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貘とツヅリ
貘とツヅリ
ティアンズ
現代ファンタジー都市ファンタジー
2025年06月24日
公開日
10.4万字
完結済
記憶を喰う存在・貘(ばく)と、感情を“色”として視る女・ツヅリ。 ふたりは、人知れず誰かの“痛み”に寄り添い、その記憶を引き受けることで、人の心をほどいていく。 依頼はときに美しく、ときに残酷。記憶を失った者は前へ進み、貘とツヅリはただ見届ける。 それは、日常の隙間にある、小さな別れの連続。 けれど、終わりが近づくにつれ、ふたりの背負っていたものが明らかになっていく。 やがて“記憶を喰う”という行為が、自分自身を削ることでもあると知ったとき──物語は静かに転がり始める。 哀しみも、赦しも、願いも。全部、忘れてしまうその前に。人と記憶と心を巡る、静かで温かく、どこか切ない物語。

第1話 記憶喰い

この世界がまだ目を閉じている時間。 すべてが沈黙している。 


非常口の看板の明かりだけがぽつ、ぽつと浮かび、その光が廊下をうねらせている。


その先、少し離れた場所から、引き戸の開く音。 


パタッ、パタッ、と、不安げなスリッパの、床を擦る音。 


何かを探している。


身体が倒れないよう、触れた手すりや壁は冷たい。 


清潔感とは紙一重の、消毒液のような臭い。 


ここは違う。 明らかに違う。


「早く⋯⋯帰らなきゃ」


監視室のモニターに映る老婆。 


その足どりは外へ向かっている。


 誰かに、誘われるように。 


正面玄関の厳重なロックは、何故か「解除」されていた。


「帰らなきゃ⋯⋯」


彼女はその言葉を繰り返し、微睡んでいる道を進んでいった。


通りすがりの電信柱に、風も無いのにたなびく1枚の紙。 


ただひたすら歩くことだけをしていた老婆が、ふと視線をやり、無意識にそれを剥がした。


「あなたの記憶、喰います」


走り書きのように書かれた紙。 


裏面には──


その文字は、まるで“声”だった。 どこからか聞こえるように、耳元で誰かが囁いた。


「目が合いましたね」


老婆はそれを見ても聞いても無表情だった。 


空間の歪みにも気がついていなかった。


しかし、目線を前に向けた瞬間、老婆の目から涙が流れた。


「ただいま⋯⋯ただいま⋯⋯」


木造2階建ての、古ぼけたアパート。 もう取り壊されているはずの建物が、そこにはあった。


老婆は住んでいた部屋に吸い寄せられるように入り、戸を閉める。


「もう、戸締りよろしくっていつも言ってるじゃないの」


怒っている割には、柔和な笑顔だった。


室内はあの頃のままだった。


玄関も、キッチンも、トイレも。


全部覚えている、日常。


ただ、一点、違う。 


畳の居間に、誰か座っていた。


「どう?おばあちゃん。再現度凄いですよね?」


見た目は若い、着流し姿の男と、容姿端麗な着物を着た美女。


「あなた方は⋯⋯どちら様?」


ふたりはゆっくりと立ち上がった。


「おっと、これは失礼しました。僕は『貘』と申します」 


「あたしはツヅリだよ」


ふたりは軽く会釈し、また何事もなかったように座り、貘が話し始めた。


「おばあちゃん、さっき──電信柱のチラシ、取りましたよね?その行動が僕らを“呼んだ”んですよ」


やけにニコニコと人懐っこく話す、貘という男。 


一方で、隣に座る、ツヅリという女は── どこか物憂げな顔をしていた。無愛想というより、“何も信じていないような瞳”だった。


「そう、あなたたちが⋯⋯ありがとうね」 老婆はまた泣き笑いした。


貘は呆気に取られながらも、ツヅリに耳打ちする。 


「何か思ってた展開と違うんだけど?」


ツヅリは着物の袖で口を覆いながら、「この程度で怖気づいてるのかい?だらしない男だねぇ」 


ツヅリは、口元にわずかに笑みを浮かべた。


(しかし⋯⋯この老婆の感情⋯⋯いい色じゃないか)


貘は気を取り直し、老婆に話す。 「⋯⋯喜んで頂いたようで何よりです。それでは、早速ですが、記憶喰いますね」


貘が、老婆の額に右手を翳した瞬間、世界はそっと闇に包まれ、時は止まり、音も匂いも、すべてが遠のいていった。


代わりに、ひとつの光景が静かに立ち上がる。


---


春先、商店街の花屋で。


若かりし日の彼女は、小さなブーケを手に取っていた。 


棚の向こうから、まだ見知らぬ客の青年が声をかける。


「それ、似合いますね」


振り返った彼女の顔に、一瞬、戸惑いと照れが浮かんだ。


---


数年後、小さな結婚式場。 安く、質素で、けれど笑顔だけはどこまでもあたたかい。 新郎新婦は、互いの手を強く握りしめていた。


---


やがて生まれた、小さな命。 抱きかかえる父の手は不器用で、でも大きくて。 夜泣きに揺れるベビーベッドを囲んで、 眠そうな顔の母と、肩を揉む父の姿。


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父は工場で働き、母は家を守る。 弁当を持たせる朝の習慣、 帰宅後の「おかえり」の声に返る「ただいま」。 そんな積み重ねが、ゆっくりと年月を育てた。


