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 青白い空の下、僕は大正時代みたいなモダンな洋館の前に立っていた。


 淡いクリーム色の外壁に、深緑の屋根がよく映える。半月型のアーチを描く玄関扉は、上部が色鮮やかなステンドグラスになっていた。

 二階にはバルコニーが張り出していて、夜になれば窓からジュリエットでも現れそうな浪漫的な雰囲気だ。


 僕は、以前からそうするのだと決められていたかのように、自然に玄関ポーチへ上がり、ドアノブに手をかけた。

 鍵はかかっていなかった。

 重厚な扉を引き開けると、内側からふわりと漂ってくるのは、古い紙と木材が溶け合ったような、博物館に似た香り。


 玄関を入ってまず目につくのは、正面の階段を上った踊り場にある巨大なステンドグラスだ。色とりどりの花畑の上の青空を鳥が飛んでいくデザインで、差し込む陽光が床の赤い絨毯の上に光模様を落としていた。


 エントランスは二階まで吹き抜けになっていて、見上げれば、天井からは黒鉄くろがねのシャンデリアが下がっている。


 目の前の階段を上がっていきたい欲求を押さえて、僕は一階の廊下を進んだ。そうしなければいけないような気がした。

 僕は何かを――形も色もわからない何かを探していた。


 目についた扉をひとつずつ開けていく。


 初めに入ったのは応接室だ。焦げ茶色の革張りのソファ、テーブルの上に伏せられた読みかけの雑誌、半分ほど減った飲みかけの紅茶、レコードがセットされた蓄音機。

 人のいた痕跡が残っているのに、気配はまるで感じられない。


 次は食堂。白いクロスがかけられた長テーブルと椅子が整然と並び、テーブルの中央には花瓶に挿された花がある。花はまだ、瑞々しさを保っていた。

 皿やカトラリーは見当たらないが、椅子のひとつだけがわずかに引かれていて、そこに座っていた誰かの存在を静かに示している。


 僕はそうしてキッチン、トイレ、浴室、と一階の扉をすべて開けて回った。


 ようやくエントランスに戻ってきて、念願の階段を上がる。一段ごとにふわふわの絨毯を踏みしめる感触が、妙に心地よい。


 廊下を進んで最初に入った部屋は書斎だった。そこは他の部屋に比して恐ろしく雑然としていた。いや、言葉を選ばず言えば、荒れていた。

 分厚い本が床にも机にもあちこちに積まれていて、何か所かは雪崩を起こしている。


 本が置かれていない場所にも余白はない。およそ書斎に不要な物たちが散らばっている。たとえば金メッキの剥がれたトランペット。冬用のブーツと手袋が、片方ずつだけ。脚が割れて揺れなくなったロッキングチェアはもはや、座ったら怪我をしかねない、危険な粗大ゴミだ。


 続いて入ったのは寝室。ベッドは広く、クイーンサイズはある。掛布団が捲られていて、シーツには誰かがふたり、横たわっていたような痕跡があった。

 触れてみると、その部分はかすかに生ぬるい。


 夫婦の寝室だろうか、と思い至って、それ以上の詮索をするのをやめた。なんだか気まずくなり、そそくさと廊下に逃げ出る。


 廊下の窓から外を覗くと、左右対称の西洋庭園が見えた。こちらは、館の裏手だ。これほど大きな庭があったとは、正面からは気づかなかった。


 幾何学模様に植えられた木や草花の中央に、噴水がある。不思議なことに、噴き上がる水は透明なのに、下に溜まった水だけが、深いエメラルドグリーンをしていた。


 近くで見てみたい。そんな衝動に背を押されて、僕は階段を駆け下り、裏口から庭へ出た。中央の通路を、噴水目指して小走りに行く。


 近くで見上げてみると、いっそう不可思議だった。空高く噴き上がる水はどこまでも無色透明だ。

 なのに、両手を器にして掬い上げてみた水は、淡い緑色をしている。そして、それらが寄り集まってできた濃いエメラルドグリーンの水面は、濁りなく澄んでいて、噴水の内部をどこまでも見下ろせた。


 そう。

 驚くことにこの噴水には、底がなかった。白石造りの縁に手を掛けて上体を乗り出しながら、落ちてしまったら……という恐怖と、落ちてみたいという好奇心とがない交ぜになって湧き上がる。


「おいで。怖くはないよ」


 どこからか、声がした。聞き覚えのある声なのに、誰だったか決定的には思い出せない。

 声は続ける。


「けれども一度こちらへ来たら、もうそちらへは引き返せない」

「どうして?」


 と僕は聞き返す。


「私が離さないからだ」

「どうして?」

「私という人間は、生来、そうなんだ」

「どうして――『離れないで』って言わないの?」


 水面から、ごぽごぽと泡が立ちのぼる。まるで、誰かが底で溺れているかのように。


「蚊に刺された手の甲は、先生のおかげで痒くなりませんでした」


 エメラルドグリーンの水から腕が伸びてきて、僕の手首を掴んだ。

 その手に僕は覚えがあって、その手は僕より熱かった。


 逃げようとは思わなかった。抵抗する気なんて、初めからない。

 僕はそのまま、水の中へと引き込まれていく。


 エメラルドグリーンが翡翠色とよく似ていることに、僕は沈みながら、気づいたのだった。




 ハッとして目を開けると、蛍光灯の明かりで逆光になった先生が僕に覆い被さっていた。

 目の端に見える景色で、自分が教授室の長机の上に仰向けに寝ていると気づく。


 背中が痛かったけれど、それよりも下腹部の圧迫感に驚いた。

 いつの間にこんなことになったんだっけ。

 ベッド以外でこんなことをするのは初めてだった。


「すまない、痛かったか?」


 こめかみを伝った生理的な涙を、先生の少しかさついた指が拭っていく。


「朝倉君?」

「だい、じょうぶ……」


 僕は先生の首に腕を回した。

 僕の中の先生が、僕の内臓をゆっくりと撫でていく。


 こんな場所での行為だというのに、得も言われぬ幸福感が唇からこぼれ出る。


「気持ち、いい……センセ、もっと……」


 室内のどこかで、積まれた本が崩れる音がした。

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