時刻は夜の十一時。
現役アイドルが、今日も俺の部屋に来た。
誰にも気付かれないように、靴音さえ鳴らないように注意を払いながら。
夜中のマンションの廊下を無音で歩く姿は、どこか幻想的でさえある。
まるで羽のある天使のよう。
でも、違う。
初瀬莉莉は天使などではない。
アイドルという名の偶像ではなく、普通の人間。
一人の女の子だ。
秘密の関係。
……俺たちのことをそう説明すれば、きっと勘違いさせてしまうだろう。
実際は友達。
ただの友達だ。
手を繋ぐことさえない。
初瀬は俺と同じマンションに住んでいて、時間がある時にこっそり遊びに来る。
いつもは穏やかに食事をしたり、話をしたり、騒ぐのはゲームをする時くらいなのだが、今日の初瀬はいつもとどこか様子が違う。
どこか不機嫌そうだ。
「なにかあったか?」
そう聞くと、初瀬は一瞬遠い目をしてから皮肉めいた笑みを浮かべ、
「想像してみて」
そう言い、次のようなことを語り出した。
――想像してみて。
あなたが誰かとギャンブルをしたとする。
内容は……そうね、サイコロを振って1が出たら相手の勝ち。それ以外ならあなたの勝ち。とでもしておきましょう。
そんなギャンブルを十回やったら、全部1が出ちゃった。
そんなことある?
計算してみましょう。確率は約六千万分の一。奇跡としか言いようがないわね。
これはイカサマかしら?
普通に考えたらイカサマ。
でも証拠がなければ、どれだけ怪しくてもセーフ。奇跡で通ってしまうわ。
――同じことがアイドルにも言える。
ううん、アイドルの恋愛にも言える。
恋人がいるかどうか? それはファンにとって非常に重要な問題。
アイドル自身にとっても、キャリアを左右する大きな問題。
誰もが薄々わかっているはず。
推しに恋人がいる、と。
あるいは、いても不思議ではない、と。
でも、証拠がない限りはセーフ。
だからアイドルは必死になって隠す。
ファンは無意識に目を背ける。
お互いにウソをついているわけだけど、別に誰も損していない。むしろ不都合な部分が見えなくて得さえしている。
でもね、そんなwin-winの関係を壊したがるやつらがいるのよ。
週刊誌、あるいはネットで他人の粗探しばかりしている連中のこと。
そんなやつらからアイドルたちは身を守らなければいけない。
疑われる状況をどうやって作らないか?
証拠をいかに消すか?
恋人を作らない。という選択肢を選ばないのであれば、その二つを徹底しなければいけない。
そうして一切の証拠を消すことに成功し、秘密を隠し通したのなら、“奇跡”はアイドルをより輝かせてくれる。
こんなことを語る初瀬莉莉(芸名は初瀬リリ)は、花園の守護者(ガーディアンズ・オブ・フラワーガーデン/ガデフラ)というちょっと痛い名前のグループのメンバーだ。
ガデフラは、先日単独で武道館を満員にさせている。
初瀬はそこのランキング二位。つまり人気アイドルだ。
そんな人物から語られる奇跡と隠蔽の話は、生々しく物騒な感じさえする。
ここで改めて言っておくが、俺たちはただの友達だ。
たとえ夜の十一時に俺の部屋に二人きりで話しているとしても、友達以外の何物でもない。
「でもね、どんな完璧に隠蔽してもバレるリスクはあるのよ。写真の瞳の写りこみから個人情報バレたって話知ってる? そんなところまで調べるやつらと正面から戦っていたら、いつか必ず負ける。そもそもこっちはバレたら一発で大ダメージ、最悪即死。相手はどれだけ失敗しても、一回こっちのミスを暴いたら勝ち。不公平どころじゃないわ。こんな勝負やってられない」
「そうだな」
「そんなことわかりきってるのに、なんで彼氏とデートした写真をSNSに上げるかね? 彼氏が写ってないからいけると思った? 通行人の眼鏡にちらっと男の影が映りこんでたのに気付かない程度の注意力なら余計なことすんな。彼氏がいても、デートしてもいいが、写真なんか一枚も撮るな! ネットに上げるな!」
「やけに具体的な文句だな……実話?」
「先週発覚したサクラのスキャンダルよ」
「サクラって誰?」
「ガデフラのナンバー3。そんなことも知らないの?」
「ガデフラは初瀬リリしか知らない」
