夏休みも終わりのころに、紫苑さんのピアノリサイタルが行われた。
クラシックコンサートも行われる広い音楽ホールで、自由席だったがかなり早く行ったのに前の方は埋まっていた。
ぼくは真ん中くらいに座って、横に誠ちゃんが座った。
両親と和は、もう少し後ろの席に座っているはずだった。
音楽ホールに来る途中、暑くて、ペットボトルのミネラルウォーターを買って来ていた。
天井のドーム状になった音楽ホールの椅子に座ってペットボトルの蓋を捻って開けていると、結構硬くて力が必要だった。
二人で迎えた初めての朝に、紫苑さんがペットボトルの蓋を開けてくれたことを思い出す。あのときから紫苑さんは細やかな心遣いができて優しかった。
水を口にすると、一気に半分くらい飲んでしまう。
自分が本当に乾いていたのだと実感しつつ、ペットボトルをバッグに入れると、誠ちゃんがぼくの方をちらちら見ているのが分かった。ぼくは両親と決めた通りに半袖のYシャツにノーネクタイで、スーツのスラックスをはいて、ジャケットを手に持っている。誠ちゃんは半袖のきれいめの開襟シャツにスラックス姿だった。
会場内はエアコンが効いていて少し肌寒い。大量にかいた汗が引いていくのと同時に寒さも感じたので、ぼくはジャケットを羽織った。
後ろの方を見ると、制服の和と、スーツの父、上品なワンピースの母がこちらを見ている。
手を振ると、手を振り返してくれた。
「円のお父さんとお母さんと和くん、誘ったんだ」
「うん、紫苑さんを知ってほしくて」
「なんだか紫苑さんが羨ましいよ」
ため息をついている誠ちゃんに、ぼくは軽くその背中を叩いて元気づける。誠ちゃんが最近、あのバーのバーテンダーさんを気にしていることをぼくは知っているのだ。
ぼくとのことは過去にして、誠ちゃんも先に進めたのかもしれない。
開演時間を待っていると、誠ちゃんがぼくに手を出すように示す。大人しく手を出したら、ぱらぱらとのど飴の小さな袋が降ってきた。
「演奏中に咳をするのはよくないから、よかったら舐めて」
「ありがとう」
複雑な気持ちはあるのかもしれないが、誠ちゃんは誠ちゃんでこのリサイタルに真剣な気持ちで向き合っているのが分かった。
開演の合図が鳴り、座席が暗くなる。
舞台の上が明るく照らし出されて、舞台の真ん中に置かれた艶のあるグランドピアノに、黒いタキシードを着た紫苑さんが真っすぐに歩いてきた。
今日は髪をきっちりと結んでいて、前髪も上げていてとてもセクシーで格好いい。
一礼すると、紫苑さんはピアノの椅子に座った。
楽譜は置いていない。
あれだけ猛特訓したのだから、全部暗譜したのだろう。
紫苑さんの演奏が始まると、会場を埋め尽くす客が紫苑さんに集中しているのが分かる。旋律は知っているが、曲名を知らないクラシックの曲を紫苑さんが弾きこなしていく。
あまりに上手で、ぼくは聞いている間息をするのも忘れそうになるくらいだった。
一曲弾き終わると、会場から拍手が沸き起こる。
紫苑さんはピアノの椅子から立ち上がって、一礼して、またピアノの椅子に座る。
次の曲も曲名は知らなかったが、聞いたことがある曲だった。
難しそうなその曲を紫苑さんの指が情熱的に表現する。紫苑さんは感情がどちらかといえば薄い方で、表情も豊かではないが、ピアノを弾くとこんなにも感情豊かになるのかと驚いてしまう。
二曲目が終わって、拍手が巻き起こり、三曲目、四曲目と順調にリサイタルは続いていた。
五曲目を弾き終わってから、紫苑さんは巻き起こる拍手の中、深く一礼して一度舞台袖に下がった。
会場の灯りが点いて、十五分の休憩が告げられる。
気が付けばリサイタルが始まってから一時間くらいが経過していた。
その曲も難しく長かったので、それくらい時間がかかったようだ。
ペットボトルのミネラルウォーターを飲み干して、水分がもうちょっと欲しかったのと、お手洗いに行きたかったので、ぼくは席を立つ。
お手洗いに向かっていると、両親と和から声をかけられた。
「円、あなたの大事なひとは素晴らしい音楽家なのね」
「すごい演奏だったよ」
「よく分からなかったけど、すごかった」
三者三様の感想を聞いて、ぼくは誇らしくなる。
「紫苑さんはすごいんだ」
「本当にあんなひとが円の恋人なの?」
「絶対にうちに連れてくるんだよ?」
両親に念を押されて、ぼくは頷いてからお手洗いに行った。
お手洗いは並んでいたけれど、スムーズに列が進んで、それほど時間はかからなかった。
お手洗いを済ますと、自販機でペットボトルのお茶を買う。蓋を開けて一口飲んで、その冷たさに演奏を聞いて火照っていた体が落ち着くような気がした。
席に戻ると、誠ちゃんが堪えきれないようにぼくに話しかけてきた。
「あの曲、すごかったよね。ものすごく早く弾いてるのに、音一つ一つがずれなくて、指も転ばなくて」
