数日後、仕事から帰ると彼がいた。アパートのブロック塀に寄りかかりながら、俺を見つけるとひらひらと手を振った。
「こんばんは~」
神経質そうな顔がへらりと笑う。
「こんばんは。どうされたんですか」
「この間のお礼に来たんだ」
持っていた紙袋を俺に差し出す。袋の中にはいくつかの缶詰が入っていた。
「チャーシュー丼のお礼ですか?」
「そう。めちゃくちゃ美味しかったから。後で気づいたんだけど、あれってあなたの夕食だったよね?」
ごめんね、とニコニコ笑う彼に「いえいえ」と言いながら部屋のなかに入るように促す。
「いろんな缶詰がありますね」
ツナ缶や蟹缶、サバの味噌煮缶という割とよく見かけるものから、うずら卵の燻製や焼き鳥、ブラックとグリーンのオリーブ、きのこのアヒージョ等、酒のつまみになるようなものまである。
「バイト先がバルなんだけど、そこで出してるやつだから美味しいよ」
そういえばあの日、彼はバルで飲んでいたと言っていた。
「バイト先で飲んでたんですか?」
「うん、仕事中によくお客さんが奢ってくれるんだ。いつもは適当なところで断るんだけど、ついお言葉に甘えちゃって」
笑いながら頭をかく。
「そういえば、彼女と別れたと言っていましたね」
それで飲みすぎたのだと。
「うん」
「きみなら、すぐに新しい彼女が出来るんじゃないですか」
かなり整った顔立ちをしているし、スタイルも良い。人当たりも良いし、飲食店で働いているのなら、出会いも多そうだ。
「そうだね……」
一瞬、彼から笑みが消えた。
でもまたすぐに、捉えどころのないへらへらとした笑顔になった。
彼も夕食がまだらしいので、二人分作ることにした。貰った缶詰をさっそく使わせてもらうことにする。
「なにを作るの?」
「炊き込みご飯です」
サバの味噌煮缶で作る炊き込みご飯だ。材料は缶詰と米だけ。炊飯器の釜に米を入れて研ぎ、サバの味噌煮缶の汁だけを加える。それから1合のめもりまで水を入れて、サバを投入する。あとは炊けるのを待つだけで良い。
「それだけで出来るの?」
彼は目を丸くしていた。聞けば、料理は一切しないという。俺は反対に自炊派で滅多に外食はしない。一人の空間が落ち着くので、すぐに家に帰って、あるもので適当に済ませることがほとんどだった。
おかげでずぼら飯が得意になった。簡単に手早く出来て美味しいもの。見栄えは良くないが、自分が食べるだけなので不都合はない。
炊きあがるまで、オリーブとうずらの燻製をつまみながら彼と話をした。安い発泡酒を少し飲んだだけで、彼の頬は赤くなった。バルで働いている割に、酒に強いわけではないらしかった。
彼は、
俺の名前を知ると、上機嫌で「
「いいですよ」
妙な感じだ。こんな風にあだ名で呼んだり、距離を詰めたりしてくる相手は苦手なはずだった。それなのに彼には許している。彼が、というよりも、もしかしたら自分が変わったのかもしれない。
「三十路を過ぎると人恋しくなるのかもしれませんね」
「何の話? っていうか、みーくんって三十歳なの?」
ちびちびと発泡酒を舐めながら、広都がこちらを見る。
「そうですよ」
「じゃあ、俺と八歳違いだ」
二十二歳か。やはり若い。
彼は若々しい食欲で、炊き込みご飯を胃におさめていった。
「うま~~!」
きらきらした目で、サバ味噌炊き込みご飯を頬張っている。
「米と缶詰だけなのに、すごい美味い! みーくんって天才だね」
「ずぼら飯なら任せてください」
食べっぷりの良さが気持ち良い。
「すぼら飯が得意なの? なんか、イメージと違うね」
「しっかり一汁三菜作っているイメージですか?」
「うん、それを正座して背筋の伸ばして食べてるイメージだよ」
よく言われる。黒髪、地味顔、眼鏡のせいかもしれない。自分では普通だと思っていることでも、他人から見ると真面目過ぎるらしい。