---


子どもが巣立ち、夫婦ふたりきりの家。 けれど、そこには静かな温もりがあった。


そして定年退職。


「明日から毎日、三食一緒だな」


 「嬉しいような、困ったようなね」


笑い合うふたりの姿。


---


実家は息子夫婦に譲り、自分たちは木造二階建ての、古びたアパートの一階に引っ越した。 狭くても、ふたりなら十分だった。


雨音が響く日は縁側で将棋を指し、 晴れた日は散歩に出た。 夕方には商店街で惣菜を買い、「これ高いから今日は贅沢だな」と笑い合った。


---


そして、ある朝。


カーテンを開けると、 いつも先に起きていたはずの背中が、そこにはなかった。


掛け布団の中で冷たくなっていた、夫。


呼吸をしていないことに気づくのに、 時間はかからなかった。 でも、現実を受け入れるのには、とても時間がかかった。


「⋯⋯逝ってしまったのね。ありがとうね⋯⋯」


---


そして今、彼女はその記憶の終着点に立っていた。 


誰もいない部屋の真ん中。 


けれど、あの人の気配が、確かにそこにあった。


貘はまるでレストランでメニューを決めるように、記憶を選び始めた。


「凄い⋯⋯今日はフルコースだね。いただきます」


出会いの記憶。


「甘いというより、さっぱり。もうちょっと熟れてたほうが、好みかな〜。でも、凄く美味しい。って事は、この男の人とのやつは絶対美味しいだろうなぁ。全部食べちゃおう」


結婚の記憶。


「いや〜⋯⋯人間の“結婚”の記憶って、麻薬でも入ってるのかなってくらい、最高だね!」


ツヅリは事の顛末は見えないが、目の前にいる貘の表情がだらしなくなっているのを見逃さなかった。


「⋯⋯気持ち悪いねぇ」


老婆の、夫との記憶を『残す』という選択肢は、貘には無かった。ただ味に溺れていった。


「ふぅ、これが最後の記憶か。あれ、おじいちゃん死んでるのに、どうしておばあちゃん笑ってるんだろう? まぁいいか」


特別何も考えずに喰った死の記憶。


「(ん? 苦くない? この手の記憶は、ほぼ苦いはずなんだけど⋯⋯)」


貘には理由が分からなかったが、それよりも「満たされた」ことに酔い痴れた。


「最高だったよ、おばあちゃん。ごちそうさまでした」


貘は手を合わせ、一礼した。


老婆の記憶は、誰かがハサミで切り抜いたように、所々空白になっていた。


貘が目を開けると、部屋の時計の秒針が、カチ、カチと動き出した。


「じゃあ、僕らはこの辺で。帰りは近場まで送るね。美味しかったからサービスだよ」


貘はニコニコしながら老婆に言い、指を鳴らした。その瞬間、パン!と、老婆の視界は真っ暗になった。


⋯⋯気がつくと、老婆は電信柱にもたれかかっていた。目を開けた彼女の顔に戸惑いの色が浮かぶ。辺りはまだ闇を抱えたままだった。


「あれ、私何を? ⋯⋯帰らなきゃ」


施設を出た時とは違うテンポのいいスリッパの音が響く。 


すると、施設の職員が建物の前で老婆を探していた。


「佐藤さん、どうされたの?」 職員の佐藤はハッとした表情で、


「須田さん! どこ行ってたんですか? 心配したんですよ?」 


「ごめんなさい、散歩⋯⋯なのかしら」須田は苦笑いを浮かべた。


ふたりは施設内に入り、共に部屋へと歩き出す。


職員の佐藤が切り出す。


「須田さん⋯⋯どうやって外に出たんですか? 内側のロックが、全部解除されてて⋯⋯しかも、エラーじゃなかったんです」


「さぁ⋯⋯なぜか私も覚えてないのよ。それに、私、機械なんて分からないわ」


須田は顔に手を当てながら言った。


「ですよね⋯⋯」


佐藤はそう言うと立ち止まり、怪訝な表情で、


「それより⋯⋯須田さん。須田さんは⋯⋯本当に、須田さんですか?」


「何言ってるの? 私は私よ。⋯⋯面白い人ね」須田は軽く笑った。


「⋯⋯なら、いいんですけど」佐藤は釈然としなかったが、また歩き始めた。


部屋に着き、須田は電気をつける。時計を見ると──午前4時10分。


「まあ⋯⋯まだこんなに朝方だったのね。少し疲れた気がするし、横になろうかしら」


「そうですね。朝ご飯の時間になったら、また来ますね」


佐藤がその場を離れようとした時、


「ねえ、佐藤さん?」


須田が不思議そうに佐藤を呼び止めた。


「はい? どうしました?」


振り返ると、ベッドに腰掛けた須田が、 棚の上に置いていた写真立て手に取り、見つめていた。


それは、夫の遺影だった。


須田は、その写真を指先でなぞるように触れ、 ぽつりとつぶやいた。


「ねえ⋯⋯この方、どなた?」


---


施設の一角で、職員たちのざわめきが広がり始めた頃──貘とツヅリは、人けのない住宅街を並んで歩いていた。


「⋯⋯さっきの記憶、そんなに美味しかったのかい? あたしもつい、反射的に“気持ち悪い”なんて言っちまったけどさ」


ツヅリは小さく息を吐いて笑った。鼻で笑ったというより、少しだけ貘に呆れながらも、どこか安心したような笑みだった。


貘は両腕を大きく広げて、夜空に向かって叫ぶように言った。


「素晴らしい記憶だったよ⋯⋯! 人の幸せは、最高のスパイスなんだよ。そして、それは僕の幸せに繋がる⋯⋯まさに──ウマーベラス!」


ドヤ顔の貘を、ツヅリは横目で一瞥し、


「何が“ウマーベラス”だい。この鬼畜美食家め」


と、呆れた顔で歩くスピードを速めた。


「あっ、それいいね! 今度名刺作って、“役職:鬼畜美食家”って書こうかな!?」


「勝手にしな!私は帰って早く縫い物したいんだよ!」


小走りで追いかける貘に、ツヅリは前を向いたまま笑みをこぼした。



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