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概念とキスマーク -4-

 エスカラーチェが事務所を出て行ってから、五分ほどでツヅリが帰ってきた。

 手には、エスカラーチェに持たされたのだというサツマイモが詰まった小さめの木箱を抱えている。

 にもかかわらず、はしゃいだ様子は見られず、ツヅリは微かに俯いている。


 ……どうしたんだ?


 と、思っていると、ツヅリは木箱をテーブルに置き、ぐっと顔を持ち上げて、力強く見つめてくる。


「ど、どうした、ツヅリ?」


 その問いには答えず、ツヅリはあいた両手でもこもことしたセーターの襟元をぐいっと引き下げた。

 白く滑らかな首筋があらわになる。照れているのか、薄桃色に染まっている。


「ど、どうぞ!」

「何がだ!?」

「ア、アサギさんの前でこうすれば、キスマークがどういうものなのかが分かると教わりまして!」

「エスカラーチェをぶっ飛ばしてくる!」

「あ、ダメですよ! 今からすごく危険な食虫植物の開発を始めるそうで、近付くと命の保証はないとおっしゃっていましたから」

「屋上でなにやらかしてんだあいつは!?」


 それはそれで大問題だよ!

 屋上で人死になんぞ、事故物件どころの話じゃなくなるぞ。


「……結局、キスマークについては、教えていただけませんでした」


 エスカラーチェも逃げたか……


「あ、あの……あまり、こういうのは、男性に聞くべきではないと思うのですが……でも、あの、気になってしまって……」


 こいつは中学生か。

 何をそんなに必死になって……

 しかも、ちょっと卑猥なものだと理解しているくせに気になって男の俺に尋ねてくるなんて、危機管理能力が著しく欠如しているとしか思えない。


 ここで誤魔化すのは簡単だが……


 まかり間違ってティムにでも聞きに行ったりしたら………………屋上に狼の死体が転がることになるかもな。下手人は不明だ。エスカラーチェかもしれんし、別の誰かかもしれない。


 ……はぁ。

 ここは思春期娘に対する常套句でお茶を濁すか。

 暗に、「他人にそういうのを聞くんじゃない」と含ませつつ。


「そのうち分かる日が来るよ」

「そのうちとはいつなのでしょうか?」


 必死だな、おい。


「お前に好きな男が出来れば、かな」

「わたし、アサギさんのこと好きですよ!」

「ごほっ、ごほっ、げふん!」


 ……付けるぞ、キスマーク!?


「……いや、違う。もっとこう、恋愛感情的なヤツでだ」

「そ、それは……あの…………まだ……」


 だよな!?

 分かってたよ!?

 だから堪えたんだよ、キスマーク!


「はぁ……ちょっと恥ずかしいかもしれんが、いいか?」

「へ?」


 こうなっては仕方ない。

 こいつがそのことばかりに気を取られてボーっとするかもしれないし、今みたいに迂闊な発言をどこで、誰相手にぶちかますか分かったものじゃない。

 だから、俺が犠牲になるのだ。


 要は、どんなものかさえ分かれば、こいつも二度とは口にすまい。


 俺は腕をまくって、裏側の皮膚が薄い部分に口を付け、思いっきり吸う。

 ちょっと、音が漏れるのが恥ずかしいが、まぁ、しょうがない……しょうがない……しょうが…………えぇい、もうこれくらいでいいだろう!


