あれから1ヶ月。徐々に
プレドニンはその量を減らした場合“一時的な元気”はガクンと階段の足を派手に踏み外すぐらいの落ち込み方だ。それでも井園はこれまで患者を見てわかっていたのだろう。調子に乗って動き回らず体力を温存していた。苦しいこともあったがどうにかここまで来れたのだ。
「1ヶ月でゼロだなんて井園先生、すごいですね」
「ありがとう、けっこう……しんどいけどね。また寝たきりだ」
「あの発疹は一時的なものだったのかもしれませんね。プレドニンをうまく使えて良かったです。もう発疹も熱もなさそうですし。それにしても銀河先生の判断は、もうさすがって感じ」
そう言って点滴を交換する看護師に井園は尋ねる。
「今日は
「火曜日なので、いつもの午前外来ですよ」
「あ、そうだった……曜日感覚……もうないや」
「ふふふ、わかります。ではまた来ますね」
看護師が出て行った後、井園は布団の中でじっと午前が過ぎるのを待つ。早く銀河に来てほしい。プレドニンゼロまで頑張った自分を見てほしい……。
※※※
今日も「先生の色気がたまりません」と言われながら銀河はどうにか午前の診察を終了させた。井園がプレドニンゼロとなったので、あとはこのまま維持できればといったところだろうか。
――バタバタバタバタッ
誰かがものすごい勢いで走ってくる。振り返ると看護師が息を切らして銀河に叫ぶように言った。
「大変です井園先生が……! すぐに来てもらえますか?」
看護師の表情からして容態の急変しか思い当たらなかった。銀河は急いでエレベーターに駆け込み病棟にゆく。エレベーター内で考えを巡らす……免疫の暴走が再発したのか。だとすればまたプレドニンなのか。しかし――
プレドニンのようなステロイドはもう井園には投与したくなかった。あんなに頑張ったのだから。
医者としての冷静な判断ができていない自分に戸惑う銀河。やがてエレベーターが到着し早足で部屋へ向かう。
「井園っ……!」
「……」
「おい……井園っ! しっかりするんだ! 井園!」
「……」
井園は身体中の発疹が再発。さらに今まで以上にぐったりとしており、力なく銀河を見上げる。
「……先生。来てくれたんだ」
「……っ! 今、どういう状況か……わかるか?」
「……もうだめ……だと……思う」
「井園っ……! 井園……」
悔しい。ただ悔しい……自分が彼に最後まで向き合うと決めていた。だからどのような容態になろうと誠意をもって対処するつもりだった。なのに……銀河の思考は止まってしまった。どうにかならないのか、どうにかしてくれ……医者なのに井園に対しては……これ以上は……。
そこに看護師が入ってくる。
「……銀河先生。検査結果です」
「……ああ」
「では失礼します」
その検査結果は……銀河に絶望感と無力感を与えた。
もう……何も手の施しようがない。
「……先生。結果……やっぱり……ですよね」
「……俺は」
「……」
「……俺は……お前を失いたくないんだっ……!」
銀河が膝をつき井園のベッドに近づく。このような姿、もはや医者ではない。医者として彼を支えると決意していたがようやく気づいた。
――ひとりの男として井園のことをずっと考えていたかった。
「……先生」
「……すまない。取り乱してしまった。主治医なのにな」
「……」
「何もしてやれなくて……本当に……申し訳ない……」
井園はそんな銀河に手を伸ばす。どうにか銀河の背中に手をやりゆっくりと……ゆっくりと……さすっていた。
「井園……」
「……謝らないで。僕は……初めて会ったあの時から……あなたのことを見ていたんだ」
「……」
井園の優しい目が銀河の心を熱くする。それ以上何も言わないでほしかった。悪いのは全部自分なのだからと考えてしまう。彼が無理していることに気づいてやれず、医者としても彼の難病を治すことが出来ず……こんな自分を責め続ける。
「……あなたが話しかけてくれて……ほっとした。あなたと一緒の……血液内科に……入れて……ずっと憧れて……いて……あなたに……追いつきたくて……一緒に……いたくて……」
「井園っ……もう……それ以上は」
「……先生」
「……」
「……さいと……先生」
――
井園にそう名前で呼ばれた銀河。
もう溢れる気持ちを抑えられない。
やがてそれは大粒の涙となり銀河の顔を濡らしてゆく。
「……っ……何を……いってる……」
「彩人先生……僕は……あなたのことが……」
「……」
「あなたのことが……好きなんです……」
やっとその言葉を言えた。
やっとその言葉を言ってくれた。
プレドニンを服用しているから言ったのではない。
プレドニンの“多幸感”からの言葉なんかじゃない。
それを今までどれほど望んでいただろうか。
あの薬を投与されない者からの告白を。
そうではない……井園本人からの……告白を。
「……井園……俺だって……俺だって……」
「……」
「……好きなんだよ……井園が……好きだ……」
絞り切るようにその言葉を発した。
そして今度こそ……井園の顔に手を添えた。
「ありが……とう……彩人先……生」
やがてゆっくりと井園が目を閉じた。
顔を彩人の手に乗せるようにして。
そしてぐらつく頭が、そのまま彩人の腕の中に収まる。
彼の表情は最期まで安らかで一瞬であったが――
本当の“多幸感”が見えた気がした。
※※※
翌週。井園がいなくなった後の初めての火曜日がやって来た。
「先生……僕は鉄剤も欲しいです……先生からの鉄剤が」
「はい、本田さんは鉄剤足りてますからね」
「じゃあ……プレドニンを……もっと先生のプレドニンを……」
「プレドニンはこのままの量で大丈夫ですから」
淡々と診察をこなしていく銀河。
相変わらず男性患者がプレドニンの副作用で自分に想いを伝えている。
「井園、お前の分まで頑張るからな」
午前の診察もどうにか終わり、休憩を取ろうとしたところ、看護師がやって来た。
「銀河先生……これ、井園先生の日記のようなのですが」
「……日記?」
「はい、部屋から出て来ました。気づかず申し訳ありません。まさかその……ベッドの敷布団の下に挟まっているとは思っておらずでして」
「そうか」
「……失礼します」
看護師が足早にその場を去った。彼の日記……入院中につけていたのだろうか。彼が治療中に何を考えて何を書いていたのか。
銀河はページをめくる。
『――銀河先生がこつずい検査をしてくれた。うれしかった。先生以外の人には見せたくなかったのだから』
『銀河先生が主治医だった。今日からはじまる。先生が毎日来てくれる。たのしみ』
『ぎんがせんせいがプレドニンをくれる。これでらくになれるのかな』
『プレドニンを飲んだ。今なら先生にこの想いを伝えることが出来そうだ。でも先生は困らないだろうか。いつも患者さんに告白されているからこんな僕なんかが告白したら先生はどう思うだろうか。でも今しかこの気持ちを言えないような気がする言いたい好きだと言いたい』
井園の日記を見れば分かる。プレドニンを飲んだ時の一時的な勢いでここまで自分への気持ちを書いたことが。やはり彼もそうだった。でも彼は……あの時は言わなかった。
『プレドニンゼロになれば……そのときにいう。ぎんがせんせいにいう。すきですって……いえるかな……ぼくはそれまで……いきていられるのかな……せんせい……すき』
ここで彼の文章が途切れていた。
銀河は日記を抱き締めてその場に崩れ落ちる。
「井園……井園ぉっ……ありがとう……」
その日記を銀河は毎日肌身離さず持ち歩くようになった。彼のことを思いながら。
「俺も……好きだから。これからも……ずっと」
終わり