春の午前、まだ冷たい風の中に微かに甘い花の匂いが混じっていた。地方都市の小さな大学のキャンパスは、新学期の活気に満ちている。
その一角、人だかりの中から、一人の青年が穏やかに姿を現した。ゆったりとした歩幅で進み、背筋は自然に伸びている。けれど硬さはなく、全身から柔らかい雰囲気が滲み出ていた。
それが大知だった。
教室の前に立つと、彼は一礼してから静かに口を開いた。
「今日からこちらでお世話になります。大知と言います。よろしくお願いします」
たったそれだけの自己紹介だった。だがその声の響きが教室の空気を少し和らげた。はっきりしているが押し付けがましくない、よく通る声。そして何よりも、その眼差しが柔らかい。人の心にふわりと入り込んでくる。
最前列に座っていた悟がすぐに身を乗り出した。
「お、転校生?いいねいいね!オレ悟。ここの雰囲気は緩いけど、遊び相手には困らないと思うよ!」
悟の明るさに、大知はふっと目を細めた。
「ありがとう。そう言ってもらえると安心するよ」
その受け答えがまた絶妙だった。ただの社交辞令には聞こえず、どこか相手を大事にしている感じがする。悟はその瞬間、もう大知を「友達候補リスト」に放り込んでいた。
後方の席で腕を組んでいた将吾は、その様子を斜めから観察していた。
(なんだこいつ……妙に馴染むのが早いな)
将吾の心の奥に微かな警戒心が芽生える。忠告を無視しがちな彼にとって、「自然に周囲の懐に入ってくる奴」はむしろ注意の対象だった。
その隣で朋子はノートを取りながら内心、別の計算をしていた。
(転校早々、あの自然体……将来有望ってやつかしらね。コミュ力高そうだし、使えそう)
朋子は上昇志向が強い。人脈は積極的に作る主義だ。だが、彼女の打算を超えて大知は「素」で好印象を植え付けてくるのが少しだけ癪だった。
そのさらに後ろの席では、亜紀が静かに微笑んでいた。
(ふうん……この人、面白そう)
亜紀の視線は冷静だが、好奇心に満ちている。彼女の笑みは、いつもクスクスと控えめで他人の観察を楽しんでいるようだった。
そして教室のドア近く、壁にもたれていた純は腕を組んだままつぶやいた。
「遠慮がねえな。最初からこんだけ素直だと逆に怖ぇわ」
礼儀よりも本音を重視する純は、自己紹介の柔らかさの裏に何かを感じ取っていた。
こうして大知の初日から、自然と周囲の視線は集まっていた。だが誰一人として、それを「違和感」として口に出す者はいなかった。不思議と、心地よさが勝っていたからだ。
――
昼休み、学食のテーブルに集まったのは、もうすでに大知を中心にした小さなグループだった。悟が半ば強引に誘ったのだ。
「ここのカツ丼、なかなかイケるから!」
悟が運んできた丼を見ながら、大知は笑った。
「すごいボリュームだね。午後寝ちゃわないように気をつけないと」
「はは、まあそうなったら授業サボればいいし!」
「悟、調子いいこと言ってんじゃねえよ」将吾が呆れたように言う。「ま、オレも寝るけどな」
その横で朋子が軽く咳払いをする。
「サボり癖つけると将来困るわよ?計画的にね」
「へいへい、キャリアウーマン先輩の忠告ありがたく聞いときますよ」
そんな会話のやりとりを、大知は微笑みながら聞いていた。そしてふと、自然に言葉を添える。
「でも、こうやってみんなで食べるの、いいね。誰とでもすぐに打ち解けられる雰囲気があるんだね」
悟がそれにすぐ乗る。
「だろ?この学部は特にさ。あ、でも一人だけ、打ち解けるのが難しい奴がいるかも」
悟はニヤニヤしながら純の肩を指で小突いた。
「何だよ俺か?」
純はむっとしながらも、まんざらでもなさそうだった。大知はその空気を読み取って、軽く首を傾げた。
