「暴喰⋯⋯?ダメだよ!それは⋯⋯」
ツヅリはそう叫んだあと、貘の中に煌めく──赤や橙、青を纏った、燃え盛る“炎”を見た。
「⋯⋯色が、違う⋯⋯“人の色”のままだ⋯⋯」
貘は再び黒の中へ踏み込んだ。
「何度やっても同じこと⋯⋯」
視界が渦を巻く。
ただの記憶じゃない。
“忘却の海”そのものが、彼の存在を溶かそうとしている。
記憶の奔流が、音もなく吠える。
かつて殺された者の断末魔。
見捨てられた子どもの慟哭。
無数の“救えなかった手”が、貘の身体を掴み、引きずり込む。
それでも──
「僕は⋯⋯喰うって決めたんだ⋯⋯」
貘は、歩いた。
一歩、また一歩。
耳を塞がず、目を閉じず、叫びに顔を背けず。──まるで、世界の全部を抱きとめるように。
やがて、記憶の奔流の“根源”に辿り着いた。
そこにあったのは──
「人間の顔」だった。
老若男女、国も時代も違う無数の顔が、何層にも重なっている。
泣いている者も、笑っている者もいた。
怒り、後悔、怨嗟、愛情、その全てが渦を成していた。
貘はゆっくりと、その塊に手を伸ばした。
「痛いよね⋯⋯でも、置き去りにはしない」
そう呟いて、引き裂いた。
混沌の記憶が爆ぜる。
それを、ただ静かに──喰らった。
しかし、貘には大きすぎる負担になった。
身体全体をきつく締め付けられているような感覚に襲われる。
「うううぅぅ⋯⋯ぐっ⋯⋯」
次の瞬間──黒は音もなく弾け飛んだ。
目の前に、拝殿の景色が現れる。
「黒が⋯⋯消えた」
ツヅリは、放心にも近い状態で呟いた。
「⋯⋯まだだ!──まだ、みんなの記憶が弄られてる!早くしないと、“残せない”!」
貘は血に濡れた身体を引きずるようにして立ち上がり、右手を高く上げ、術式を広範囲に展開した。
空間が歪む。
まるで記憶たちが──暴喰の効果で、美術館の展示物のように、静かに、慎ましく、輝きを放ちながら無数に並び始めた。
そこには、誰かが笑った顔。
誰かが誰かを想った記憶。
壊れていたけど、確かに美しかった“時間”たち。
「これも⋯⋯これも、残さなきゃ⋯⋯」
貘は、無理やり押し込まれた“負の記憶”をひとつ、またひとつと喰らっていく。指先が震えても、足が砕けても、決して止まらなかった。
「あんた!もうやめな! それ以上は──!」ツヅリの声は、泣き声に近かった。
彼女は気づいていた。
貘が、命を賭けていることに。
でも──貘は、微笑んだまま、止まらなかった。
境内の外へ。
参道へ。
その先にいる人々の記憶までも──彼は喰い尽くした。
そして──
「はぁ、はぁ、はぁ⋯⋯」
完全に“喰い終えた”貘は、崩れるようにその場に倒れ込んだ。
「バカ!あんた!大丈夫かい!? しっかりしな!」
ツヅリが駆け寄り、その身を抱きかかえる。
「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯ツヅリ⋯⋯ありがとう⋯⋯」
「何のありがとうだい! 私だって、あんたに感謝してるよ!」
「僕⋯⋯カッコよかったでしょ?」
「何言ってんだい⋯⋯ほんと、バカだね、あんたは⋯⋯」
「僕なりに⋯⋯“残せた”よね?」
「残せてるよ!みんなにも!私の中にも、嫌ってほど!」
「⋯⋯よかった」
その言葉のあと、貘は、ゆっくりと右手を持ち上げ──ツヅリの額に、そっと翳そうとする。
「やめて⋯⋯やめてくれよ、お願いだ」
ツヅリは叫んだ。
「嫌だ、嫌だ嫌だ! あんたのこと、忘れたくない!いなくなっても、あたしの中に、ずっといるんだよ! それでいいじゃないか!」
