目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

7

「高見教授! 少しご相談が」


 大教室での講義を終えて廊下に出た私を、待ち構えていた男がいた。よく声を掛けてくる教務課の職員だ。恐らく私の補助担当なのだろうが、必要ないので何かを頼んだことはないし、興味がないので名前も覚えていない。


「ああ、君か。構わないが、教授室にゼミ生を待たせているので手短にお願いしたい」

「あ、ちょうどその件です。来年度のゼミ生募集ですが、今年と同じく十名でよろしいでしょうか……」

「というと?」

「高見教授の『神秘学研究』ゼミは、毎年大変な人気じゃないですか。なのに、文学部の他のゼミの半分の定員だなんて、学生が少し可哀想だなと」

「そう思うなら、君がゼミをやればいい」

「高見教授ぅぅぅ……そんな意地悪、言わないでください」


 立ち止まっていては長くなりそうだなと思い、私は歩き出すことにした。男は縋るような目をして半歩後ろをついてくる。


 大教室のある一階から八階まで、階段で上るほど私は健康意識が高くはない。エレベーターホールでボタンを押して待っていると、通りがかったゼミ生に挨拶を投げられる。


「高見先生、お疲れさまです」

「ああ、月嶋つきしま君、お疲れさま」


 にこりと人懐っこい笑みを浮かべて、君は友人と共に去っていく。

 教務課の男が、一歩私に身を寄せて、潜めた声で言った。


「高見教授、今の月嶋って」

「私のゼミ生の、月嶋真宵ですよ」

「ああやっぱり。彼の前期の成績が昨年に比べて異常に悪くて、成績通知書を受け取った親御さんからクレームが……」

「だから何だ? 彼は私のゼミには皆勤しているし、成績もAだ。ゼミ生だからといって、二十歳も過ぎたいい大人に、ゼミ以外の勉強もしなさいと私が叱ってやれとでも?」

「あ、いえ……そういうわけじゃないんですが」


 エレベーターが到着した。扉が開き、数人の学生たちが、教授である私の姿を見て、会釈しながら足早に出ていく。


 空になった箱に私が乗り込み、続いて男が身を滑り込ませてきたあと、一階でエレベーターを待っていた私以外の学生たちは、私から見えない位置まで逃げるように後退した。

 気を使うから一緒には乗りたくないというわけだ。ありがたい。こちらとて同じ気持ちでいる。


 男が"閉まる"ボタンを押し、8の数字を点灯させた。


「あのう、実はもうひとり、教授のゼミ生で成績がガクンと落ちた子が……」

「誰だ?」

「朝倉颯真そうまです」

「なんだ、朝倉君か。彼も親御さんがクレームを?」

「いえ、違います。彼の場合はただ、その下がり幅が、教務課で設けている基準に引っかかったので」

「なるほどな。それで、私にどうしろと?」

「どうしろ、というか……彼はよく高見教授の教授室に来ている、と」

「ああそうだ。朝倉君は勤勉だからな。私によく神秘学の教えを請いに来る。彼にしても、前期の成績はAだ。他の教科は知らないが」

「あの、率直に言います教授。単位が足りなくて留年すると可哀想ですので、後期にはゼミ以外にも力を入れるよう、言ってあげてください。叱るのではなく、諭す、という方向ならばいいでしょう?」

「……善処しよう」


 八階に到着する。開いた扉から下りたのは私ひとりだけで、教務課の男はそのまま閉まる扉の向こうに消えた。


 自分の教授室まで歩いていき、ドアノブに手を掛けて引き開ける。鍵を掛けていないのは、中に朝倉君を待たせているからだ。


 彼は私の姿を見ると、花の咲きこぼれるような笑みを浮かべる。


「今日もよろしくお願いします、センセ」



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?