ぼくの誕生日は春の終わりで、紫苑さんと過ごした日々は夏の始まり。
そして、真夏になって、ぼくは紫苑さんと連絡を取ることもなく、バーに行くこともなく、元の生活に戻っていた。
ぼくが失恋したことについては、多分誠ちゃんしか知らない。
そもそも、ぼくが紫苑さんと付き合っていたことを知っているのも誠ちゃんだけだ。
頻繁にぼくの部屋に遊びに来ていた誠ちゃんは、ぼくが紫苑さんの部屋に入り浸るようになったことにいち早く気付いていた。
紫苑さんに会いたい。
ずっとそう思いながらも、抜け殻のような日々を送っているぼくに、連絡がきたのは、大学が夏休みに入ってからだった。
実家に帰る気も起きず、エアコン代を節約して、大学の図書館に通い詰めていたぼくは、スマホの着信に気付いて、図書館から出た。
外はセミが鳴いていてうるさく、知らない番号からかかってきた電話に、ぼくは暑さで思考力を失っていて出てしまった。
聞こえたのは女性の声だった。
『新井さんのマネージャーの柚木です』
「柚木さん!?」
落ち着いた大人の女性の声は聞き覚えがあって、紫苑さんの部屋に玲さんが押しかけて来たときに一緒にいたマネージャーの柚木さんだった。
「どうしたんですか?」
『大変お手数ですが、一度会っていただけませんか? 新井さんのことでお話があります』
そう言われれば、紫苑さんを全く諦めていないぼくは、柚木さんが指定した店に行くしかなかった。
指定されたのは静かなカフェで、建物は古いが趣がある。皮張りのソファに腰かけると、柚木さんがぼくにメニューを見せる。
ただのコーヒーが八百円もする!?
有名なコーヒー店の甘い生クリームを乗せたようなコーヒーやフラペチーノがそれくらいの値段するのは当たり前なのだが、ただのコーヒーがそんな値段のお店には入ったことがない。
他のメニューもぼくが想定しているよりずっと高かった。
「ぼく、お水でいいです」
「経費で落としますので、気にせず頼んでください」
つまり、柚木さんの奢りってことでいいのだろうか?
恐る恐るコーヒーを頼もうとすると、柚木さんがメニューのページを捲ってクリームソーダのページを指し示した。それはコーヒーより高かったけれど、実のところ紫苑さんの入れてくれたミルクが半分のコーヒー以外は美味しいと思えなかったから、甘えてクリームソーダを頼むことにした。
「紫苑さんからぼくの好みについて聞いてましたか?」
「コーヒーが苦手らしいということは分かっていました」
その理由を柚木さんが教えてくれる。
紫苑さんと柚木さんがコーヒーを買ったときに、何気なく、「ミルクは半分?」と聞かれたらしいのだ。
「多分、わたしと高槻さんを間違えたんでしょうね」
「あぁ……」
紫苑さんはぼくを忘れていない。
そのことがこんなに嬉しいなんて。
「紫苑さんは元気なんですか?」
「鬼気迫る様子で、リサイタルの練習をしています。家では電子ピアノしか使えないので、リサイタルのためにグランドピアノのある音楽室を借りているんですが、そこにこもりっきりで、水も飲まずに集中していることがあります」
それは、元気なのではないのでは?
