今日もオレは「推し」に会うため、賑やかな商店街を駆け抜け、公園を左に曲がり、蔦の洋館を目指す。公園の薔薇は咲き終わり、今は水色の紫陽花が咲いているのが見えるが、いつもの午後三時を過ぎてしまいそうで、石畳の小道を目指し走っていた。
小脇に抱えているのは、岩山に指定された洋菓子店の紙袋だ。本日のご指定は日本橋のデパートのロールケーキとクッキーで、購入してからここへ来た。今日のための生菓子と、明日のための日持ちする菓子の両方を持参するのが常だった。
道中、沿線の車両にトラブルがあったらしく、オレが乗っている電車も止まってしまった。しばらくして動き出したが、時間が心配でかなり気を揉んだ。
岩山は画家という自由奔放なイメージとは違い、日々規則正しい生活を送っているらしい。午後三時には必ず作業の手を止め、エネルギー補給に甘い物を食べるのだ。オレが初めてこの洋館を訪れたときも、「推し」は駅前の和菓子屋まで蜜団子を買いに出かけていた。
なのに岩山は、せっかく買ってきてくれた蜜団子に対し「またこれか」と言ったのだ。なんて言い草だと思ったが、そのおかげでオレはこのポジションを手に入れることに成功した。
あの日、蜜団子をごちそうになりながら、オレは画家に提案した。
「私、上の者の指示で、岩山先生の」
「先生はやめろ」
「岩山さんの新作の進捗状況を度々この目で確認させていただきたくて。エージェントの山本様にもその旨、お伝えしてあるのですが」
「山本さん、なんかそんなこと言ってたな。だけど今頃にはアンタの会社に断りの電話がいってるだろうよ」
「それだと私が困るんです」
だって「推し」と会えなくなってしまうから。
「ご提案なのですが、三時のおやつに召し上がる甘味を私が買ってくる、という役割をいただけないでしょか?」
熟考したあと、岩山が返事をする。
「んー。悪くないアイデアだ。会社どこだっけ?」
「丸の内です」
さっき名刺を渡しました、なんて余計なことは言わない。
「交通の便がいいな。ここに来るまでにどこにでも寄ってこられる。俺が指定したものを、買ってこれるか?」
「はい、もちろんです」
画家である岩山にも、蜜団子ばかり買ってくる青年にも、遠くまで調達しに行く時間はないようだ。
「分かった。絵が全て完成するまでの半年間。見張りに来るのは週に三回で手を打とう。買い物の支払いは俺がするから必ず領収書をもらってくるように」
「いえ、支払いは弊社が」
「こんなことで借りを作りたくない。余分なことはするな」
「はい、ありがとうございます」
ここ一年間不運が続いていたオレにしたら、上々の展開である。
蔦の洋館にいた青年は、元木颯真(もときそうま)という名前だった。
「颯真と呼んでください」
小首を傾げながら、笑顔でそう言ってくれたので、ずうずうしくも「颯真くん」と呼んでいる。どさくさにまぎれ「オレのことは啓人と呼んで」と伝えることに成功し「啓人さん」と呼ばれている。幸せだ。
岩山もオレを「啓人」と呼び捨てにするから、上司に「呼び捨てしてもらうほど親しくなった」と報告することもできた。上司はいまいち信じていないようだが。
とにかくオレの仕事は、岩山の新作の進捗状況を会社に報告すること。これは初日に岩山に確認したところ、「全く問題なし。予定通り進行中」という回答だった。
「ただ、イベント屋っていうのは、こちらに余裕があると分かると、もう一枚描けとか、グッズ用に描きおろしを、とかすぐ言ってくるから、会社には「ギリギリ間に合いそうだ」と伝えとけ」
確かに生活リズムも規則正しい岩山は、スケジュール管理もきっちりとしていそうだ。問題はないだろう。
そもそも「偏屈で人嫌い」という噂は自分で流したらしい。
「オレは絵が描きたいんだ。余分なことはしたくない」
確かに岩山はいわゆるイケメンの部類だから、自らが表に立ったら、インタビューや対談の話がいくらでも舞い込みそうだ。実質自分でスケジュール等管理をしながらも、エージェントを立てているフリをしているのは、戦略なのだろう。
「エージェントの山本さんは、どういうご関係の方なんですか?」
「山本さんは、僕のおばあさんの弟さん」
これには颯真が答えてくれた。
「会社経営をしていたんだけど、息子さんに会社を譲られて。暇だ暇だっていうから、僕が龍弥さんに紹介したんだ」
「あのじいさん、のらりくらり加減が俺の希望通りで、すごい助かってるんだよ」
きっと岩山ほど人気があれば、自ら絵を売り込んだりする必要はないのだろう。
蔦の洋館は、颯真のおばあさんの家だったという。五年前におばあさんが亡くなられて、誰も住まないと家が傷むからと、颯真が引っ越してきたらしい。
二階建ての洋館には大きな庭があり、庭には平屋の離れがある。その離れを三年前からアトリエとして岩山に貸し出しているそうだ。岩山の寝室は洋館の二階にもあるが、ほとんどその部屋には戻らず、アトリエのソファベッドで寝起きしているらしい。
岩山が蔦の洋館をアトリエとして借りるきっかけは、物件を探していてふらりと入った不動産屋の紹介だという。
「こんないい庭があるところで絵が描ける俺は、ラッキーだ」
岩山もこの場所をかなり気に入っているようだ。
