平日の午後二時でも賑やかな商店街を通り過ぎ、春薔薇が咲き乱れる公園を左へ曲がる。しばらく進むと突然、森の入り口のような小道が現れた。両サイドに植わる大きな樹木のせいで、その小道は少し薄暗い。奥には洋風な玄関扉が見えるが、建物全体が新緑の蔦で覆われていて、どこまでが庭木で、どこからが建物か分からなかった。
通称、蔦の洋館。手元の地図アプリで再び住所を確認すれば、見た目通り、この場所で間違いない。
深くため息をつきながら、石畳になった小道を進み、玄関の前まで歩みを進めた。どんな対応をされるのか憂鬱だが、仕事だから仕方がない。この一年、何もかもが上手く行かず、よいことが全くない日々。今日という日にも、一つの期待も寄せてはいない。それでも紺色のネクタイの歪みを直し、「よし、頑張れオレ」と気合を入れる。
インターフォンを探したがどこにも見当たらないので、扉を拳でコンコンとノックした。こんな大きな洋館なのだから、玄関ホールにでも居なかったから、ノックの音など聞こえないだろう。それなら「本日は会えませんでした」と会社に戻り上司に言えばいい。イヤミを言われる上に、どうせまた明日には、出直さなければいけないだろうけど。
「あっ」「おっと」
予想に反し、勢いよく重厚な玄関扉が開いた。うっかりぶつかりそうになり跳びよける。
扉を開けた相手も驚いた顔をしているので、オレのノックに反応した訳ではないのだろう。
「こんにちは。驚かせてしまいましたか。ごめんなさい」
爽やかな五月にぴったりの笑顔で、目のクリっとした青年がオレに挨拶をしてくれた。この人が画家の岩山龍弥(いわやまりゅうや)だろうか?いや、岩山はアラフォーだと聞いている。この青年は二十代、オレの二、三歳下といった感じだ。そもそも岩山は偏屈で有名。こんな愛想良く笑いかけてくれるはずがない。誰だろう?
「あの、ご用件は?」
目の前の彼はそう言って小首をかしげる。柔らかそうな癖毛がホワっと揺れた。いけない。男性アイドルグループにいそうな雰囲気の青年が、あまりにも真っすぐにオレを見てくるから、見惚れてしまった。慌てて背広の内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚を青年に差し出した。
「申し遅れました。私、エレファント企画のイベント事業三課、草地啓人(くさちけいと)と申します。画家の岩山先生はご在宅でしょうか?」
「あぁ、龍弥さんのお客さんですね」
青年はまたニッコリとオレを見て笑う。アイドルにファンサをもらうってこんな気分なのだろうか。実家の妹が繰り返し繰り返しコンサートの配信動画を見ては、「推し」のカメラ目線にキャーキャー言っていた気持ちが一瞬で理解できてしまった。
ダメだダメだ。余計なことを考えていてはいけない。オレは仕事で来ているのだから。
「岩山先生には私がご訪問させていただく旨、エージェントの山本様経由で連絡がいっているかと思うのですが」
「そうなんですね。でもたぶん今は龍弥さん、集中していて。一時間ほどすればエネルギー補給で部屋から出てきますので、お待ちいただけますか?」
「では、一時間後に出直させていただきます」
そう言って回れ右をしようとしたのに、青年はリビングで待てばいいと、オレを招き入れてくれた。
洋館の外観に相応しい年季の入った家具が配置されたリビングには、大きな掃き出し窓があり、庭の鬱蒼とした樹々が見渡せる。これなら都心の中にありながら、周りの目など気にならずに生活ができるだろう。
青年は有無を言わせぬスマートさで、オレをソファに座らせ、香りの良いコーヒーを淹れてくれた。鮮やかな黄色いカップがお洒落だ。
しかもその間、さりげない世間話もしてくれる。
「五月にしては暑いですよね」とか「ここへくる途中の公園は薔薇が見頃ですけど、気が付かれました?」とか、本当に感じがいい。上も下も黒色のシンプルな服装に身を包んでいるのに、彼には華があった。
ところでこの青年、出掛けるところだったのではないか。だから玄関で鉢合わせしたのだろう。
「あの、」
「僕、ちょっと出掛けてきます。えーと、草地さん?でしたっけ。甘いものは洋風と和風、どちらがお好きですか?」
「え、あっ、和風が」
「了解です。龍弥さんが部屋から出てくる頃に戻りますから」
口が挟めないほど澱みなくそう言い笑顔で締め括った青年は、玄関の扉から出て行ってしまった。オレは広いリビングのソファにポツンと取り残された。
オレが四月から再就職した会社は、簡単に言ってしまえばイベント関連の業務を行っている。
