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9.ぼくの実家

 夏休みなので学生のぼくが実家に帰るのは何もおかしいことではない。

 実家に帰ると、両親と弟ののどかが家にいた。

 帰省することは伝えていたので、三人ともぼくを待っていてくれた。


 実家に帰ったぼくが始めにしたことは、両親と弟に紫苑さんのことを説明することだった。

 テーブルに着くと、母が冷えた麦茶をグラスに注いで出してくれる。ぼくの家は夏場はいつもそうなのだ。

 麦茶を一気に飲み干してから、ぼくは口を開いた。


「ぼく、好きなひとがいるんだ。お付き合いしてて、そのひとと一生一緒にいたいと思ってる」


 ぼくが打ち明けると、両親も和も驚いてはいなかった。


「わたしも円の年にお父さんと出会ってるから、そうじゃないかと思ったのよ」

「相手はどんなひとなんだ?」


 両親に聞かれてぼくは説明する。

 麦茶を飲んだばかりなのに、緊張で喉がからからになってきていた。


「二十歳年上の男性」


 ちょっと端的に言いすぎただろうか。まずはこのことを知っていてもらわないとどうしようもない。

 覚悟を決めて口に出したぼくに、さすがに両親は驚いた。


「円は男性が好きなの!?」

「二十歳も上なのか……円、騙されてないか?」


 母の驚きも父の心配ももっともだと思ったので、ぼくは丁寧に紫苑さんのことを話すことにした。

 紫苑さんとの出会いも、初めての夜も話せるわけがないので、そこらへんは省略する。大事なことだけ伝わればいい。


「二十歳も上だから、色んなことを経験していて、すごく傷付いたこともあったみたいなんだ。家族とも絶縁されてるみたいだし。ピアニストで、音楽に真剣に向き合っていて、素晴らしいひとで、そんなひとだからこそ、ぼくはずっとそばにいたいと思った」

「円のお嫁さんは見られないってわけね」

「円、そんな年上のひとでいいのか?」

「年上だからこそ、その人生も、傷も、全部含めて愛したんだよ」


 両親の動揺した声に、宥めるようにぼくが言えば、それまで無言だった和が口を開いた。


「父さん、母さん、お嫁さんはおれがもらってやるよ。孫の顔も見せてやる。兄ちゃんは、小さいころからおれの面倒を見てくれて、父さんと母さんが忙しいときも、おれのそばにいてくれた。その兄ちゃんが選んだひとなんだよ。兄ちゃんを信じよう?」


 心強い和の言葉に、ぼくは涙ぐんでしまう。

 両親も最初は戸惑っていたようだが、和の言葉を聞くうちに落ち着いてきたようだった。


「そうね、円はうちの自慢の息子だものね」

「円が選んだひとに間違いはないだろう」

「円、今度そのひとをうちに連れていらっしゃい」

「おれも会いたいな」


 紫苑さんのことに対して前向きになってくれた両親に、ぼくはものすごく感謝していた。なにより、まだ高校生で子どもだと思っていた和が、ぼくのことをそんな風に思ってくれていただなんて。


 このことを一番に紫苑さんに伝えたかったけれど、今はまだ紫苑さんに連絡を取るべきときではないと我慢する。

 紫苑さんはリサイタルに向けて猛練習中なのだ。


 お腹を空かせていないだろうか。

 ちゃんと眠っているだろうか。


 心配になってくるけれど、今は紫苑さんのためにも、ぼくのためにも、距離と時間を置くことが必要だと分かっていた。


「そのひとのリサイタルがあるんだ。一緒に行かない?」


 チケットは二枚しかもらっていなかったので、両親と和の分には足りないが、ぼくが誘ってみると、父がネットでリサイタルのことを調べて、すぐに三人分のチケットを確保してしまった。

 さすが、仕事のできる父は行動が早い。

 両親ともに仕事が忙しくて、和と二人、家に取り残されていたときには恨んだこともあったが、今は両親もそれだけ働かなければ息子二人を大学まで行かせられないと頑張っていたのだと分かる。