「純さんは、率直でいいなと思ったよ。僕は、遠慮されるより、そういう方が話しやすいから」
その一言に純はちょっと虚を突かれた表情になり、すぐにごまかすようにカツ丼をかき込んだ。
その様子を見ながら、亜紀が静かにクスクスと笑った。
(この人、本当に絶妙ね。人の懐に入る技術、意識してやってるのかしら)
その場の空気は柔らかく、一方で微かに奇妙な磁場のようなものも漂い始めていた。
午後の講義の後、大知はキャンパスをゆっくり歩いていた。緩やかな斜面に広がる芝生、レンガ造りの古びた講義棟、柔らかな夕暮れの光。どこにでもあるような風景が、どこか新鮮に映る。
「……静かだな」
ぽつりと呟いた声は風に吸い込まれていった。
すると背後から軽快な足音が近づいてくる。振り向くと、悟が手を振りながら駆け寄ってきた。
「おーい大知、独りでキャンパス探検中?」
「うん。せっかくだから、少し歩こうと思って」
「いいね!じゃあオレも付き合うよ。……あ、そうだ。せっかくだからさ、こっちの裏庭見た?」
悟は得意げに案内を始めた。人気の少ない小道を抜け、古びた噴水のある中庭に出る。そこは春の夕日に照らされ、柔らかい色彩が溢れていた。
「ここの桜、満開になると結構すごいんだぜ?まあ今はまだだけど」
悟はふっと空を仰ぐ。大知もその横で桜の蕾を見上げた。
「もう少しか……楽しみだな」
数秒の沈黙。だが嫌な間ではなく、むしろ心地よい静けさだった。悟が思わず口を開く。
「さっきも思ったけどさ、大知って妙に人当たりいいよな。初日でこの馴染み方はすげぇわ」
大知は静かに笑った。
「そんなことないよ。皆が優しいからだよ」
「いやいや、謙遜だって。……正直、ちょっとズルいくらいだぞ」
悟は冗談めかして笑い飛ばすが、その奥にほんの少しの本音が滲んでいた。
「ズルい?」
「うん。オレ、結構こう見えて誰とでも仲良くなれるタイプって自負してたんだけどさ、大知に会った瞬間に、なんかこう……うまく言えねえけど、一歩先に行かれた感じ?」
大知は少しだけ視線を伏せ、それから正面を見たまま静かに答えた。
「悟くんはすごく自然で、見てて気持ちいいよ。でも、僕はたぶん、誰かが居心地悪くならないように先回りしちゃう癖があるのかもしれない」
悟は驚いた表情で顔を向けた。
「……そうなの?」
「うん。そうしないと、自分が孤独になる気がして。だからたぶん、ズルいのは僕の方なんだよ」
少しだけ陰りのある笑顔だった。悟はしばらく考え込み、それから急に大知の肩をバシッと叩いた。
「ま、難しい話は置いとけって!今こうして気楽に話せてるんだから、それで十分だろ!」
ぱっと視界が広がるような悟の明るさに、大知も自然に笑った。
「うん、そうだね」
その後も二人はキャンパスをゆっくり歩き、互いの趣味の話などで盛り上がった。
――
一方その頃、別の場所では、将吾が朋子と自販機前で缶コーヒーを手にしていた。
「……どう思うよ、大知ってやつ」
将吾がぼそりと切り出す。朋子は缶を振りながら、少しだけ目を細めた。
「素直に言えば、面白いわね。放っておいても周囲が集まるタイプ。ああいう子は珍しいわ」
「珍しいっていうか……俺はちょっと警戒するけどな。裏がなさそうに見えて、逆に裏がある感じがしてさ」
「わかるわ。でも、あの子はたぶん、計算じゃなくて自然体よ。むしろ無意識に周りを惹きつける。……いわゆる“魔性”ってやつ?」
将吾は小さく鼻を鳴らした。
「魔性ねぇ……ま、今はまだ様子見だ」
「私もね。でも、しばらく面白くなりそうよ?」
二人は缶をカチンと軽くぶつけた。
こうして、大知を中心に静かに磁場が形成されつつあった。
(第1話 完)