あの木曜日のことは、まるで無かったことになっている。颯真も口にしないし、岩山も触れない。だからオレもできる限りいつも通り、推しと接している。
推しが向けてくれる笑顔をうれしく思い、真っすぐな眼差しに笑みを返し、やさしい言葉に胸をときめかせ、けれどチクリチクリと心を痛ませながら。
蔦の洋館に、水まんじゅうと和菓子の若鮎を届けた日。
一人で暮らすマンションに帰宅し、買ってきた惣菜と冷凍しておいた白飯で夕飯を食べていた。テーブルの上のスマホに、実家で暮らす妹からめずらしくメッセージが届く。
「実花さん、再婚するらしいよ。報告まで」
短いメッセージだった。オレは「へー」という文字が付いたマヌケな熊のスタンプを一つ返信した。
実花は、去年の夏までオレの嫁だった人だ。盛大な結婚式を挙げたが、たった半年で離婚した相手だ。勤めていた会社の社長令嬢だったので、オレは会社に居づらくなって退職した。そして地元を出て、都心へと引っ越してきたのだ。
再婚相手はおそらくオレも知っている人だ。だから心から祝福したい。幸せになってほしい。負け惜しみではなく、本当にそう思っている。
結婚する前から彼女はその人のことが好きだった。けれど、年がうんと離れたその人との結婚を父親が許さず結局オレと結婚した。実花は新居で、時々ひっそりと泣いていた。時々何かと闘っているような辛そうな顔をしていた。オレはそれに気が付かないふりをして、日々を過ごしていた。
「ごめん。離婚したい」
突然そう言われ理由を問えば、酷く理不尽なものだった。
「もっと啓人を好きになりたかった。もっと私の話を聞いてほしかった。もっと寄り添ってくれたら、啓人を愛せて、上手くやれたと思うのに。知ってたんでしょ?わたしに好きな人がいるって。それでも結婚してくれたじゃない。なのに「俺が忘れさせてやる」とか、そういう言葉も態度も何もくれなかった」
見ないであげるのが、聞かないであげるのが、触れないであげるのが、親切だと思っていたのに。オレはオマエを好きだったのに。
「いいよ、離婚しよ」とその日のうちに結論を出してあげた。オレにしてあげられるのは背中を押すことだけだと、分かったから。
あの日から、もうすぐ一年が経つ。
オレは立ち上がって、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出した。
実花のように、泣いている自分を知ってほしかった人、颯真のように涙を知られなくない人。この世には色んな人がいる。世の中はむずかしい。
それでも颯真に対して、オレは判断を誤りたくはない。今は無理でもいつか、彼の涙をオレの手で拭ってあげたい……。
蔦の洋館へと続く石畳の小道は、大音量の蝉の合唱が鳴り止まない。草木には、いくつもの蝉の抜け殻がくっついていて、地面には幼虫が出てきたのだろう穴が数えきれないほど開いている。この庭だけで、どれだけの蝉がいるのだろう。正直ぞっとする。
岩山からのおやつ購入指示は、大抵の場合、前日にメッセージアプリで届く。今回はお菓子作りの材料を売る店で「抹茶シロップと餡子を買ってこい」という指示だった。今までにないパターンだ。
汗を拭いながら裏の庭へ回り、バルコニーで革靴を脱ぐ。こんなに暑いのに掃き出し窓は全開で、エアコンは切られていた。
「暑い、暑い、暑い。これは何のマネですか?」
キッチンで何かの道具を洗う岩山の背中に向けて怒りそうになりながら話しかけると、冷蔵庫の前に立っていた颯真が答えてくれた。
「これが美味しく食べる演出なんですって。龍弥さん、張り切ってるんですよ」
推しはこんなに暑くても黒い服を着ていて、けれど爽やかで、額の汗さえも輝いている。
「なにを食べようとしてるんだ、岩山さんは?」
「啓人、買ってきたんだろ、抹茶シロップと餡子。そしたら宇治抹茶かき氷に決まってるだろ」