 和は今高校一年生だが、大学の進学を望んでいると聞いている。


「円の好きなひとの演奏を聞いてみよう」

「何を着ていけばいいのかしら」

「いつも通りでいいんじゃないか?」

「ダメよ、リサイタルは特別な場所なんだから」


 紫苑さんのピアノリサイタルのことを両親が話しているのを聞いて、ぼくも不安になってくる。

 ぼくは服はボタンのついた開襟シャツとTシャツくらいしか持っていないし、ボトムスはジーンズくらいしか持っていない。


「ジーンズじゃダメかな?」

「ジーンズは労働者の着るものよ。リサイタルの席には相応しくないわ。なにより、円はその方の恋人なのでしょう?」


 そうだった。

 紫苑さんがタキシードを着て演奏するのに、ぼくがTシャツにジーンズというのはあまりにも釣り合わないだろう。

 何を着ていくかぼくが迷っていると、両親がぼくに声をかけてくれた。


「大学の入学式のときに着たスーツがあったじゃない?」

「あれはいいんじゃないか」

「スーツ! まだ着れるかな?」


 大学の入学式から一年と少ししか経っていないし、ぼくは体型が変わった気はしていないので多分スーツは着れるだろうが、それが似合うかどうかは分からない。


「和はどうするの?」

「おれは制服でいいんじゃない?」

「あ、ずるい! 高校生は制服があるからいいよな」


 確かに制服だったらリサイタルに行ってもおかしくはない恰好な気がする。

 クリーニングに出して、実家に置いていたはずのスーツを取り出して着てみると、ネクタイの結び方を忘れている。それに、長袖のYシャツの上にジャケットでこの季節だととても暑い。

 音楽ホールはエアコンが効いているだろうが、そこに行くまでに溶けてしまいそうな気がする。


 ぼくがスーツの暑さにげっそりとしていると、両親が折衷案を出してくれた。


「半袖のYシャツを買って、それを着て、ノーネクタイで、ジャケットは持っているだけにすればいいんじゃないかしら」

「クールビズの時代だからそれでも許されそうな気がするな」

「ジャケットは音楽ホールに入ってから着ればいいんじゃない?」


 両親の助言に、ぼくはその通りにさせてもらおうと決めた。

 スーツを持って、実家から自分の部屋に戻ると、ぼくは誠ちゃんに連絡していた。

 紫苑さんがチケットを二枚くれた理由。それは、誠ちゃんも誘えということではなかったのだろうか。


 誠ちゃんとは大学の図書館前で会った。

 蝉の大合唱が聞こえる中、ぼくは誠ちゃんに紫苑さんのリサイタルのチケットを一枚差し出した。


「これは?」

「紫苑さんのピアノリサイタルのチケット」

「どうして、ぼくに?」

「一緒に行こう」


 親友に戻ったといっても、誠ちゃんはぼくに告白した事実は変わらなくて、前のように誠ちゃんは気軽にぼくの部屋に遊びに来なくなっていた。

 でも、ぼくは誠ちゃんと前のように仲良くなりたい。関係を戻したいと思っている。


「ライバルの演奏を聞きに行くなんて、なんだかおかしい」

「最初にあのバーに行こうって言ったのは誠ちゃんだよ。ピアノに興味があったんでしょう?」


 ぼくがチケットを差し出したままの手を引っ込めずに言えば、誠ちゃんは小さくため息をついた。


「リサイタルとか、何着ていけばいいの?」

「それ、ぼくもものすごく悩んだ」

「やっぱり、ドレスコードみたいなのがあるわけ?」

「特別な場所だから、それなりの格好はしていかないといけないみたい」


 ぼくの答えに、チケットを受け取りながら誠ちゃんが小声で聞いてくる。


「円、何着るの?」

「スーツのスラックスに、半袖のYシャツ。ネクタイは締めなくて、ジャケットは手に持って行って、音楽ホール内で着ようと思ってる」

「ぼくも同じようにしようかな」

「誠ちゃんはそこまでしなくていいかも」

「なんで?」

「ぼくは紫苑さんの恋人だから、ちゃんとした格好をするだけで」


 問い詰められてぼくが言えば、誠ちゃんは黒い目を丸くした。


「振られたんじゃなかったの?」

「恋人だと思う、多分」


 確実なことは言えないけれど、紫苑さんはぼくにリサイタルのチケットをくれて、リサイタルが終わったらぼくに言いたいことがある様子だった。

 ぼくは恋人のつもりでいるけれど、紫苑さんが今どう思っているのかは分からない。

 分からないけれど、ぼくは紫苑さんを信じたかった。


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