涙が、次々にこぼれ落ちる。
その一粒一粒が、貘の頬を濡らし、頬を伝って、地面に落ちる。
「ツヅリは⋯⋯“残せる”から⋯⋯みんなが、いるから⋯⋯だから、大丈夫だよ⋯⋯」
「⋯⋯でもさ、もっと、側にいたかったなぁ⋯⋯」
そのとき。
闇の術式が、静かに、ツヅリを包み込んだ。
「嫌だ⋯⋯嫌だよ貘⋯⋯!やだ、こんなの⋯⋯!」
「私たち、同じだったんだろ? “同体”なんだろ⋯⋯?」
「⋯⋯やっと、名前、呼んでくれた⋯⋯」
「⋯⋯嬉しいなぁ」
「貘⋯⋯!嫌だ⋯⋯っ」
ツヅリの絶叫は、色も、音も、すべてを失った空に──虚しく、そして、優しく、消えていった。
───
ツヅリの記憶の中。
そこは、ひと針ごとに縫われたような世界だった。
柔らかく、優しく、確かに“色”を持った時間。
けれど、それはもう戻らない。
だからこそ──慈しむように、喰っていく。
貘はよろめきながら、その世界を歩いていた。
足取りは重いが、迷いはない。
記憶は、エンドロールのようにゆっくり、ゆっくりと流れている。
ひとつずつ、自分のそれに手を伸ばして──口に運ぶ。
初めて記憶喰いをしたあと。
「何が“ウマーベラス”だい。この鬼畜美食家め」
「⋯⋯ははっ、ひどいなぁ」
ツヅリの呆れ声に、貘は苦笑しながら記憶を喰う。
次に現れたのは、ドーム球場の観客席。本気で怒られて、内心ちょっと嬉しかった。
「あたしのキャラメコーンだっ!!」
「ごめんってば⋯⋯でも美味しかったなぁ」
その声を、愛おしそうに喰う。
ツヅリのお使いの帰り道。
きっと沢山お菓子でも食べたんだろうってすぐに分かった。
「⋯⋯そういう時だけ目を見て話すのやめろよな!あんたにはスコーンはやらない!絶っ対に!美味い鯛焼き屋も教えない!絶っ対に!!」
「⋯⋯本当に太ったと思っただけなんだけどなぁ⋯⋯」
貘は照れたように呟きながら、その記憶を味わう。
──場面は変わる。
重苦しい空気の中、ふたりはある女性の記憶を共有していた。
「あたしは⋯⋯遥に幸せになって欲しかった⋯⋯でも⋯⋯私のせいで⋯⋯」
「⋯⋯自信が過信だったって分からされた」
誰かのために泣いたツヅリを、そっと抱くように記憶を喰う。
次は、ヒカリ座からの帰り道。
どこか嬉しそうなツヅリの声が残っている。
「⋯⋯内容が全く分からないつまらない題名だね。それよりもどうしてあたしが後なのさ。『ツヅリと貘』だろ?」
「⋯⋯僕は、未だに『貘とツヅリ』がいいって思ってるよ」
その思いを、そっと、喉の奥へ落とし込む。
ユカリに怖気づいた日。
「ふぅん。じゃあ、あたしも一緒に行ってやるよ。何かあったら、助けられるようにね」
「──心強かった。あれほど頼もしかった日は、他にないよ」
笑みが滲む。
温かな記憶を一口、また一口。
そして、“あの生き物”と対峙した夜。
「そうだよ⋯⋯あんたは、“人間になりたい生き物”よりも──よっぽど、人間じゃなかったよ」
「⋯⋯ねぇツヅリ。僕、人間だったかな。少しでも──君の目には、そう映ってたかな」
涙の味がした。けれど、それも悪くなかった。
次は、初めて会った日の夜。
「そうだね。貰った命を、無駄にはしないさ」
「⋯⋯あの瞬間の眼差しは、輝いてた。今も変わらないよ」
一歩ずつ、色が変わっていく感覚を確かめながら、前へ進み、喰う。
しばらく離れたあと、最初のやり取り。
「⋯⋯あんたから話しなよ」
「⋯⋯あれだけで、世界が赦してくれる気がしたんだよ」
そう呟きながら、手でそっと記憶を掬い、口へ運ぶ。
そして最後に、ツヅリが認めてくれた言葉。
「⋯⋯あんたに、色が見える」
