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6.紫苑さんのピアノ指導

 紫苑さんが過去を語ってくれた日から、ぼくと紫苑さんの関係は深くなった気がした。

 ぼくは前よりも紫苑さんを好きになったし、紫苑さんもぼくに心許してくれている気がした。


「まどかは、男前だから」

「そんなことないよ」

「おれの過去も受け止めてくれた。まどかと一緒にいると、おれは救われたような気分になる」


 ぼくと紫苑さんの休みが重なった日、紫苑さんは昼食を食べながらしみじみと言っていた。

 紫苑さんはあれから色んな話をしてくれるようになった。


 小さなころから紫苑さんは掠れたようなハスキーな声で、大きな声が出なくて困ったこと。

 そんな声だから歌うのが苦手でコンプレックスだったこと。

 ピアノを弾いていれば喋らなくていいと気付いて、ピアノにのめり込んでいったこと。


 紫苑さんの過去を聞くのは楽しかった。


 昼食を終えると、手を洗った紫苑さんが電子ピアノの前に座った。

 いつもなら楽譜を広げて練習に没頭するのだが、今日はぼくの方を振り返っている。食器を食洗器に入れたぼくは、手を拭いて紫苑さんのところに歩いて行った。フローリングの床を裸足で歩くのももう慣れた。


「まどかは、好きな曲はないの?」


 問いかけられて、ぼくは名前の分からない曲を口にする。


「なんていうか、たたた、たたた、たたた、たたたん、たたた、たたた……みたいな」


 口ずさむと紫苑さんはすぐに分かったようだ。


「それはバッハの『主よ、人の望みの喜びよ』だね。いい曲だ」

「紫苑さんも好き? これ、保育園のときに先生が弾いてくれてた気がするんだよね」


 保育園では給食の配膳の時間は集中するためにあまりお喋りはしてはいけないことになっていた。その間退屈しないように、先生はこの曲を弾いてくれていた。


「センスのいい先生だ。これは片手だけならそれほど難しくないよ。弾いてみない?」

「でも、ぼく、楽譜も読めないよ?」


 ぼくが遠慮していると、紫苑さんが立ち上がってぼくの両脇に手を差し入れて、ぼくを膝の上に乗せてしまった。

 電子ピアノを前にぼくが戸惑っていると、紫苑さんが手を重ねるようにして鍵盤を押さえる。


「最初の音から弾くよ。見てて」


 紫苑さんの体温と匂いに、胸が高鳴るぼくに、紫苑さんは丁寧に「主よ、人の望みの喜びよ」の右手だけの演奏を教えてくれた。

 確かにそれは紫苑さんにしてみれば難しくないのかもしれないけれど、初めてピアノを触るぼくには相当難しかった。


「紫苑さん、無理だよ」

「大丈夫、ピアノは一番簡単な楽器なんだ。押せば音が出るからね」

「それはどの楽器も同じじゃないの?」

「クラリネットとか、吹いても音が出ないことがよくあるよ」

「そうなんだ」


 ピアノが簡単な楽器と言われて、ちょっと勇気づけられた気がして、ぼくは必死に紫苑さんの指を追って行く。紫苑さんの手とぼくの手が重なって、心拍数が上がる。

 じゃれるようにして弾いていると、確かにある程度は弾けるようになってきた。


「おれがいないときも弾いていいから」

「紫苑さんの大事なピアノなのに?」

「大事だから、まどかに弾いてほしい」


 そんなことを言ってくれる紫苑さんに、ぼくは甘えたようにねだってしまう。


「いつか、この曲をぼくのために弾いてくれる?」

「約束するよ。まどかのために弾く」


 紫苑さんの言葉に胸が温かくなって、ぼくは振り向いて紫苑さんに抱き着いた。


 その日は穏やかに過ぎて行った。

 かなり思い詰めていた様子の誠ちゃんのことは心配だった。誠ちゃんは一人で傷付いていないだろうか。恋人にはなれないが、誠ちゃんはぼくの大事な親友で幼馴染に違いなかった。

 でも今は、紫苑さんと過ごす休日は少ないのだから、紫苑さんに集中することにする。


「夕飯の食材がないな。買いに行く? 食べに行く?」

「買いに行く!」


 外食は落ち着かないし、紫苑さんとせっかく二人きりなのだからゆっくり過ごしたい。ぼくが答えると、紫苑さんはエコバッグと財布の入ったボディバッグを持って玄関の方に向かった。ぼくも一緒に玄関に向かう。


