れた髪を手櫛で整えている。紫苑さんの長い髪は窓から入る朝日を浴びてきらきらと輝いていてとても綺麗だ。
「初めてだったから、まどかは勘違いしてるだけかもしれない」
「勘違いってそんなに長く続くの? もう付き合って二週間近いよ」
「おれは、まどかと付き合えるような男じゃないんだ」
「それはぼくが決めることでしょう? ぼくが紫苑さんに釣り合ってないなら、それはそれで悲しいけど、諦めるよ」
「そんなこと……。こんなに夢中になるつもりじゃなかったのに」
夢中になる。
それはぼくの台詞だ。
ぼくは紫苑さんに夢中なのだ。
「紫苑さん、大好きだよ」
コーヒーのマグカップを置いて紫苑さんに近付くと、ぼくはそっと俯きがちで顔を隠す紫苑さんの髪をかき分けて、紫苑さんの唇に唇を重ねた。紫苑さんもマグカップを置いて、ぼくの腰を抱き寄せて口付けてくる。
口付けが深くなりそうになったところで、ぼくは紫苑さんの胸を押した。
「朝ご飯、作らなきゃ。それに大学が」
「そうだった」
残念そうにしている紫苑さんに座っていてもらって、ぼくは手早く冷凍していたご飯でオムライスを作った。
普段は紫苑さんは起きていない時間だが、冷蔵庫にオムライスを作って出かけると喜ばれるのだ。
「紫苑さんの好きなバターライスにしたよ。卵はふわとろで」
「嬉しいな。電子レンジで温めると、どうしても卵が硬くなってしまう」
「いつもこうして目の前で作ってあげられたらいいんだけどね」
「おれの収入が多ければ、まどかを専業主夫にしてしまえるのに」
冗談のように言う紫苑さんに、それも悪くないと思ってしまう。
紫苑さんのために料理を作って、紫苑さんのために家事をして、紫苑さんの暮らしやすいように家を整えて待っているなんて最高ではないか。
専業主夫になれば、紫苑さんと同じ生活リズムにすることもできる。
「冗談でも嬉しい」
「冗談じゃないよ。今度、おれのピアノリサイタルがあるんだ。そのときには来てほしいな」
「紫苑さんって、バーのお仕事だけじゃないの!?」
「オーケストラのピアノをやったり、歌の伴奏をしたり、リサイタルを開いたりもしているよ。一応、CDとかも売ってるよ」
紫苑さんのCD!
CDってパソコンで取り込まないと聞けないのだけれど、欲しくなってしまってぼくは大学に行く時間ぎりぎりになっているのに、紫苑さんに頼んでいた。
「CD、今度買わせて!」
「まどかにお金払わせるわけにはいかないよ。余ってるし、あげる」
「それはよくないよ。紫苑さんの努力が」
「まどか、時間は?」
「うぅー! 行ってきます」
食べ終わったお皿をシンクに置いて、ぼくは渋々、着替えて大学用のバッグを持って玄関に向かった。紫苑さんがパジャマ姿で見送ってくれる。パジャマ姿の紫苑さんは壮絶な色気を放っていて、時間があればそのままベッドに逆戻りしたいくらいだった。
我慢しつつ、ぼくは大学に向かった。
大学の講義は、栄養学部と情報学部では別々だ。
誠ちゃんとは顔を合わせずにすむのだが、ぼくは誠ちゃんに話さなければいけない気がしていた。
謝るのは何か違うけれど、もう一度親友に戻りたいというのは酷なのだろうか。
紫苑さんのこと以外考えられないぼくは、誠ちゃんと付き合うとか絶対にできない。
講義を終えて食堂に行くと、誠ちゃんは習慣なのか、ぼくの横に座った。ぼくも誠ちゃんも食堂の今日の定食をトレイに乗せている。
「あのひとのところから来たの?」
「そ、そうだけど?」
「あのひと、何人も恋人がいるっていう話だよ? 絶対円、遊ばれてるって」
「紫苑さんはぼくだけしかいないよ」
それは分かりきっている話だった。
紫苑さんはバーの仕事があって、それ以外は家では寝ているかピアノの練習をしているかのストイックな生活で、他に恋人など作る暇がないことははっきり分かっている。集中してピアノを弾いているのはリサイタルが近いからなのだろう。
「そんなこと言って、誠ちゃんのことを嫌いにさせないで」
「円は、残酷だよ」
親友でいたいと思うぼくに、誠ちゃんは泣きそうな顔で告げた。
昼食の定食を食べ終わると、誠ちゃんは椅子から立ち上がった。
「もう戻れないよ。円が好きなことを言ってしまったから」
「誠ちゃん……」
「あのバーに行かなければよかった」
誠ちゃんの苦い言葉に、ぼくは何も言えなかった。