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7.突然の別れ

 紫苑さんの部屋で紫苑さんの帰りを待っていると、眠ってしまったようだ。

 ぼくが起き上がって、時計を確認すると、午前二時を過ぎている。そろそろ紫苑さんは帰ってきてもおかしくない時間なのに、部屋には紫苑さんの姿がない。

 不思議に思っていると、玄関の外からよく響く声が聞こえてきた。

 玲さんだ。

 声楽家だから、声がよく通るのだ。


 紫苑さんに絡んでいるのかと思って玄関の方に走って行くと、玲さんの喋る声が聞こえた。


「あのときも、紫苑はおれを捨てて行った。あの子にも同じ思いをさせるのか?」

「捨てた覚えはない。そもそも、お前とは伴奏者と声楽家との関係でしかない」

「おれと彼女で紫苑の熱に溺れた後、紫苑はおれに冷たくなった」

「ずっと同じ態度だ」

「違う。学生時代におれの伴奏をしてくれていた紫苑はそうじゃなかった」


 縋るような玲さんの言葉を、紫苑さんは徹底的に否定している。

 ドア越しに聞こえる声に、ぼくは紫苑さんを助けなければとドアノブに手をかける。


「あの坊やがそんなに大事か? 後十年もすればおれもお前も五十。あの坊やは若い男盛りで、お前を捨てていくぞ?」

「それでも構わない。まどかは今のおれを好きでいてくれている」


 構わない?

 紫苑さんはぼくに捨てられると思っているの!?


 ぼくは紫苑さんとずっと一緒にいたいし、紫苑さんのことを深く強く思っているのに、紫苑さんはぼくに捨てられてもいいくらいの気持ちしかないのだろうか。

 悲しみに胸が痛くなって、ぼくはドアを開けられなかった。


「紫苑、お前にはおれしかいないんだよ」

「違うよ、玲。おれたちは最初から間違ってしまったんだ。あの夜のことが、おれもお前も彼女も傷付けた」


 静かな掠れたようなハスキーな紫苑さんの声に泣きたい気持ちになる。

 今すぐにでも紫苑さんの前に飛び出して、抱き締めてあげたいのに、ぼくにはそれができない。


「あの後、おれは自暴自棄になって、色んな相手の元を彷徨った。そんな過去すら、まどかは受け入れてくれた」

「おれだって、紫苑に打ち明けられたら、同じことをする」

「違うんだ。全然違う。まどかの無垢な目は、おれを鏡のように映しだして、おれの傷口を教えてくれて、癒そうとしてくれる」

「紫苑、お前が好きなんだ!」


 紫苑さん……。


 ぼくはこんなところで怖気づいている場合ではない。

 すぐにでも紫苑さんのもとに駆け付けなければ。


 ドアを開けると、紫苑さんが玲さんに抱き締められている。振り解こうとしても、体格差があるので難しいのだろう。ぼくは紫苑さんの腕を引っ張った。


「紫苑さん、帰ろう」

「まどか……」

「悪いが取り込み中なんだ。一人で帰ってくれ」


 あくまでも紫苑さんを放そうとせずに告げる玲さんに、ぼくは向き直った。


「紫苑さんを傷付けるまでは、あなたと紫苑さんはいい友人だったんでしょう? 紫苑さんを愛してくれてありがとうございます。でも、これからはぼくが紫苑さんの過去ごと、全部受け止めます」


 丁寧にお辞儀をすると、玲さんは驚いたように黒い目を見開いていた。

 その腕が力なく垂れて、紫苑さんを解放する。


「なんなんだよ……この坊やは」

「まどかは、本当の強さを持っているんだ。おれはまどかに何も与えられていないのに、まどかはおれにたくさんのきらきら光るものをくれる。それが希望とか、好意とか、そういうものなんだって、おれはやっと分かって来た」