 ドアを開けようとしたときに、インターフォンが鳴った。

 警戒するぼくに、紫苑さんは一度戻って、インターフォンの相手を確かめる。

 紫苑さんの表情が硬くなった。


「ごめん、まどか、一緒にいてくれる?」

「もちろん」


 ぼくが答えると、紫苑さんはエコバッグとボディバッグを置いて、玄関のドアを開けた。

 そこには玲さんと、ぼくより少し背の低い女性が立っていた。


「マネージャーを通せと言ったから連れてきたぞ」

「電話で済む話だろう?」

「電話で済ませるつもりなのか? リハーサルも、練習も?」

「そういうことは言ってない」


 揚げ足を取られて紫苑さんは嫌そうな顔をしていた。

 もう一人の女性は紫苑さんのマネージャーさんのようだった。


「新井さん、久我さんからオファーが入っていまして」

「その話は聞きました。秋の公演でしょう?」

「新井さんのリサイタルが近いので、それが終わってからと話をしたのですが、聞いてもらえなくて」

「そういう男ですからね、そいつは」


 苦々しく告げる紫苑さんに、ぼくは「お茶でも入れる?」と問いかけたけれど、紫苑さんは「いらないよ」と答えた。

 そういえば紫苑さんの部屋には、テーブルにも椅子が二脚しかないし、ソファは鳥かごのようなものしかない。

 玲さんとマネージャーさんを座らせる場所がないのだ。


「部屋に誰かを上げるのは嫌いなんだ」

「その坊やは特別なのか?」

「坊やじゃないです。高槻円っていう名前があります、久我玲さん」


 ぼくが名乗ると、玲さんは戸惑っている様子だった。


「なんだ、こいつ」

「恋人の仕事相手を無碍にできませんからね。紫苑さんがお世話になっています」


 玲さんとマネージャーさんに頭を下げると、紫苑さんがふっと顔を緩めて笑顔になった。


「まどかったら、男前なんだから」

「ぼくは紫苑さんの仕事は応援したいからね」


 どれだけ玲さんが嫌な奴であっても、マネージャーさんを連れてきたのだったら仕事の話に違いないだろう。仕事の話にぼくは口を挟むつもりはなかったし、紫苑さんには活躍してほしい気持ちがある。

 それが玲さんのコンサートであってもだ。


「マネージャーの柚木ゆずきと申します。初めまして」

「紫苑さんとお付き合いをさせていただいています、高槻です」

「新井さんにこんないい方が……。新井さんは恋人関係で悩むことが多かったので」


 嬉しそうにしているマネージャーさん……柚木さんは紫苑さんとの付き合いが長いのだろう。年齢は紫苑さんより上に見えた。


「新井さんが大学を卒業した年からマネージャーとして働かせてもらっています。新井さんはいくつものコンクールで賞を取っている素晴らしいピアニストなんですよ」

「そうだと思いました。演奏がいつも素晴らしいので」


 柚木さんとは仲良くなれそうな気がする。

 ぼくが柚木さんと話していると、玲さんが不機嫌そうに玄関で突っ立っていた。


「秋の公演の件、頼んだからな」

「仕事はちゃんとこなすよ」

「早くおれの元に戻ってくるんだな」

「それだけはないかな」


 あっさりと振られても、諦めそうにない玲さんを、ぼくは紫苑さんと共に見送った。

 玲さんが帰った後で、柚木さんが謝ってくる。


「新井さんは自宅に来られるのがお好きじゃないのに、すみません」

「あいつが無理やり来たんでしょう。柚木さんのせいじゃない」

「止めようとしたんですが、無理でした」


 ぼくより二十センチは大きな玲さんを止めるのは、女性にしては長身とはいえ、柚木さんには難しかっただろう。ぼくが同情していると、柚木さんはぼくに向かって「新井さんをよろしくお願いします」と頭を下げて帰って行った。


「よろしくされちゃった」

「おれが付き合った中で一番いい男だからね」

「そ、そうなの?」

「まどかは男前で、おれの過去も受け止めてくれて、最高の男だよ」


 肩を抱かれて、甘えるように頬を寄せられて、ぼくは胸がドキドキしてしまう。

 紫苑さんにとってぼくが付き合った中で一番いい男なんて、紫苑さんはこれまで男運が悪かったのではないだろうか。

 紫苑さんの苦労を考えるとぼくは涙ぐんでしまう。


「紫苑さんに出会えてよかった」

「おれも、まどかに出会えてよかった……」


 いつまどかがおれに愛想を尽かしても、この思い出だけで生きられそうだ。


 そんなことを言われて、ぼくは紫苑さんに向き直る。


「愛想を尽かすなんて言わないで。ぼくは紫苑さんとずっと一緒にいたい」


 それくらい紫苑さんが好きで好きで堪らなかった。


「おれなんて、これから老いていくだけだよ。まどかにはもっといいひとが現れるかもしれない」

「紫苑さん以上にいいひとなんていない」


 紫苑さんが一番好き。


 繰り返すぼくに、紫苑さんはため息をついて、「まどかには敵わない」と囁いた。


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