「仕事は真面目にしていますが、それは仕事だからで、家では普通に適当ですよ」
「仕事だから真面目にするってところがさ、すごくみーくんっぽい思考で良いよね」
八歳も年下の、それも会ったばかりの人間に言われているのに、嫌な感じがしないのもきっと人恋しいせいだ。
そう思いながら、彼の言う「うま~~!」な炊き込みご飯を、俺はゆっくりと口に運んだ。
広都は定期的に顔を見せた。いつもバイト先のロゴが入った紙袋を持って、俺が仕事から戻るのを待っていた。
「今日はお酒を持ってきたよ」
じゃん、と言ってウイスキーのボトルを俺に差し出す。
「きみ、あまり飲めないじゃないですか」
「みーくんのために持って来たんだよ」
にっこりした顔で覗き込まれて、心臓がバクバクする。
他人との関わりを避けてきたせいで、俺には耐性が無い。だから、きれいな子に微笑まれたり「みーくんのため」なんて言われたりするだけで、簡単に胸が高鳴る。
「もしかしたら、飲み屋のお姉さんに簡単に落ちるタイプなのかもしれません。そんなことあり得ないと自分では思っていましたが」
「みーくんってそういう店行くの?」
広都はウイスキーを炭酸で割っている。ひとつを自分、もうひとつを俺の前に置いた。
「行きません。たとえ話です」
「たとえ話……?」
首をかしげるのは癖なのだろうか。何度見てもかわいいと思う。
きょとん、とした顔の広都を見ながら、俺は確信した。
彼は魔性だ。
他人に興味のない自分が、こんなにあっさりハマるのだから間違いない。見た目が美しいのはもちろん、小悪魔っぽい表情というか、ほうっておけない雰囲気とか。
ついつい視線が広都に吸い寄せられてしまう。
「優しくされたら、簡単に好きになるということです」
「恋の話だ! みーくんが恋愛の話してる!」
彼はもう酔ったらしい。顔が真っ赤だ。
「初めてですね。誰かとこういう話をするのは」
「そうなの?」
「仲の良い人がいませんでしたし、そもそも誰かと付き合うとか、深い関係になるとか、考えたことがありませんでした」
年下の広都にする話ではないような気がする。自分にだって一応、見栄もあるし。
「みーくんって、童貞?」
いつになく真面目な顔で広都が訊く。
「そうです」
「ふぅん、そうなんだ」
三十歳の童貞を目の前にして、彼がどう思ったのかは分からない。茶化すことも慰めることもなく、ただ黙っていた。そして、しばらくすると「おなかすいた」と言った。
「ご飯、作りますね」
俺は冷凍庫から小分けした白米を取り出した。広都はダイニングテーブルに座って、ちびちびと酒を舐めている。しまったな、と思った。しらけるような話だったかもしれない。彼が割と奔放な人間だということは、これまでの会話で察しがついていた。
時折、彼が語る「彼女」の話が、一人や二人ではないことも分かっていた。確か、飲んで記憶を無くした経験があるか、という話題のときだったと思う。
『バイト先のお客さんに誘われて、違う店で飲むことになったんだけど。気づいたら朝で、彼女の部屋だったんだよ。記憶無くすの初めてだからすごい焦った! それからは飲みすぎないようにしてる』
他人との、そういう類の関わりが日常にある彼にとって、もしかしたら俺みたいな人間は異星人のように見えるかもしれない。もしくは、モテなそうだから当然、と思われているとか。
その日は、前に広都から貰っていた焼き鳥の缶詰で焼き鳥丼を作った。ご飯を器に盛って、焼き鳥をタレごと乗せてマヨネーズをかけるだけのシンプルなメニューだ。
炭火で焼いたらしい焼き鳥は香ばしさが感じられた。濃いタレとマヨネーズが絡んで、ご飯と最高に合っていた。
広都もはいつものように「うまい」と言っていたけど、もそもそと居住まいを正したり、視線が泳いでいたりして、妙に落ち着きがなかった。