「藤城って本当にアイドルに興味ないよね。私がいるグループすら少しも調べてくれないなんて。昔は一緒にイベント観に行った仲だと言うのに」
「むしろ友達だからアイドルとしての初瀬の姿を見たくないんだよ」
「ふぅん? よくわかんない感覚だなぁ」
「昔だって、俺は別にイベントを観たかったわけじゃないぞ。初瀬がムリに俺を連れて行ったんだ」
「あれ、そうだっけ? 藤城から誘われて行ったような記憶があるんだけど」
「じゃあ記憶違いだな」
初瀬と俺とで隣県のショッピングモールにアイドルのイベントを観に行ったのは、中学一年生の時なのでもう七年も前になる。
デートと言えばデートと言ってもいいかもしれない。少なくとも、当日前夜の俺はそう思ってドキドキしてなかなか眠れなかった。
しかし、実際のところ、デートと呼べるようなものではなかった。
初瀬の好きなグループが、一日に四回ステージをするのをずっと観ていた……それだけの一日だった。
各ステージはたった十分強。二曲歌って、メンバーの自己紹介と「名前だけでも覚えて帰ってください」という程度の挨拶で終わりだ。
そんなのを四回観るだけのひどい一日だった。
複数のアイドルが出るステージだったが、お目当てが終わったらすぐに席を離れて次の回の待機列に並ぶ。
せっかくモールに行ったのにデートらしいことなんて何もなし。水や昼食を買ったくらいだ。
こう言ったらなんだが、騙された気分だった。
まぁ七年経ってもその日のことをよく覚えていて、その相手と友人関係が続いているので、ある意味最高の一日だったのかもしれないが。
「そもそも俺が観に行きたがるわけがないだろ。友達のアイドル姿も見たくないが、姉のアイドル姿なんてその何倍も見たくない」
「私にとっては最高のアイドルなんだけどなぁ。藤城花火さん」
我が姉、藤城花火は、今のアイドルシーンにおけるトップに輝くアイドルだ。
ドームツアーをするグループのセンター……と言えば凄さはわかりやすいだろう。
ルックス、ダンス、歌、さらには演技力まで兼ね備え、百万人のファンと十万人のアンチを抱えていると言われるくらいには知名度が高く今のアイドル業界の代名詞になっている。
だが、俺からすれば、藤城花火はただの姉でしかない。
姉がアイドルとして振る舞っている姿など違和感を形にしたようなものだ。
「昔から花火さんの大ファンで、中学校に入ったら花火さんの弟が同じクラスにいるっていうから話しかけてみて。そしたら花火さんのグループが出る無料イベントがあるって言うじゃない? その弟と一緒に行ったら楽屋に入れてもらえるかもしれない。…………なるほど、私が誘った可能性あるね」
「可能性じゃなくてただの事実な」
ちなみに楽屋には入れなかった。
その日は他にも多くのアイドルグループがたくさんいて、すべてまとめて同じ楽屋を使っていたため、たとえ身内でも入ることはできなかった。
「だとしたら、それは極秘ってことで。昔のこととはいえ、男子を誘って一緒に出かけてたなんてスキャンダルになっちゃうので」
「心配しなくても初瀬のことは誰にも何も言わないよ。あの姉が家族にいるわけだから、その辺は大丈夫」
「だよね。まぁ、私も本気で藤城から何か情報が洩れるとは思ってないけどさ。ヤバいじゃん、私らのことがバレたらいろいろと」
「ヤバいどころじゃないなぁ…………」
夜の十一時なんて時間に、アイドルが一人暮らしの男の家にいる……何を疑われても反論できない状況だ。
俺たちにやましいことはない。今のような会話をしているだけだ。もちろん、どちらも服を着ている。裸でもなければ、下着姿なわけでもない。そのまま外に出られるような服を着て、一般人ならファミレスででもできるような話をしているだけだ。
しかし、悪意を持った人間はそうは受け取らないだろう。
死体がなければ名探偵もお手上げだが、そこに死体さえあるなら犯人はでっち上げられる。
疑われた時点ですでにアウトなのだ。
そう、世の中には証拠がすべてだが、一部の人間は目的のためならその証拠さえ必要としない。
「本当にヤバいんだよなぁ。姉は初瀬のことをかなり評価してるから、俺のせいで初瀬にスキャンダルでも起きたら何をされるか。実家に帰れなくなる」