「誠ちゃん、もしかして、ピアノ習ってた?」
誠ちゃんが最初ピアノの生演奏目当てにあのバーに行ったときに、そうかなとは思っていたのだ。聞いてみると誠ちゃんは恥ずかしそうに笑っていた。
「実は二歳から中学に上がるまでピアノ弾いてたんだ。才能ないって分かったからやめたんだけど、ピアノはずっと好きだった」
「それであのバーに行きたがったんだ」
「そうなんだ」
誠ちゃんの行動がなければぼくと紫苑さんは出会えていないので、ぼくは純粋に誠ちゃんに感謝する。
再開の合図が鳴り響き、再び会場の灯りが落とされて、舞台に灯りが点る。紫苑さんが舞台袖からグランドピアノに向かって歩いてきた。
一礼してピアノの椅子に座ると、紫苑さんが再び演奏を始める。
クラシックに詳しくないぼくは、相変わらず曲名は分からないが、難しそうな曲だと思って聞いていると、曲調が変わってくる。
陽気だった曲が一転して、胸を締め付けるほど悲しい響きに感じられる。
こんな風に心を揺さぶられる演奏ができるのも、紫苑さんの技術が高いからだ。
一曲ごとにピアノの椅子から立ち上がって礼をしているが、拍手の音はどんどん大きくなっていく気がする。それだけ紫苑さんの音楽が客を魅了しているのだ。
ぼくはなんてすごいひとと付き合っているのだろう。
ぼくの好きなひとが素晴らしいピアニストで、ぼくは本当に誇らしかった。
もう何曲目かも分からないが、紫苑さんは疲れた様子も見せずピアノを弾き続けている。
最後まで弾き終えて、ピアノの椅子から立ち上がった紫苑さんに、盛大な拍手が送られた。
紫苑さんに花束を渡す客が壇上に上がって、紫苑さんはそれを受け取って、それでリサイタルは終わりかと思っていた。
しかし、紫苑さんは舞台袖に花束を置いてきて、マイクを持って戻ってきた。
「今日はわたしのリサイタルにお越しいただいてありがとうございました。今の曲で最後だったのですが、もう一曲だけ、わたしの我が儘で弾かせていただきたいと思います。お時間が厳しい方は、お帰りになって結構です」
アンコールでも起きそうな拍手だったから、紫苑さんの言葉に喜びの声が上がっても文句は出なかった。客も誰一人帰ろうとはしていない。
拍手で歓迎されて、紫苑さんがマイクを持って続ける。
「これは、わたしの愛するひとが好きな曲です。会場に来てくれていると思います。そのひとにこの曲を捧げます。臆病で真正面から向き合えなかったわたしの弱さすら愛してくれた、愛しい、まどかに」
ぼくに!?
そこまで言って、紫苑さんはマイクを舞台袖に返して、ピアノの椅子に座った。
最初の一音からこれだけははっきりと分かる。
紫苑さんが楽譜も読めないぼくのために、ぼくを膝の上に乗せて手を添えて教えてくれた曲だ。
明るく神聖な響きのその曲は。
バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』。
右手は簡単な旋律だと言っていたが、紫苑さんが弾くとこんなにも響きが違う。
紫苑さんの愛が伝わってくるような演奏に、ぼくは涙が止まらなかった。
ハンカチで目元を押さえるぼくに、誠ちゃんが背中をさすってくれる。
鼻水を啜る音が響かないようにするのが精一杯だった。
演奏が終わると、客が立ち上がって拍手をしている。スタンディングオベーションというやつだ。
紫苑さんがピアノの椅子から立ち上がって、何度も頭を下げている。
ときどき、会場の方を気にしている様子だが、ぼくは泣きすぎて立ち上がることもできなかった。
鼻水を啜りながら、ハンカチで目元を押さえているぼくの背中を、誠ちゃんが押す。
「円、行ってあげなよ。待ってるよ」
「え? でも……」
「円、紫苑さんが好きなんでしょう?」
こんなぐしゃぐしゃの顔で行けないと躊躇うぼくを立たせて、誠ちゃんが押し出した。
会場の通路の階段を駆け下りて、ぼくは花束を渡す客のために用意されていた階段から舞台に上がった。
もう我慢できなくて、紫苑さんの体に強く抱き着く。紫苑さんもぼくを抱き締めてくれた。
「まどかは、魔性の男だね。おれをこんなに夢中にさせて」
「え!? それは紫苑さんでしょう!?」
魔性の男なんて言われるとは思わなくて驚いていると、紫苑さんがぼくの体を抱き上げた。抱き上げられて、ぼくは紫苑さんに抱えられて舞台袖に入った。
「紫苑さん、ぼくの家族が来てるんだ。会ってくれる?」
抱えられたまま控室まで連れて行かれそうになったぼくは、紫苑さんにそっと囁く。
「おれでいいなら」
「紫苑さんがいいんだよ」
紫苑さんの答えに、ぼくはぎゅっと紫苑さんの首に腕を回して、紫苑さんの頬に口付けた。
タキシードの紫苑さんは近くで見ると壮絶な色気で、新郎のようで、今すぐにでも、ぼくは紫苑さんと永遠の愛を誓いたいと思っていた。