二人とも自炊はせず、ほぼ外食。岩山が規則正しい昼型の生活をするのに対し、颯真は近くのバーでバーテンダーをしており夜型の生活だという。二人が顔を合わせるのは、このおやつの時間だけらしい。
週に三回、オレもおやつの時間に参加させてもらいながら、これらの情報を少しずつ得ていった。
腕時計を見ると、すでに三分の遅刻だった。もう岩山はアトリエからリビングに移動してきているだろう。
石畳の小道を駆け、玄関扉の前を通り過ぎ、裏の庭へと進む。インターフォンは故障し取り外したままだそうで、玄関をノックするより、庭からリビングの掃き出し窓へ回ったほうが、互いに楽だと近頃学んだ。
鬱蒼とした庭に回ると、森の中にいるような樹々の匂いを感じる。
そこには見慣れない大きなアルミの脚立が出されていた。その足を、今日も上下黒い服を着た颯真が押さえている。
「こんにちは。遅くなりました」
「啓人さん、お疲れ様です」
推しは今日もオレの目をしっかりと見て、完璧な笑顔をくれる。颯真には虫の居所が悪い日や、気分が乗らない日など無いのだろうか。
「ちょうどいいところに来た。啓人、キャッチしろ」
頭の上で声がして見上げれば、脚立の上に岩山がいる。バルコニーの左奥に植わる大きな枇杷の木には、オレンジ色の実が鈴なりだ。オレは慌てて、洋菓子の紙袋をバルコニーに置き、脚立の下で手を広げる。
「いくぞー」
弓なりにゆっくりと、枝ごと投げられた枇杷の房をキャッチする。ずっしりと重い。あらかじめ用意されていたザルにそれを置き、続けて投げられた枝をまたキャッチした。
枇杷の実を指で触ると、フワフワとした産毛が生えている。ビロードのようだ。明るい太陽のようなオレンジ色ではなく、少し柔らかさを感じる日本の伝統色のような枇杷色。鼻を近づければ甘い香りがした。
オレが枇杷の実の観察に夢中になっている間に、岩山は脚立から降り、支えてくれていた颯真を「ありがとな」とねぎらう。岩山の大きな手が、颯真の柔らかそうな癖毛をくしゃくしゃと撫でるから、オレは危うく舌打ちしそうになった。
採れたての枇杷と、持参したロールケーキと、颯真が淹れたくれたコーヒーで、少し遅れたおやつの時間となる。今日のコーヒーカップは深い緑色だ。
枇杷は爽やかな甘さで、とてもジューシーだ。岩山がガブリと大きな口に含むと、ポタポタと果汁がソファに落ちた。
「もう、龍弥さん。零れてますよ」
笑いながらキッチンへ手拭きタオルを取りに行く颯真に、「オマエも早く食べてみろ」と皮を剥いてやる岩山。岩山の少し垂れた目尻が、颯真を相手にするとより優し気になる。
この二人は一体どういう関係なのだろう。それについては今だ質問できないままでいる。ただの大家と借主の関係であることを祈る。
オレがそんなつまらないことを考えていると、颯真は空気を読んだかのようにオレに話しかけてくれた。
「啓人さん、このロールケーキ、すごく美味しい!」
右手に持つフォークを揺らしながら、全身でオレの買い物を褒めてくれている。
「俺がネット調べて選んで、啓人に買いに行かせたんだから当たり前だ」
「もう。龍弥さんも、ありがたく思っているくせに。ねぇ、啓人さん」
この場にいる誰もが気分悪くならないように、怒ったり笑ったりしてくれる。しかもそこには全く計算や作為を感じない。大きな目をクルクルと動かし、ナチュラルな会話として成り立たせる。
まるで颯真は、世界中の人にいつでも夢や希望を与えてくれるアイドルみたいな存在だ。尊い。
おやつの後、岩山の許可をもらってアトリエに入らせてもらった。颯真は「僕はアトリエには入らないようにしてるから」と一緒には来なかった。
オレは会社へ提出用に新作の写真を撮らせてもらった。十二枚の連作予定で、すでに半数が描きあがっていたが、会社には四枚のみ出来上がっていることにしてある。
絵のことが分からないオレでも、こんな近くで岩山の描いたものを見せてもらうと、その迫力に圧倒される。明るい色を何色も使っているのに、畏怖のような感情が湧くのが不思議だ。
「ありがとうございました。あっちに伏せて置いてある絵も、岩山さんの絵なんですか?」
アトリエの隅を指さし、聞いてみる。以前から気になっていたのだ、薄っすらホコリが積もった大量のキャンバスのことが。
「いや、違う。俺の絵じゃない。ここを借りる時の条件で、あそこには触るなと言われている」
一体、誰の絵なのだろう……。
「今日はこのあと会社に戻るのか?」
「いえ、直帰できるので、颯真くんの働いているバーに寄らせてもらおうと思っていて」
「アイツ、いつでも笑顔だし、優しいし、気が利くし、いい子だろ」
「えぇ、本当にそう思います」
拳を握りしめ、力強く答えてしまった。でも、オレの推しは本当に素晴らしいのだから致し方ない。
「気を付けろよ」
「え?」
「颯真はオマエに優しいんじゃなくて、誰にでも笑顔で優しいんだ。勘違いするなよ」
そんなこと言われなくても、充分に分かっている。けれど、改めて言われると本当に腹が立つ。
「岩山さんにも、優しいですもんね」
嫌味のつもりでそう言い返せば「俺はわきまえているから大丈夫だ」と目を伏せられた。この時、どういう意味なのか、もっと掘り下げればよかったのかもしれない。
けれど、バーテンダー姿の推しを見に行くことに、浮かれているオレには無理な話だった。