「⋯⋯僕が生まれて、生きて、ここに来た意味が⋯⋯ほんの少しだけ、分かった気がしたんだ」
静かに、深く、喉の奥に沈める。
──すべての記憶を喰い終えたとき。
貘はツヅリの姿を思い、
「ツヅリ⋯⋯僕の記憶は、全部喰ったよ。全部⋯⋯美味しかったよ⋯⋯」
「⋯⋯あれ?⋯⋯まだ⋯⋯残ってる。でも、もう──それでいいや⋯⋯」
「ありがとう、ツヅリ⋯⋯」
泣き笑いのような顔で、ぽつりと呟く。
そして、ゆっくりと座り込み、目を閉じた。
──ここで幕が下りても、きっと悔いはない。
この時間、この色、この温度。
そのすべてに、感謝できるから。
───
ツヅリは気がつくと、見知らぬ男を抱きかかえていた。
頬は涙で濡れ、胸の奥がじんわりと痛む。
「えっ⋯⋯誰だい?あたしは⋯⋯泣いてる⋯⋯?」
ツヅリはゆっくりと顔を上げると──その男は、静かに、微笑んでいた。
けれど、その輪郭は少しずつ透け、まるで風にほどける糸のように、空へと還ろうとしていた。
ツヅリの目には、確かに見えた。
その男の身体から、やわらかな光があふれていた。
──“色”だった。
それも、見たことのないような、美しく、澄んだ色。
「人の色⋯⋯?」
思わず、呟いたその声が震える。
「いや⋯⋯人でもなかなか持ってない、こんなに、綺麗な色なんて⋯⋯」
その色は、寂しさを含みながらも、どこか満ち足りていた。
──ありがとう、と言っているようだった。──もう大丈夫だよ、と囁いているようだった。
そして、光の粒は月明かりの空に吸い込まれるように消えていった。
ツヅリの手の中には、誰もいない。
けれど、ぬくもりだけが、確かに残っていた。
事件は、その日のうちに全国ニュースとして報じられた。
“突如発生した昏倒と記憶障害──かつて記録された200年前の病に酷似”各局のキャスターはそう繰り返したが、どの番組も、ある一点に触れた瞬間、困ったように言葉を濁す。
“にもかかわらず、今回の騒動では──重症者も、死亡者も、ひとりも確認されていないのです”
沈静化はあっけないほど早く、社会の流れに飲み込まれるように、事件は風化していった。
数日後。
ツヅリは、いつものように縫い物に没頭していた。
薄明かりの倉庫。
布の擦れる音と、針の通る音だけが、静かに響いている。
「⋯⋯なんかさ、祭りのあとから⋯⋯ここが、やけに静かな気がするんだよねぇ」
手を止めて、棚に置かれた布を見る。
淡い藍色の布地に、金糸が流れるように刺されていた。
それは、ツヅリが仕立てたもの。
自分の作品で間違い無い。
けれど、“知らない”。
それでも──
「この色は⋯⋯憂いや静けさに、希望。⋯⋯“人の色”だろ? 誰の⋯⋯」
ぽつりと呟いたそのとき──
倉庫の扉が、音を立てて開いた。
「姉ちゃん、取り込み中悪ぃけど、ちょっと店手伝ってくれねえか?」
「⋯⋯ああ、いいよ」
目を伏せたまま答えて、けれどその視線は、棚の布から離れなかった。
──鯛焼き屋の店先。
店主はいつものように生地を流し込みながら、ぽつりとこぼした。
「この前までよぉ、ここを手伝ってくれてた奴がいたと思うんだけどな⋯⋯なんでだろうな、思い出せなくてよ」
「おやっさん、その歳でもうボケたのかい? あたし以外に手伝ってる奴なんて、いなかったじゃないか」
「だよなぁ。はは、こりゃまいった」
そう言って、焼きあがった鯛焼きを型から外す。
ツヅリはそれを受け取って、包み紙に入れた。
──そのときだった。
一瞬、何かが──“何か”がよぎった。
(⋯⋯鯛焼き屋で、手伝ってた人がいた⋯⋯?)