楽しそうな岩山の手で、古道具屋にでも売ってそうな年代物のかき氷器がテーブルにセッティングされた。颯真が冷凍庫から出した氷をセットすれば、岩山がシャリシャリといい音を立ててハンドルを回す。
ふわふわで雪のような細かい氷が、ガラスの器の上で山となった。抹茶シロップをかけ、餡子を添えれば、それはもう立派な宇治抹茶かき氷が完成した。
確かに暑い部屋で食べるかき氷は最高だった。口溶けの良い氷は途中で溶け始めて、甘い部分がドロドロに混ざる感じもまた美味い。身体も胃から冷えてきた。
一番最後に食べ始め、一番最初に食べ終わった岩山が、「あー、美味かった」と言いながら、ピシャリと掃き出し窓を閉め、冷房のスイッチを強にした。
そうすれば、まだ食べているオレは、寒くなってくるから厄介だ。見越した颯真が淹れておいてくれたホットコーヒーが臙脂色のカップで配られ、推しの気配りに感動した。
「啓人、オマエ、車の免許は持っているか?」
「はい。地元は車が無いと生活できませんでしたから」
「颯真は免許持ってなくて、俺は面倒だから運転したくない。という訳でオマエが適任だ」
「なんの話ですか?」
「俺は海が見たい」
「海?」
「そうだ。波が砂浜に寄せては返すところが見たい。その曲線に興味がある」
「それは、新作の創作のためにってことですか?」
「もちろんだ」
岩山の絵は抽象的で、具体的な静物や景色の絵ではない。だから海や波を描きたい訳ではないのだろう。
「それで?」
「だから俺と颯真を車に乗せて、海へ連れて行け」
「颯真くんも」
「あぁ、夏だからな」
全く意味が分からないが、今度、三人でドライブに行くことが決まったようだ。もしかすると、岩山は颯真をどこかに連れて行ってあげたかったのかもしれない。
とにかく、オレとしても願ってもないことだ。推しと夏の海でデートができるのだから。
「岩山先生が創作のヒントを得るために、海に行きたいとおっしゃっていて。運転手として一日同行させていただくことになりそうなのですが」
上司にそう報告したところ、「くれぐれも粗相のないように」という言葉とともに、社用車を貸してもらえることになった。社内でのオレの評価も、近頃は少し上向きになったように感じる。
約束の日の前日、オレは会社から社用車で帰宅し、自宅マンション近くのコインパーキングに停めた。当日は朝七時の集合時間に合わせ、蔦の洋館まで迎えに行く。二人はすでに準備万端で、石畳の小道でオレを待っていた。
岩山も颯真も車から降りるオレに、大きく手を振ってくる。遠足に行く子どものようにワクワクしているのが、伝わってきた。
朝からすでに気温は高く、空には雲一つない。
「空、真っ青だね」
颯真にそう言ったとき、チラっと表情が曇ったがすぐに「ほんと、いいお天気でよかった」と楽しそうな笑顔をオレに向けてくれた。あの木曜日以来、今までは気が気付けなかったこういう颯真の機微に少しだけ気付けるようになった。
「いつも黒い服だよね、颯真くんは。とっても似合うけど暑くない?」
ほら。また一瞬暗い顔をした。
「黒、好きなんだよね僕。それより啓人さん、日焼け止め持ってきた?無いなら貸してあげるから言ってくださいね」
なんの話題の時に推しの表情が曇るのかは、少しも分からない。けれど、無理に聞き出すことはしないと心に決めていた。
助手席に座ってくれた颯真は、車内ではとても楽しそうだった。ロックが好きだという岩山が、少し昔の曲ばかりのプレイリストを作ってきて、結構な音量でそれを聴いて、皆で歌って騒いだ。江の島で食べ歩きしたときも楽しそうだった。特にイカ焼きを「美味しい、美味しい」と口いっぱい頬張っていた姿は無邪気で可愛く、眼福だった。
江の島水族館では、オレが「見て見てあの魚の色、綺麗だね」と指さす先を見て、いつもどおりニコニコはしていたけれど、少しだけ表情が硬かった。水族館はあまり好きではないのかもしれない。
