誠ちゃんの言葉が胸に刺さって抜けない。
今日はバイトが休みなので、紫苑さんに早く会いたくて、ぼくはバーに向かっていた。バーは夕方の六時から開店する。
六時ちょうどにぼくが入ると、カウンターに先客がいた。
ぼくよりも二十センチは身長が高そうな、大柄な男性。
撫でつけた黒髪に鋭い黒い目で、紫苑さんと同年代くらいだろうか。
「まどか、ごめん、仕事の話があるから」
ぼくに気付いた紫苑さんが声をかけてくれるが、男性はそれを遮った。
「おれの紫苑は、いつ戻ってきてくれるんだ? まだ色んな男の間を彷徨っているのか?」
「お前のじゃないよ。お前の伴奏者のおれ、だろう?」
「冷たいな。おれと彼女とお前の魅力に溺れた夜を忘れたのか?」
「……忘れられるか」
おれと彼女と?
三人で!?
ちょっと想像しそうになってぼくは頭を振る。
紫苑さんのカウンターに置かれた手が震えている気がする。
「あの後、色んな奴と遊びまくって無茶をしたんだろ? 紫苑の魅力はあのころから変わってないな。この子も紫苑の虜なんだろう?」
そんなことを言われて、ぼくの方を見てくる男性に、ぼくは思わず紫苑さんとの間に入っていた。
「あなた、誰なんですか? 紫苑さんが嫌がってるじゃないですか!」
「紫苑とは大学時代からの付き合いだよ。ふかぁい仲でね」
嫌な感じの男性の言い方に、ぼくは紫苑さんの手を握った。ぼくより大きくて指の長い手は、緊張で冷たくなっていた。
「仕事のことはマネージャーを通してくれ」
「仕事よりプライベートかな?」
「おれはお前のものじゃない。お前の伴奏者になることはあっても」
告げる紫苑さんに男性が手を伸ばそうとするのを、間に入って必死で止める。
「紫苑は簡単に一人のものになる男じゃないよ。それでもいいのか?」
「紫苑さんの過去がどうかなんて関係ない。ぼくは今の紫苑さんを好きになったんです」
紫苑さんの過去を匂わせてくる男性には腹が立っていたが、紫苑さんを疑う気は全くなかった。男性の言うことが本当だとしても、それは過去の話だ。紫苑さんとぼくは、今を生きていて、今恋愛しているのだ。過去は関係ない。
それをしっかりと伝えると、男性は呆れたようにため息をついて、手を伸ばして紫苑さんの長い髪に触れて、低い声で囁いた。
「また来るよ。その坊やが諦めたころに」
「ぼくは紫苑さんを諦めたりしない!」
男性に言い返せば、紫苑さんがぼくの手をぎゅっと握っていた。
紫苑さんの顔を見れば、ただでさえ色白なのに、更に顔色が白い気がしていた。血の気が失せたような。
「まどか、今日は帰って。帰ってから話をするから」
「紫苑さん、大丈夫?」
「まどかがいてくれたから平気」
とても大丈夫とは言えない顔色だったけれど、紫苑さんの邪魔になるのは嫌だったので、ぼくは大人しく帰ることにした。
バーから出ると、誠ちゃんが待っていたかのように扉の前に立っていた。
「誠ちゃん、なんで……」
「やっぱり、円のこと諦められなくて追いかけたら、ここに来てて……」
「誠ちゃん……ぼくは誠ちゃんとは親友でいたい」
「あのひと、色んなひとと関係持ってるって噂なんだよ? それでもいいの?」
誰とでも寝る。
最初にあった日に紫苑さんが言われていた言葉を思い出す。
それに今日会った男性が言った言葉。
――おれの紫苑は、いつ戻ってきてくれるんだ? まだ色んな男の間を彷徨っているのか?
――おれと彼女とお前の魅力に溺れた夜を忘れたのか?