そして、ふいに“声”が甦る。
「まぁ、とりあえず、僕は君と一緒にいないといけないみたいだから、これからよろしくね」
目の前がにじむ。
包み紙の上に、涙がぽとり、ぽとりと落ちた。
「誰⋯⋯? 誰なんだい⋯⋯?知ってる⋯⋯知ってるのに、思い出せない⋯⋯あんたは、あたしにとって──すごく、大切な人のはずなのに⋯⋯」
その涙が落ちた焼きたての鯛焼きから、じゅっ⋯⋯と音がしたような気がした。
それが錯覚かどうかも分からないまま──ツヅリは、そっと目を伏せた。
「おい、姉ちゃんどうした?」
手の中の鯛焼きは、ほんのりと、温かかった。
それからというものの、あたしはいろんな物に反応するようになっちまってね。
家具屋で見た、見覚えのあるソファ。
ドーム球場。
セイカーズの堂島って選手。
キャラメコーン。
公園の東屋。
閉館したヒカリ座。
駅前のロータリーのベンチ。
歓楽街の雑居ビル。
住宅街の空き地。
近くの神社。
街の、ただの普通の道。
そして、おやっさんから借りた倉庫。
目に入るたびに──ふっ、と、誰かが隣にいるような気がするんだ。
声も、顔も、思い出せないのに、そこにいる気がして、まるで、糸くずみたいな感情が胸の奥でくすぶる。
⋯⋯縫い物に根つめ過ぎたのかね?
それとも、あたしの中の、何かが──ほどけかけてるのかもしれない。
いや、違う。
この感覚は、きっと“ほどけて”なんかいない。
逆に──“結ばれてる”気がするんだ。
気づかないところで、あたしの中に、誰かが確かにいるって──そんな気がしてならないのさ。
数年後。
あたしは、小さな店を開いた。
店の名前は──「縫(つづり)」。
言葉にするのは少し照れ臭かったけど、“この名”で呼ばれるたび、どこかくすぐったくて、嬉しかったりもする。
「舞、ちょっとそこの布取ってくれるかい?」「はーい!」
舞は、ここで働きながら、あたしの弟子として縫い物を学んでるのさ。
ちょっと不器用だけど、根は真面目で優しい子だよ。
たまにあたしの顔を見て、ぼーっとしてることがあるけど。
「ツヅリお姉ちゃーん、こんにちはー!」
「ヒナ、来たね」
ヒナは、週に何度も顔を出す常連さん。
裁縫教室の生徒で、毎回新しいアイディアを持ってきてくれるんだ。
⋯⋯出会った頃に比べたら、少し、お姉さんになったね。
「ツヅリお姉ちゃん、この端っこの動物の刺繍⋯⋯何?」
「これかい?“バク”さ」
「バク?動物園にいる、あのバク?」
「そう。悪い夢を喰ってくれる、いい奴なのさ」
「ふーん、何か形が可愛いね!」
「そうかい?きっと⋯⋯憎めない奴なんだろうね」
なぜだろう。
そう言ったとき、少しだけ胸があたたかくなった。
それが“何に対しての感情”なのか──分からないのに。
でも、この感覚が、きっと“あたしらしさ”なんだと思うんだ。
そういうふうに、誰かが──教えてくれた気がする。
昼下がりの、のんびりとした一日。
針の音と、布の香りと、みんなの笑顔。
それが、あたしの“今”を満たしている。
これからも、あたしは──布を、糸を、人の想いを、ゆっくりと、丁寧に紡いでいくんだ。
ずっと、名前も、姿も、思い出せないけれど、あの「刺繍のバク」は、あたしの店のどこかで──いつも、優しく笑ってる気がするのさ。