水族館のあとは、ずっと砂浜に居た。
岩山は本当に波の動きに興味があったようで、穏やかな波が寄せては返す様子を、何枚も何枚も写真に収めたり、スケッチしたりしていた。
砂浜には海風が吹いていたので、意外と暑さには耐えられた。帽子をかぶって、炭酸飲料を片手に、颯真と二人でまったりとくつろぐ。
「ほら。食え」
岩山が屋台のかき氷を買ってきてくれた。オレにはピンクを、颯真にはブルーだ。波に夢中かと思ったが、ちゃんと颯真を気にかけていたようだ。氷はこの前の宇治抹茶とは違い、ガリガリと歯応えがあるタイプだった。
「颯真くんのどんな味?」
彼は考え込むような顔をする。
「だよね、ブルーハワイってさ、なに味なのかさっぱり分からないよね」
「あぁこれ、ブルーハワイか!」
推しと青空と海とブルーハワイ、夏の全てがここに凝縮したかのようだ。
真夏の空に浮かんだ太陽は段々と角度を落としていく。空の色がどんどんと変化していき、太陽が海に沈む頃には辺り一面がオレンジ色になっていた。オレの身体も、颯真の身体も、夕日の色に染まっている。
「空も海も、すごい色だ」
グラデーションのようにオレンジ色は赤になってピンクになって、ピンクはどんどんと濃くなって紫色になって。最後は濃紺の空になった。
オレたちは二人とも、ただただ水平線を見ていた。横にいる颯真が、鼻を啜ったのが分かったけれど、オレは前を向いたままでいた。オレの目を盗むように、手の甲で涙を拭ったのが分かったけれど、気が付かないフリをした。
本当は「どうしたの?大丈夫?」と抱きしめたかったけれど、我慢することが正解のはずだと自分に言い聞かせた。
岩山も天体ショーのような空と海を観察でき大満足している。
「そろそろ帰るか」
その一言で、三人揃って駐車場へと移動した。
「楽しかったか、颯真」
「うん。とっても。たまにはいいね、こうして出かけるのも」
「だろ」
そう言って岩山は、颯真の海風でくしゃくしゃになった髪を更にぐしゃぐしゃに撫で回した。やっぱり今日は颯真のために海に来たかったのだろう。
帰りの車で颯真は、気持ちよさそうに熟睡していた。無理もない。昨晩だって深夜までバーで働いていたのだから。定休日の今日は、本来なら昼までゆっくり眠っていたかっただろうに。
蔦の洋館の近くまで来てようやく目を覚ましたから、ファミレスに入って夕食を食べた。その後、二人を洋館へと送って行った。
「啓人さん、今日は運転してくれてありがとう。疲れたでしょ。僕、寝ちゃってごめんなさい」
やっぱりオレの推しは、とても優しい。
「全然、大丈夫。オレ運転は苦にならないタイプだから」
「上がって行ってよ。朝、庭のいちじくを収穫して、冷蔵庫に冷やしてあるから、美味しく食べられるよ」
オレはお言葉に甘え、石畳の小道に頭を突っ込むように社用車を停め、リビングへとおじゃました。
冷蔵庫で冷えたいちじくの実は、一つ一つがとても大きい。
オレより先に岩山が手を出し、赤紫色に熟れたいちじくを両手でパカっと半分に割った。白い縁の中に赤い粒粒とした果肉がびっしり詰まっている。しかし岩山は、一口食べて首をかしげた。
「味が薄いなぁ」
続いてオレも一つ手にとり、パカっと二つに割る。
「オマエのいちじくのほうが赤くて美味そうだな。よし交換」
「なにするんですか!これオレのですよ」
「なんだよ、ケチ」
岩山は新たな実を手にして割り、真っ赤な色合いに満足してガブリと口に含む。
「うん、これは美味い!」
オレと岩山は、どっちの色が美味そうだと、子どものように言い争った。その横で颯真がいちじくを静かに両手で二つに割った。
「どう、颯真くんのはいい色だった?」
まただ。颯真の顔がほんの一瞬悲しそうに曇った。そして返事をせずにいちじくをガブリと頬張ってから、「冷たくて甘くて、すごく美味しいよ」とニッコリ笑ってくれた。