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第5話|次の女

慎司の指先に、まだ春菜の震えが残っている。

 USBを百地に預けた瞬間から、店内の空気は何事もなかったように元の熱と匂いを取り戻した。


 「……ごめんなさい。ごめんなさい……」


 春菜は何度も頭を下げ、泣き笑いを繰り返した。

 百地は何も言わず、鉄板を磨いている。


 「もう大丈夫だ。」


 慎司が短く告げると、春菜は頷きながらも慎司の袖を離そうとしなかった。

 カウンターの奥で、里奈が微かに笑っている。


 「……私……私、バカですね……。

 こんなことになって……もう、どうしたら……。」


 涙混じりの声が途切れ、春菜はゆっくりと顔を上げた。

 頬は赤く、目元も潤んでいる。


 「……高村さん……もう、私……どうにでも……」


 春菜の手が慎司の胸元に伸びる。

 指先がシャツのボタンを一つ外す。


 「ホテル……行きたいです……。

 お願い……抱いてください……。」


 店内の誰もが見ないふりをしている。

 慎司だけが、春菜の瞳を真っ直ぐに見つめていた。


 ――あと少し、あと少しで全部手に入る。


 それでも慎司は、ゆっくりと首を横に振った。


 「……俺は、こういう時は興ざめするんだ。」


 春菜の肩が、小さく震えた。


 「先生は先生に戻れ。

 今日のことは、全部ここで終わりにしろ。」


 慎司の言葉に、春菜の目からまた涙が溢れた。


 「……はい……」


 声は小さいのに、ちゃんと届いた。


 店を出る時、春菜は振り返って一度だけ微笑んだ。

 泣き虫教師は、明日からまた誰かの前で強い大人に戻る。


 慎司は鉄板前に戻り、冷めたジョッキを一気に空けた。


 「また面倒を片付けましたね。」


 里奈のからかう声が背中越しに聞こえる。


 「余計な世話だ。」


 慎司は笑い、ポケットからスマホを取り出した。


 新しい通知が光っている。


 『玲奈(27)/0.8km圏内』


 慎司は無言で画面を閉じ、店主の百地に軽く頭を下げた。


 ――煙の奥には、まだ面倒な女がいくらでもいる。


 外に出ると、丸の内のビル街が夜の匂いを漂わせている。


 慎司は心の中で、いつもの一言を繰り返した。

 「……行きたい店がある。」

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