所属する課では、秋に完成する大型商業施設のオープニング企画が進行していて、その中の一つが最上階のギャラリースペースで行われる岩山龍弥の個展だ。
藝大在学中の初期から現在に至るまでの油絵作品が一挙に並び、岩山にとっては過去最大規模。更に、新たなテーマで描かれた連作が展示の目玉として発表される予定だ。
しかし、その絵の進行具合がいかほどなのか、全く伝わってこないらしい。
岩山自身は外部との接触はエージェントに任せていて、表に出てこない。顔も公表していない。
「万が一、新作が間に合わなかったらどうするんだよ!こんなに告知しちゃってるのにさ」
弊社の人間は誰も岩山と会っておらず、上層部には不安が募っているという。
エージェントの山本はのらりくらりとした老人で、暖簾に腕押し。裏に誰か実務を担当している人がいるらしいという噂だが、窓口は山本だけだという。
それでもオープニング企画で岩山の展示をしたいほど、彼の絵の評価は高い。明るい色を独特のセンスで多色使いしているのが若い層にも人気で、海外のコレクターも多いと聞く。
というわけで、この春中途採用されたオレに白羽の矢が立ったのだ。
「草地、新作の絵が完成するまで、岩山のアトリエをしつこいほど訪れて状況を探ってこい」
これがオレに課されたミッションだった。
偏屈な岩山の機嫌を損ねたりしたら、あっさり首を切られることは目に見えている。
青年が出掛けて三十分ほど経ったが、まだ戻ってこない。出してもらった美味いコーヒーは飲み終わり、知らないリビングで時間を持て余す。つい、先ほどの青年の笑顔、爽やかな声色を思い浮かべ、一人ニマニマとしてしまった。こんな風に会って間もない人間に心を奪われたのは初めてだ。帰ってきたらきっと、「お待たせしました」とオレの目を見てニコリと笑ってくれるのだろう。
いや今は、そんなことを考えている場合ではない。オレは、岩山に会うためにここへ来ているのだと、姿勢を正し、ソファに座りなおす。
それにしてもあの青年は何者なのだろうか?
手がかりを探すべく、リビングをぐるりと見渡す。岩山の絵が飾ってあったりしそうだが、壁に絵画は一枚もなかった。掃き出し窓の外へ目線をやれば、ソファに座った姿勢でも庭木がよく見える。奥の方に、ツヤっとした赤い実が幾つもなっている大きな木があった。
あれはなんの実だろう?
もっと近くで見たくてソファから立ち上がり、窓際に行く。掃き出し窓は換気のためか十センチほど開けられていて、手を掛ければ容易に開いた。窓を出た先は、白い柵のあるバルコニーになっている。置いてあったサンダルを履き、誘われるように外へ出れば、先ほどの赤い実がよく見えた。
「サクランボだ!」
木に生っているところを初めて見たかもしれない。透明感のある赤色が瑞々しさの象徴のように、たわわにぶら下がっている。緑の樹々の中にある赤色は、とても綺麗だ。
「食べたいのか?」
当然背後から知らない低い男の声がした。悪い行いが見つかったかのように、ビクっとしてしまう。
「ち、違うんです。あんまり綺麗だったから」
「少し酸っぱいけど、美味いぞ」
男はオレの背中を追い越し、裸足で庭に出てサクランボの木まで行く。枝の下には小振りの脚立が出しっぱなしになっていて、男はそこに足を掛ける。ヒョイと手を伸ばし届く範囲の実をブチブチと取っていった。
途中で何粒か自分の口に含み、ぺっと種を庭に落とす。そして片手にいっぱいにサクランボを乗せ、脚立から降りる。こちらを振り返り、ようやく男の顔が見えた。
男は、洗い晒しの髪に無精髭が生えワイルドな雰囲気だが、少し垂れ目で優しそうな目元をしている。身体も大きく、モデルでもしていそうな風貌だ。三十代後半ぐらいだろうか。
「ほら、食ってみろ」
オレに近づいてきて、サクランボの乗った手を差し出した。それは近くで見るとより艶やかで美しく、おもわず手を伸ばして軸を一つ摘む。
男の顔を見ると、あごをしゃくって促された。
「いただきます」
赤い実はツルッとしていて皮に張りがある。奥歯で潰せば口の中に甘さと酸っぱさが一瞬で広がった。
「美味い」
「だろ」
二人でバルコニーに立ったまま、男が取ってくれたサクランボを食べた。種は男のマネをして庭に落とした。
「ただいま。お待たせしました」
オレの「推し」が帰ってきた。
「あー、二人でズルいです。僕の分のサクランボは?龍弥さん、取ってきてくださいよ」
青年は男を「龍弥」と呼んだ。
「龍弥?岩山龍弥?」
堅物で人嫌いだという噂は、どうやら嘘だったとたった今、判明した。