「あはは。まぁ大丈夫大丈夫。私らのことがバレることなんてないから。そもそもバレようがないじゃない?」
「そうだな」
俺たちの密会がバレることはまずありえない。
いろいろ手は打ってある。
たとえば、俺たちのどちらのスマホを覗いたとしても何の手掛かりも見つからないようにしている。
SNSでやり取りをしないし、そもそも連絡先を知らない。
一緒に出かけることもない。
会うのはいつも俺の部屋。ここ以外の場所はない。
そして、初瀬が俺の部屋に入るところを誰かに見られる可能性もない。なぜなら、初瀬が住んでいるのも同じマンションだからだ。たとえ外で張り込みしていたとしても、自宅に帰ったのか俺の部屋に来たのかを判別する方法は存在しない。
誰から見ても、俺たちは赤の他人にしか見えない。中学高校と一緒で、何度かは同じクラスになった……という接点はさすがに消せないが、それ以上のものを見つけることは誰にもできないだろう。
なにせ何もないのだから。
「サクラもさ、このくらい気を付けていてくれれば良かったんだよ。そしたら彼氏バレすることもなかったのに」
「根に持ってるな。炎上してるの?」
「してるね。あいつはガチ恋を釣るタイプだから特に」
「そういうのってメンバーにも迷惑かかるものなの?」
「それなりに。でも謝罪会見とかはないよ。彼氏バレ程度では」
「謝罪会見?」
「もっとヤバいやつじゃないとそういうのはやらない。やらないんだ、普通は…………」
初瀬はぼやきながら遠い目で天井を見上げている。
その様子から、その“もっとヤバいやつ”が起きてしまったのだというのは容易に想像できた。
「サクラが上位メンバーだったのと、最近ガデフラが絶好調だったおかげで、彼氏バレがいろいろな方面に火をつけちゃったっぽくてね。他のメンバーもいろいろ探られたみたいなのよ」
「初瀬も?」
「うん、かなり探られてた。でも、私はここに入る瞬間か出る瞬間を見られない限りは完璧だから大丈夫。でも、他のメンバーにヤベぇのがいてさ」
「…………それ俺が聞いていいやつ?」
「いいよ。っていうか、聞きたくないとは言わせない。私のグチを聞きなさい」
「……はい」
「週刊誌にマークされてる中、そいつはヤバイ場所に行ったんだよ」
「ヤバイ場所?」
「黒い交際的な? 反社とズブズブ的な?」
「それは……ヤバイな。えっと、ちょっと整理させてくれ。サクラって人の彼氏バレがきっかけで、別のメンバーのとんでもない事件が発覚したってことでいいのか?」
「そうよ」
「そうすると、もうみんなサクラの彼氏バレのことは全然気にしてなくないか?」
「正直、先週のスキャンダルなのにもう完全に過去の話よ。一時は解雇って話も出ていたらしいけど、黒い交際と彼氏バレを同じ処罰にするわけにはいかないから、なんか許された感じになってるわ」
「それはそれでどうなんだ?」
「でさ、明日の朝に黒い交際について書かれた週刊誌が世に出るらしくて、そしたら炎上どころじゃない大騒ぎになるのが確定してるわけさ! で、明日は午後から謝罪会見を開くことになった。弁護士と一緒に経緯の説明をして頭を下げるわけさ、この私が!」
「なんで初瀬が? そのメンバーがするべきじゃないの?」
「とっくにクビになってるよ、そいつは。今さらグループや事務所の名前が出る場所には出られないよ」
「あ、そうか」
「今日はさっきまで事務所で明日の打ち合わせをしてきたのよ。スタイリストさんがやってきて、採寸して明日までに大急ぎでスーツを仕立ててくれるって。私、スーツって人生で一度も着たことないんだけど、初めてが他人の謝罪会見ってどうよ? あとさ、知ってる? 世の中には、謝罪の専門家っていうのがいるんだよ。これまでいろんな政治家や会社トップの謝罪会見をプロデュースしてきたっていうおじさんがやってきて、お辞儀の角度から表情の作り方まで教えてくれるわけ。そしたらそのおじさんなんて言ったと思う? 笑うな! だってよ。アイドルは笑顔って言われて来たのに、りーりーの笑顔は最高だねって言われてきたのに、今度は笑うなって」