 口を放すと、ツヅリが真っ赤な顔をしてこちらを向いていた。

 ……お前が照れてんじゃねぇよ。誰のせいだ、まったく。


「ほら、こうすると肌に赤い痕が付くだろう」


 赤く内出血した箇所を見せると、ツヅリが「え、え?」と驚いたようにヘアテールをぱたぱた揺らす。

 初めて見るらしい。


「こういう、皮膚の薄いところに今のようなことをすると、こんな風に赤い痕が付くんだ」

「えっと……つまり……今のようなことを……内ももや首筋に……」


 と、自身の首筋に触れるツヅリ。その瞬間ヘアテールが「びんっ!」っと伸びた。

 おそらく、さっき自分がやった行動を思い出したのだろう。

 怒っていいんだぞ、ツヅリ。今度一緒にエスカラーチェを殴りに行こうな。


「あ、あの、す、すみませんでした、わたしのために……そ、そんなことまでしていただいて……」


 こっちが恐縮するくらいに顔を真っ赤に染めて、視線を必死に逃がしつつツヅリが謝罪を寄越してくる。

 赤くなった俺の腕に触れようとして、触れられずに、手を出したり引っ込めたりしている。それに合わせてヘアテールがお祭り騒ぎをしている。

 ……もういいから。いいから落ち着け! ……照れる。


「あの、痛みはありませんか? こんなに赤くなってしまって……」

「いや、痛みはないよ」


 ちょっとチクチクするくらいだ。


「痛く……ないんですか」


 と、じっと自分の腕を見つめるツヅリ。


「……やるなら、自分の部屋で頼む」

「ふぇっぃ!?」


 あの音を聞かされるのは……さすがにきつい。


「そ、そんなこと、しっ、しませんっ!」


 そんな、今にも空を飛びそうなくらいにヘアテールを大きく羽ばたかせながら言っても説得力がないぞ。

 と、思ったら、ヘアテールがシャドウボクシングをするようにこっちに向かって「ぴしゅっ、ぴしゅっ」と伸びてきた。

 威嚇されてるな、俺。


 一応、こいつにも警戒心のようなものが備わっていることが確認できた。

 これは喜ばしい発見だ。


「あ、あの、アサギさん…………何か、話題を変えてください……」


 こちらに背を向け、顔を覆って蹲るツヅリ。

 懇願するように、ヘアテールだけが俺を見上げていた。

 ……なんて自分勝手なヤツだ。自分で話しにくい話題を振ってきたくせに。


「あっ! そ、そうです!」


 ぱんっと手を叩き、立ち上がったツヅリがこちらを振り返る。

 何か話題が見つかったらしい。

 では、乗っかるとしようか、その話題に。


「アサギさんは、虫だけではなくオバケも怖いんですね」

「……エスカラーチェめ」


 またあることないことをツヅリに吹き込みやがって。


「ものすごく怖がっていたと、エスカラーチェさんに伺いましたよ」


 さっきまでの悶えるような羞恥心はどこへやら、ツヅリは楽しそうにころころと笑う。

 ツヅリには俺をバカにするつもりなど一切ないのだろうが、だからといって俺の名誉が傷付かないかと言われれば、必ずしもその限りではない。


「あのな、アレは急にデカい声を出されたから驚いただけで、別にオバケが怖いってわけでは……」

「本当ですか? 隠さなくてもいいんですよ? わたし、オバケは平気なので、アサギさんの助けになれることがあるかもしれませんし」


 なんだ? 夜中のトイレについてきてくれるとでもいうのか?

 そんなもん、出るもんも出なくなるわ。


「あっ! 大変です、アサギさん!」

「ん?」

「アサギさんの背後にオバケがっ!」


 ……こいつは、俺をバカにしてんのか?


「ほら、後ろです! 大変です!」


 必死なツヅリに免じて、一応背後を確認してみる。

 まぁ、当然そこには何もいない。当たり前だ。


「なんもいないじゃねぇか」


 分かりきったことを言いながら、再び向き直ると――


「わぁ!」


 ――と、ツヅリが両手を広げて大きな声を出した。


「驚きましたか?」


 くすくすと満面の笑みを見せるツヅリ。

 ……抱きしめるぞ、コノヤロウ。

 仮に今、俺がこいつを抱きしめて、あまつさえ首筋にキスマークを付けたとしても文句は言えない。こいつはそれくらいのことを今仕出かしたのだ。


 と、そんなことを思っていると。



「――卑猥の権化」

「ふぉぉおおう、びっくりしたぁ!?」


 いつの間にか、背後にエスカラーチェが立っていた。

 密着するくらいにぴったりと。


 ……いつ入ってきたんだよ。

 ドアの開く音、聞こえなかったぞ……


 俺の悲鳴を聞いて、ツヅリが満足そうに笑う。

 だから、今のはそういうんじゃないだろうが…………ったくもう。



 その日一日は、オバケ怖いキャラとして散々いじられた。

 物陰に身を潜め、……まぁ、バレバレなんだが……「ばぁ!」と突然顔を出して驚かせようとしてくるツヅリの相手は大変で…………困ったものだ。


「顔が緩んでいますよ、サトウ某さん」

「ばっ……!? 困ってるんだよ、俺は」


 ……俺が塩屋虎吉だったなら、素直に「かわいい~」とにこにこ笑い合えるのかもしれんが……キャラじゃなさ過ぎる。


 どう反応すれば正解なんだよ、これ……


 しばらくはこんな状態が続くかと思ったのだが、翌日にはぴたりと鳴りを潜め、代わりにツヅリがずっとそわそわするようになった。

 長袖を着て、袖が捲くれないようにぎゅっと掴んで。一日中『萌え袖』で過ごしていた。

 時折、こちらを窺うようにチラチラと視線を寄越しつつ。


 あぁそうか。

 一つ言い忘れていたことがあったっけなぁ。


 ツヅリ。

 キスマークってのは、一度付けるとしばらく消えないから、気を付けた方がいいぞ。







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