大丈夫だ。
紫苑さんは帰ったら話をすると言っていた。
ぼくが紫苑さんを信じなくてどうするのだ。
「ぼくは紫苑さんが好きだよ。この気持ちは変わらない。でも誠ちゃんも大事な親友なんだ」
「親友、か」
「誠ちゃん……」
「最近、自分の家に帰ってないでしょう? いつ訪ねてもいないんだもん」
「それは、紫苑さんの家に……」
「もう同棲状態なんだ」
ふっと悲し気に誠ちゃんが笑う。
そんな顔をさせたいわけではないのに。
それでも、どうしてもぼくの気持ちは偽れない。
紫苑さんが好きだ。
「一度だけでいいから、ぼくを見てよ!」
「そんなことできない! 誠ちゃんにも紫苑さんにも失礼だ!」
「そっか……。円ならそう言うと思った」
そういうところが好きだった。
誠ちゃんに何も言えないまま、ぼくは誠ちゃんを見送った。
スーパーに寄って紫苑さんの部屋に帰ると、ぼくは夕飯を作る。紫苑さんはバーで賄いを食べるので、紫苑さんの分はいらない。
夕食を食べてシャワーを浴びて、少しだけ仮眠していると、紫苑さんが帰ってきた音で目が覚めた。
バーで男性と会っていたときには、心配になるくらい白い顔をしていたが、紫苑さんはいつもの血色に戻っていた。
玄関に駆け寄ってお帰りなさいのハグをするぼくを、紫苑さんが受け止めてくれる。
「先にシャワーを浴びてきていい?」
「うん、待ってる」
鳥かごのソファに、専用の小さな卓とホットミルクを持ち込んで紫苑さんを待っていると、濡れた髪にタオルを巻いた紫苑さんが戻ってきた。ホットミルクを飲みながら話をしてくれる。
「あの男は
長い付き合いだと匂わせていたが、大学時代からの知り合いだったのか。
「玲はおれを伴奏者に選ぶことが多くて、プロになってからも、おれは玲に何度も仕事を頼まれた」
「仕事仲間だったんだね」
「おれは玲のことは何とも思ってなかったんだけど、玲はそうじゃなくて……」
「話すのがつらいなら無理に話さなくていいよ? おれは今の紫苑さんが好きで、過去とか気にしてないから」
「話したいんだ。聞いてくれる?」
真剣な眼差しの紫苑さんに、おれは深く頷いた。
紫苑さんが二十代のころ、玲さんのコンサートの伴奏をして、打ち上げでものすごく飲んでいたときに、酩酊して意識を失ったのだそうだ。
そして、気が付けば玲さんと玲さんの当時の恋人の熱に流されてしまったという。
「すごく後悔して、その後、色んな相手と……」
自暴自棄になっていたのだと言う紫苑さんに、おれは間に挟まっていた卓を押し退けて紫苑さんを抱き締めていた。
「ありがとう、まどか。おれはおれが許せなくて、自分を壊したかったのかもしれない」
「話してくれてありがとう。そんな過去があったからこそ、今の紫苑さんがいるんだね」
「おれはまどかに相応しくない」
「そんなことない。ぼくに紫苑さんが相応しいかどうかは、ぼくが決めることだよ。同じように紫苑さんにぼくが相応しいかどうかは紫苑さんが決めて。紫苑さんにぼくが相応しくないなら、諦める。諦められないけど、身を引くよ」
抱き締めたまま言えば、紫苑さんがぼくの肩口に顔を埋める。タオルが解けて、湿った長い髪がぼくの肩に落ちてきた。そのひと房を摘まんで、ぼくは口付ける。
「大好きだよ」
「まどか……」
抱き上げられて、ぼくはベッドに運ばれる。
紫苑さんの方が身長は高いし、体重もぼくの方が少ないので、抱き上げられてしまうのは仕方なかった。
「まどかが欲しい」
「もう紫苑さんのものだよ」
熱っぽく掠れたようなハスキーな声で囁かれて、ぼくは紫苑さんに両腕を広げてみせた。
紫苑さんはぼくに口付けて、ぼくは紫苑さんに導かれるまま、全てを委ねた。
紫苑さんはぼくの全てを受け止めてくれた。
濃厚で、夢のような夜だった。
そのまま眠ってしまったぼくは、朝になって紫苑さんに体も拭かれているし、パジャマも着せてもらっていることに驚きはしなかった。
紫苑さんはぼくと抱き合った後は必ずこうしてくれる。
眠る紫苑さんを起こさないようにベッドから出て、シャワーを浴びて着替えて、キッチンに立つ。
紫苑さんには昼食用に、ぼくには朝食用に、パンにケチャップを塗って、ベーコンや玉ねぎやピーマンを乗せて、上にチーズをたっぷりとかけたピザパンを作って、ぼくの分はトースターで焼いて、紫苑さんの分は焼かないで冷蔵庫に入れた。
『紫苑さんへ。
冷蔵庫にピザパンがあります。トースターで焼いて食べてね。
大好きです。
円』
書置きをして出かけるときに、後ろ髪引かれたけれど、眠っている紫苑さんを起こすことはできなくて、ぼくは我慢して、大学に行った。