スイッチが入ってしまったようで、どんどん早口になって止まらなくなった。
立ち上がり、習ったばかりのお辞儀を見せてくれる。「この角度が大事なんだって」と、たぶん俺には一生いらないだろうコツも伝授してくれる。
……いらない人生であってほしい。
「大変だな、ナンバー2は。センターの子は会見に加わらないの?」
「あ?」
いつもは端正に整った初瀬の顔が歪み、ぎょろっとした鋭い目が突き刺すように俺を睨んだ。
その瞬間、俺は真相を理解した。
「やらかしたのはセンターか」
「そうだよ。あのクソ女。とんでもない爆弾を置いて消えやがった! サクラが不注意な写真をアップしたせいでいろいろ探られて、謝罪会見なんてキツイことを私がしなきゃいけなくなったんだよ。私なんも悪くないのに! 私なんも悪くないのに!」
今度は床に倒れこみ、「彼氏バレはギリ許すよ。でも法律違反だけはするんじゃねぇよ……」と虚ろな瞳で呟いている。
俺が高校生の頃、姉も同じような状況に陥っていた。メンバーの不祥事の責任をとって謝罪会見をしなければいけなくなり、家でひたすら荒れていた。
まさかもう一度それを見ることになるとは。
こんな滅多にないものを二度も見られるのは、運が良いのか悪いのか。
「しかもさ、謝罪会見はギャラもらえないんだって。おかしくない? そりゃ違約金とかでこれからたくさん出ていくから節約しなくちゃいけないのはわかるよ。でも、こんなひどい仕事を押し付けられた私にできる慰めは、せいぜいお金を払うことくらいじゃない? ここでケチっちゃダメだよ」
どんな言葉をかけたらいいのかわからない。
いや、何も言う必要はないのだろう。
初瀬は俺に解決策など求めていない。そもそも解決策なんてない。
明日の謝罪会見は、失敗すれば初瀬だけでなく、ガデフラあるいは事務所の運命を左右する。
その場を任せられたというのは……ある意味では押し付けだが、ある意味では初瀬がそれだけ信頼されているという意味だ。他の誰でもなく、初瀬ならばなんとかしてくれるという評価をされている証だ。
もしうまく明日を乗り越えることができたのなら、さらなる上のステージに進んでいけるかもしれない。
そのことは初瀬が誰よりも理解しているはずだ。
だけど、それだけじゃ心がしんどいから、グチを聞いてもらいたい。きっとそれだけのはずだ。
センターが抜けたのだから、ナンバー2の初瀬がこれからのセンターになる。
それはきっと簡単なことでも喜ばしいことでもないはずだ。
これからの初瀬は、他のメンバーに対して何か不満を言っても、事務所に対して文句を言っても、どうしたって影響力を持ってしまう。
グチひとつ迂闊に言えないような立場になるだろう。
アイドルみたいな仕事をやっていると、家族にだってあまりグチは言えなくなる。
姉がそうだったから俺にはわかる。
親にグチを言えば心配させて、スッキリするどころか余計に苦しくなってしまうのだ。
だからあの時期の姉は俺に対してよくグチを言っていた。親を悲しませるよりは、弟に恨まれた方が罪悪感がまだ少なかったのだろう。
しかし、初瀬は一人っ子で、グチを聞いてくれる兄弟はいない。
誰にも存在を知られておらず、情報を絶対に漏らさない友人である俺ぐらいにしか、今日のようなグチを言えないのだろう。
「……いつもありがとね、藤城。お金も払ってないのにこんなグチ聞いてもらって」
「まぁただ相槌を打ってるだけだからな。これくらいでいいならいつでも来なよ」
「うん、助かる」
そう言った初瀬は、さっきよりはだいぶ落ち着いているようだ。
それを俺のおかげと言ってくれるなら嬉しい。
だけど、俺は別に何もしちゃいない。
初瀬が自分で立ち直ったのだ。俺はほんの少し話を聞いてあげただけ。
俺にはそれくらいしかできない。
でも、それくらいはできる。
理想的なアイドルを演じ続ける初瀬が、たまには一人の女の子に戻って、普段は言えないような不満を吐き出してもらう場所くらいなら作ってあげられる。
少し疲れた初瀬が寝られるくらいまで落ち着きを取り戻し、明日またアイドルとして戦えるように。
そのくらいの役割はしてあげられる。
アイドルにだって“夜の顔”が必要だ。