定時になって、俺は座りっぱなしだった椅子から立ち上がった。眼鏡を外し、一日酷使した目に目薬をさす。
「ふぅ」
限りなくため息に近い息が漏れる。首から下げていた社員証を取り、ゆっくりと首を左右に倒す。自分でも驚くほどにゴキゴキと音が鳴った。
「はぁ……」
今度は正真正銘のため息だった。先月、俺は三十歳になった。
ちょうどその頃から、肩の凝り具合がひどい気がするのだ。朝起きても疲れが取れていない感じがある。
気のせいだろう。いくらなんでも「
慣れないことをしたせいで、左の肩甲骨付近の筋がズキリと悲鳴をあげる。
「いっ……!」
あまりの激痛に体がよろけた。自分のデスクに右手をついて、なんとか体重を支える。情けない。これではまるで年寄りではないか。
社員証のわずかな重みでさえ、自分の首と肩には負担になっているような気がする。『経理部・
会社を出て、電車に揺られること二十分。最寄り駅から自宅へは歩いて十分だが、今日は少し遠回りをする。
今日は金曜日。週に一度の楽しみがある日だ。
疲れているけど、そのことを考えると少しだけ足取りが軽くなる。
駅前の西側には、古い一軒家やアパートが多く残っている。昔ながらの風景のなかに、新しくできた店が点在している、どこか不思議な感じのする町だ。
細い路地を抜けると、さびれた商店街が見えた。シャッターが閉まったままの店も多いなかで、
「こんばんは」
間口の狭い店を覗くと、白い割烹着姿の女店主が姿を現した。
「今日も、ありますか?」
「あるよ。でも、本当にあれでいいのかい? もっと良いところも残ってるよ」
「あれが好きなんです」
「そうかい」
毎回、同じような会話をしている。俺がいつも買っている「あれ」とは、チャーシューの端の部分のことだ。
女店主はチャーシューの重さをはかってから、手際よく包んでいく。彼女の手には皺がいくつも刻まれている。小柄で痩せた彼女の正確な年齢は分からないが、かなりの高齢であることは間違いない。
「いつもありがとうね」
ショーケース越しに、包みを受け取る。
「いえ、こちらこそ。いつも美味しいチャーシュー、ありがとうございます」
軽く会釈して、俺は店を後にした。
チャーシューが週に一度の限定品なのは、高齢の女店主がひとりで店を切り盛りしているからだ。
『むかしは毎日こしらえて、店に並べてたんだけどね』
いつだったか、彼女はそう言っていた。年のせいなのか、アルバイトを雇う余裕がないせいなのかは分からないが、とにかく週に一度でも良いので、このチャーシューは作り続けて欲しいと思う。
今日のために、出勤前に炊飯器をセットしておいた。いつもは小分けした冷凍のものを温めて食べているが、金曜日の夜は特別だ。
アパートの部屋を開けると、ちょうど炊きあがりを知らせる電子音が鳴った。
台所で包をあけると、甘辛いタレのにおいがした。豚バラ肉で作る福々精肉店のチャーシューは、脂の部分が美味しいのだ。
少し厚めに包丁を入れる。それを電子レンジで温めると、脂がじゅわじゅわと美味しそうにとろける。
大きめの器に、炊きたてのつやつやとした白米を盛る。その上に、脂がとろとろになったチャーシューを乗せる。ほかほかのご飯と、こってりジューシーな肉屋のチャーシュー。
我慢できずに、立ったまま勢いよく頬張る。美味い。めちゃくちゃ美味い。温めたチャーシューの脂は甘い。驚くほどにとろとろしていて、甘い。
ところで、なぜ端の部分が良いのかというと、味がしっかりついているからだ。おかげで、この素晴らしいチャーシュー丼は余計なタレをかけなくても成立する。
甘辛いタレと、とろとろチャーシューと、ほかほかの白米。美味くないはずがない。
あっという間に平らげて、ふぅ、と一息つく。腹が膨れると、体ぜんぶが満たされているような、頭の中まであたたかくなって幸せな感じがする。
ほわほわした気分で腹をさすりながら「ありがとう、エンドルフィン……」とつぶいやく。
最近、脂と塩が幸せホルモンのエンドルフィンというものを呼ぶらしいことを知った。脳内麻薬の一種らしい。疲れを軽減させてくれるという。
一週間、骨惜しみせずに働いた。金曜日の夜、疲れた心身に、このチャーシューの端っこ丼は最高に沁みるのだ。