ぼくが思っていると、柚木さんがため息をつく。
「新井さんは、久我さんとの件で傷付いて、自暴自棄になっていた時期がありました。そのときに、ご家族とは絶縁しているみたいで」
「そうなんですか?」
「新井さんの荒れた姿をご家族は受け入れられなかったようで、二度と家に戻ってくるなと言われたそうです」
柚木さんの言葉にぼくは納得する。
それで、紫苑さんは急にぼくに、家族に紹介できるのかとか聞いてきたのか。
ぼくは紫苑さんのことを何一つ隠すつもりもなかったし、家族が反対したら紫苑さんと二人で生きていく覚悟もしていた。
それなのに、紫苑さんはぼくを傷付けるのが怖くなったのだ。
「紫苑さんはどこにいるんですか?」
「リサイタルが近いので、バーの仕事は休んで、音楽室と家とを往復しているはずです」
「音楽室の場所を教えてください」
柚木さんに音楽室の場所を教えてもらって、ぼくは紫苑さんに会いに行った。
市民会館の音楽室は防音なのでドアが重く、ノックしても中に聞こえない。
思い切ってドアを開けた瞬間、ものすごいピアノの音が溢れ出してきた。
紫苑さんの命を削るような演奏に、ぼくは胸が痛くなる。
「紫苑さん」
「まどか?」
ぼくが声をかけると、紫苑さんはピアノを弾く手を止めてぼくの方を見た。結んでいない緩やかに波打つ薄茶色の髪が、さらさらと紫苑さんの肩を流れていく。
「どうしてここに?」
問いかける紫苑さんは最後に会ったときよりも痩せて、目も落ちくぼんでいる気がする。
「紫苑さんに会いに来たんだよ」
「もう終わったはずだ」
「紫苑さんの中では終わったのかもしれないけど、ぼくはずっと紫苑さんのことを考えていた。紫苑さん、あなたの話が聞きたい」
柚木さんから大まかには聞いていたが、ぼくは紫苑さんの口から紫苑さんが怖いと思っていることを聞きたかった。
紫苑さんの前に立つと、紫苑さんの髪を撫でて、顔がよく見えるようにする。紫苑さんの色白の顔は、前よりももっと色素が薄く、顔色が悪く見えた。
「ぼくに家族のことを聞いたでしょう? ぼくは紫苑さんのことを家族に隠すつもりはないし、紫苑さんを否定されたら、家族を説得するつもりもあるし、それでも理解してもらえなかったら、紫苑さんと二人きりで生きてもいいって思ってるよ」
「まどか、そんなこと……」
「ぼくはもう成人してるんだよ。お酒だって飲める。大学の学費も奨学金をもらえば払っていけるだろう。ぼくは紫苑さんより年下で子どもに思えるかもしれないけれど、一人前の男として扱ってよ」
ぼくの訴えに紫苑さんが力なく微笑んだ。
「一人前の男と思ってなければ、あんなことしてない」
「紫苑さん、柚木さんから聞いたよ。ご家族のこと」
「聞いたのか……。おれの自業自得だからどうしようもないけど、まどかにはそんな風になってほしくない」
「なるかどうかは分からないでしょう? もしもそうなっても、ぼくは紫苑さんを選ぶよ」
そこまで言ってぼくはこれまで紫苑さんに言えていないことがあったのを思い出した。
恥ずかしくて、照れくさくて、紫苑さんにぼくは、愛してると言えていない。
「紫苑さん、愛してる。紫苑さんのこと、愛してるんだ」
「まどか……」
椅子に座ったままの紫苑さんの頭を抱え込むように抱き締めると、紫苑さんがぼくのお腹の辺りに顔を埋めて目を閉じている。
薄茶色の紫苑さんの睫毛がとても長くて、ぼくは見ているだけでドキドキしてしまう。
「ごめん、今はまだその言葉は言えない。でも、まどか、おれのリサイタルに来てくれる?」
「いいの?」
「チケットを受け取ってほしい。まどかに聞いてほしいんだ」
紫苑さんから受け取ったチケットは二枚あった。
それがどうしてなのか、ぼくには聞かなくても分かるような気がした。
「合鍵、もう一度欲しいな」
「リサイタルが終わったら」
「分かった。待ってるよ」
紫苑さんの長い髪をかき分けて、ぼくは紫苑さんの額に口付けを落とした。熱中していて汗をかいていたのか、紫苑さんの額はちょっとしょっぱかった。
「紫苑さん、愛してる」
この気持ちは変わることがない。
「紫苑さんが五十になっても六十になっても、七十になっても、愛してる」
「そんなの……」
「ぼくには分かるの。ずっとずっとずっと、愛してる」
誓うように言って、ぼくはチケットをバッグに入れて音楽室を出て行った。
行きたい場所がある。
ぼくは音楽室を出ると、厳重にドアを閉めて、スマホを取り出して実家に電話をかけていた。