元生徒とのやり取りを終えた慎司は、春菜を連れて再び『丸の内もへじ』へ戻った。
夜の新丸ビルのフロアは、人影がまばらだ。
店に入ると、百地が無言で奥の席を空けてくれた。
店内は少し混んでいるが、慎司と春菜の周りだけが不思議に隔絶されている。
春菜の指先はまだ慎司の袖を離さない。
酔いが醒めきらない瞳が、鉄板の熱気でまた潤んでいた。
「……大丈夫。ちゃんと終わらせる。」
慎司がそう告げると、春菜は無言で頷いて慎司の肩に頭を預けた。
その時、ドアのベルが無遠慮に鳴った。
「先生、久しぶりじゃん。」
若い声。
店内の空気が一瞬で張り詰める。
慎司が顔を上げると、細身のパーカー姿の若い男がカウンターの端に立っていた。
元生徒。
やる気のない笑顔と、薄汚れたプライドを全身にまとっている。
「お前が俺を呼んだんだろ?」
生徒はふてぶてしく近づく。
慎司は立ち上がらずに目だけで制した。
「ここは、騒ぐ場所じゃない。」
慎司の声が低く落ちる。
生徒は一瞬、唇を歪めたが、鉄板を挟んで向かいの席に腰を下ろした。
「先生の秘密、まだバラしてねぇからな。」
ニヤニヤ笑う生徒に、春菜が小さく身をすくめた。
慎司の肩に隠れるように体を寄せ、震えた手で彼の胸元を握りしめる。
――女の胸の膨らみが、慎司の腕に触れる。
理性の残骸を必死に抑え、慎司は生徒を睨んだ。
「金が欲しいんだろ?」
慎司が切り出すと、生徒は鼻で笑った。
「証拠が欲しい奴に売ったっていいんだぜ? 卒業証書のデータ――」
「……お前、いくつだ。」
唐突な慎司の問いに、生徒は不意を突かれたように眉をしかめた。
「は?」
「年を聞いてんだ。」
「二十……」
言いかけた生徒の顎を、慎司は空いた手で掴み上げた。
「二十歳にもなって、女ひとり脅して小銭稼ぎか。
そんな安い人生で、誰がビビると思ってんだよ。」
声を荒げないまま、慎司の目が鋭く光る。
店内の客も百地も、鉄板を前に誰も口を挟まない。
生徒の顔色が、鉄板の火より青ざめていく。
「……証拠データ、出せ。」
慎司が吐き捨てるように言った。
生徒は唇を噛み、震える指でUSBをテーブルに置いた。
慎司はゆっくりと顎を放し、息を吐く。
春菜が、まだ慎司の胸に顔を埋めていた。
小さな声が、湿った髪の奥から漏れた。
「……ありがとう……高村さん……」
――鉄板の煙の向こうで、また一つ嘘が溶けた。