翌週の金曜日も、俺は福々精肉店に立ち寄った。無事にチャーシューの端の部分を手に入れることが出来たので気分が良い。
とろとろ脂のチャーシュー丼のことを考えながら、意気揚々と商店街を歩いていると、何かを踏んだ感触があった。
「いたい……」
文具店の看板にもたれ掛かる格好で、男性がへたりこんでいた。
明らかに酔っぱらっている。かなり若いように見えた。おそらく二十歳そこそこだ。
青年は左手で右手をさすっていた。俺がさっき踏んだのは、彼の右手だったのだろう。
「あ、あの……すみません、よく見てなくて」
「いたい~~~!」
若者は俺の足にすがりつくようにして「痛い」と繰り返した。もしかしたら骨が折れているのかもしれない。
「立てますか? 病院へ行きましょう」
この時間だと救急になるのだろうか。まだ診察している病院がないか調べていると、若者はゆらりと立ち上がった。
線の細い体がゆらゆら揺れる。かなり酔いがまわっているらしい。
「ふふ、そうだよ。飲んでたんだよ、近くのバルなんだけど……」
俺が聞いていないことを、青年は上機嫌で答えている。
「行きましょう、病院。骨が折れているかもしれません」
「わかった、行く。あなたの家」
こくこくと頷きながら、青年が俺にもたれかかってくる。
「えぇ? いや、ちょっと」
細いとはいえ男だ。しかも酔っ払い。俺の肩に腕をまわして体重をかけてくる青年をなんとか支える。
自分が踏んだ青年をこのまま放置することも出来ず、俺は彼を自宅のアパートまで連れ帰った。
彼の右手の甲は、わずかに赤く腫れていた。水で濡らしたタオルで冷やしていると「つめたくて気持ちいい」と青年が言った。
「痛いですか?」
「ん~~、いたいよりつめたい。それになんか、お腹すいた……」
彼の腹がぐうぐうと鳴る。
炊きたてのご飯に温めたチャーシューを乗せたどんぶりを目の前に置くと、彼は「いいにおい」と言った。
スプーンを渡すと、おぼつかない手付きで食べ始めた。
「うまっ!」
きらきらした目で青年が見上げてくる。そりゃ美味いだろう。いつも俺を幸せな気持ちにさせてくれる、とっておきのチャーシュー丼なんだから。
慣れない左手での食事に苦戦しながらも、青年はチャーシューを美味しそうに頬張った。かなり華奢なのに、若いせいなのだろう。食欲は旺盛だった。俺を癒すはずだった金曜日の夜のエンドルフィンは、すべて彼の胃におさまった。
翌朝、目を覚ました青年は「昨日はごめんなさい」と頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。あの、手は大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫みたい」
右手をひらひらさせながら、屈託なく笑う。昨日は気づかなかったが、かなり整った顔立ちをしている。イケメンというよりは、きれいな子という感じだ。
「彼女と別れることになって、なんか気づいたら飲みすぎてたみたいで」
にこにこ笑いながら頭を掻く。
「そ、そうなんですか」
「うん。なんか、ダメになっちゃって」
顔の造りだけを見ると「冷たい印象の美人」なのだが、へらへらしているせいで人懐っこさを感じた。男に美人というのは違うような気もするが、目の前の青年は間違いなく美人顔だった。
目はきれいな二重で、鼻筋はすっと通っている。形の良いくちびるのそばには、ほくろがあった。昨日は赤ら顔だったから分からなかったけど、かなりの色白で、肌はつやつやしている。
やはり若者だなと思いながら青年を眺めていると「俺の顔になんかついてる?」と、不思議そうな顔で言われた。
青年に見惚れていた事実に気づいて恥ずかしくなる。
「い、いいえ。若いなぁと思いまして」
「どういうこと?」
首をかしげる仕草がかわいい。これもきっと彼が若いからだ。
「かなり酔っていたように思ったのですが、元気そうなので」
「いつもこんな感じだよ。あんまり次の日には残らないみたい」
そう言って、彼はぐっと体を伸ばした。前に倒しても横に倒しても、ゴキゴキどころか何の音もしない。気持ち良さそうにぐいぐいと体を動かしている。
ひとしきり体を伸ばしてから、元気に「またね」と手を振って、彼は部屋を出て行った。