 静かな声で告げる紫苑さんの声に、玲さんが苦笑している。


「坊やに紫苑を抱えられる強さがあるといいけどね」


 負け惜しみのように言って、立ち去る玲さんに、ぼくはもう玲さんは紫苑さんに絡んでこないのではないかと思っていた。

 解放された紫苑さんに抱き着こうとすると、玄関の中に押し込められて、力強く抱き締められる。


「まどか、ありがとう」

「紫苑さん……」


 紫苑さんがあんな風にぼくのことを思っていてくれただなんて、ぼくは幸せで紫苑さんを強く抱き返した。


 翌日、大学に行くと講義室で誠ちゃんが横に座ってきた。今日の講義は教養科目で、栄養学部も情報学部も一緒なのだ。

 講義を聞きながらノートを取っていると、誠ちゃんがノートの端に文字を書いてきた。


『円、ごめん』

『どうしたの?』

『円と一緒にいないとさびしい。親友に戻りたい』


 誠ちゃんの文字にぼくは花丸を付けて返事をした。

 講義が終わって食堂に移動すると、誠ちゃんが口を開く。


「円がいないときにバーに行ってみたんだ。それで、あのひとの話を聞いた。腐れ縁の声楽家に執着されてて、そいつのせいで傷付いて色んなひとと……」

「誰が教えてくれたの?」

「バーテンダーさん」


 誠ちゃんは誠ちゃんで、紫苑さんの真実を探っていたようだ。

 誠ちゃんが納得できる形になったのならば、それでいいのかもしれない。


「円に告白したら関係が壊れるのが一番怖かった。戻れるなら、戻りたい」

「誠ちゃんはぼくの親友で、幼馴染だよ」


 ぼくが答えると、誠ちゃんは安堵したように微笑んでいた。


 その日、紫苑さんの部屋に帰ると、珍しく紫苑さんがぼくを待っていた。

 灯りのついていない暗い部屋で、紫苑さんはぼくの手を引いて、衝立の向こう側へと導いた。

 紫苑さんに受け止められるまま、ぼくは紫苑さんに溺れる。紫苑さんの香りがして、ぼくは紫苑さんに夢中になっていた。


 シャワーを浴びて着替えようとすると、パジャマではなくて普段着が脱衣所に置いてあった。ぼくはパジャマを置いたつもりなのに、紫苑さんが取り換えたのだろう。

 何か意味があるのかと思ってぼくがパジャマを着て脱衣所から出れば、紫苑さんは真剣な顔でぼくに手を差し出してきた。


「合鍵を、返してほしい」

「それって、どういうこと?」

「まどかはおれの全てを受け入れてくれる。おれは、そんなまどかに相応しくない」

「そんなことない! それを決めるのは紫苑さんじゃなくて、ぼくでしょう?」

「まどか、お願いだから、困らせないで」


 紫苑さんの薄い色の瞳が揺れている気がした。

 あまり表情に感情を出さないひとなのに、紫苑さんは今日はおかしい気がする。


「誰かに何か言われたの?」

「まどかは、おれと付き合っていって、どうするつもり? おれのこと、家族にも紹介できない、子どももできない、ずっと年上でまどかよりも先に老いていく。最後にはまどかを置いていくかもしれない」

「そんなの分からないよ。人間なんていつ死ぬか分からないんだからね。ぼくが先かもしれない」

「それだったら、なおさら、その後おれは生きていけない」


 紫苑さんは何を言っているのだろう。

 ぼくたちはお互いに想い合っていて、それを今も確かめ合ったはずなのに、ぼくは紫苑さんから別れを切り出されている。


「紫苑さん、何がそんなに怖いの? ぼくは紫苑さんのこと家族にも紹介できるよ。友達にだって紹介できる」

「おれが嫌なんだ。ごめん、まどか」


 頭を下げられて、ぼくはどうすればいいのか分からなくなる。

 差し出された紫苑さんの手の平の上に合鍵を置いて、部屋を出たのまでは覚えていた。


 その後、ぼくはどうやって自分の部屋に戻ったか分からない。

 夏も近いのに、部屋の中は酷く広く、寒く感じられた。

 荷物を投げ出して、ぼくはベッドに倒れ込む。

 先ほどまで触れ合っていた紫苑さんの匂いが、ぼくの体にはまだ染みついているようだった。


「紫苑さん……どうして」


 呟くと涙が滲んでくる。

 ぼくより二十歳も年上の美しいひとに恋をした。

 お互いに想い合って幸せだと信じていた。


 それが一夜にして覆された。


「紫苑さん……紫苑さん……」


 ぼくはまだこんなにも紫苑さんが好きだ。

 諦めきれなくて、ぼくはシーツを握り締めて嗚咽を堪えていた。

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