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第五話・栗

 岩山の新作は予定通り、順調に進捗していた。会社には十二枚中十枚が仕上がったと、スマホで撮影した写真を提出してあるが、実際は全てが描き上がっている。

 ただそれはオレの目から見て、というだけだ。岩山はアトリエに十二枚の絵をぎゅうぎゅうに並べ、それらを眺めては何度も何度も手を入れ続けていた。

「この絵、どうなったら完成なんですか?」

 気軽に尋ねてしまったオレに、岩山は呆れた顔をして答えてくれる。

「それは俺が知りたいね。まぁでも結局は搬入の期日が来たら完成だ」

 すべての良し悪しを自分一人で決める仕事というのは、なかなかシビアだと思う。何かあったら上司が責任とってくれるサラリーマンとはまるで違う世界だ。


 今日はバームクーヘンでのおやつタイムだった。リビングで三人揃って食べた後、オレは岩山のアトリエにお邪魔した。

 颯真はアトリエに入ってくることはなく、庭に出て栗の木の下で、枝にあるイガを数えている。先日も「今年は昨年よりたくさん実ってるんです」と喜んでいた。毎年栗拾いをし、栗ご飯を作るのが楽しみなのだという。とはいえ、作るのは颯真ではなく、岩山のエージェントでもある山本の奥さんらしいが。


 そのまま岩山はアトリエで作業に入った。オレはリビングへ戻り帰り支度をする。

「啓人さん、もう一杯コーヒーいかがですか?」

 颯真もバーに出勤する時間があるだろうに、めずらしい。オレとしては推しが淹れてくれるこの世で一番美味しいコーヒーを断る理由など、一つもない。

「ありがとう。いただくよ」

 ソファに座り直し、キッチンに向かった颯真の後ろ姿を眺める。今日も上下黒い服を着た推しは、手を動かしながら、話し始めた。

「昨日ね、バーに山本のおじさんが来て」

 山本は、颯真のバーの経営者でもある。オレも何度か会ったことがあるが、飄々としてつかみどころの無いじいさんだ。

「山本のおじさん、常連のお客さんと話しが弾んでいたんだけど。ほら、啓人さんもあったことがある上品なご婦人二人組」

「あぁ。うん分かる」

 推しは、今日は純白のカップにコーヒーを淹れ、ソファまで運んできてくれた。

「ご婦人が「颯ちゃんのお友だちの格好イイお兄さんに杏ジャムの作り方を教えてあげたんだけど、上手に出来たかしら」って」

 苦々しい思い出が一気に押し寄せる。

「それでね。僕、気が付いたんだ」

「……なにを」

 いつもキラキラしている颯真の大きな目に、悲しそうな光りが揺らめく。

「いつだったか、予定が無いのに来てくれたことがあったでしょ?雨が降っていた日」

「あぁ」

「あの日、杏ジャムを届けに来てくれたんだって」

「そうだった……かな?もう忘れたなぁ」

「ごめんなさい。あの日は、本当にごめんなさい」

 颯真がソファに座りながらオレに深々と頭を下げた。

「やめろよ。颯真くんは何にも悪くない。本当に少しも悪くない。それよりもさ、悔しがるべきだ」

「悔しがる?」

「だって、あんなに美味い杏ジャムを食べ損ねたんだから」

「そんなに美味しかったんだ?」

 笑ってくれた。ニッコリと笑顔をオレに向けてくれた。

「おぉ、めっちゃ美味しかった」

「そっか。食べたかったなぁ」

 本当は食べずに捨てたなんて言えなかった。もうすぐ絵が完成してしまうから「来年また作ってやるよ」とも、言ってやれなかった。

 でも、颯真があの雨の日の出来事に触れてくれたことが、オレはうれしかった。少しだけ、信頼をしてもらえたような気がしたから。


 晴天が数日続いていたが、いつの間にか発生した台風が、本州へと近づいてきた。台風は次々と現れ、ネットの天気予報を見ると台風マークが三つも並んでいる。今週後半は相当荒れそうだ。

 火曜日の夜、岩山からメッセージが届く。

「週末は天気が悪そうだから、明日、金曜日の分も買ってきてくれ」

 一つのデパートで済むような買い物リストが書かれていて、岩山の気遣いが垣間見えた。

 水曜日。オレはプリンと、フルーツゼリーと、マドレーヌと、ラスクを購入し、蔦の洋館へ向かった。まだ雨は降り始めていなかったが、風がかなり強かった。

 本日のおやつとなったプリンは、カスタードと、チョコレートと、抹茶の三種類あって、最初に岩山がカスタードを選んだ。

「颯真くんは、チョコレートと抹茶どっちにする?」

 颯真は真剣な表情で二つのプリンをじっと見つめている。随分と迷っているようだ。

「うーん、こっち」

「抹茶ね。じゃ、オレがチョコレート」

 颯真がなぜかホッとしたように、手に持ったプリンを見てニコリと笑った。


 リビングでは、いつもは消えているテレビが、台風の状況を伝えるワイドショーを映していた。

「この辺り、水害は大丈夫なの?」

 心配になって聞いてみる。オレはマンションだからベランダの物を仕舞う程度の対応だけど、一軒家というのは、大変だろう。

「少し行ったところに小さな川があるんだけど、あの川が溢れたら厄介だと思う」

「だな。都心の川は、短い時間にドッと降る雨に弱いんだよ。この家は一段高くなってるから大丈夫だろうけど、アトリエは氾濫したらヤバいだろうな。床上浸水する可能性もある」

「え?それはマズいじゃないですか?」

「今から念のためキャンバスにビニールかけて養生しようと思ってるから、啓人も手伝え」

「はい」

「まぁ、大丈夫だとは思うけどな。颯真のばあさんが住んでた頃には、一度も溢れたことないんだろ?」

「危なかったことはあるみたい。でも、溢れたって話は聞いてないです」

 それでも弊社にとっても非常に大切な絵。ビニールで丁寧に巻き、養生テープで止め、アトリエの棚に上げる作業を手伝った。


 金曜日は、蔦の洋館に行かないどころか、台風が首都圏直撃ということで、仕事も全社員が自宅待機となった。ワンルームマンションのベッドに寝転び、テレビを付けっぱなしにして過ごす。ニュース画面の横にも上にも、被害情報を伝える帯が出ていて、不安を煽ってくる。

 マンションの窓にも、雨が強く打ち付けていた。ゴーゴーという風の音も絶え間なく聞こえる。

 すでに氾濫した川もあるという。洋館の近くの川は大丈夫だろうか?ネットを色々と検索してみれば、現在の川の水位がライブカメラで分かる動画を、役所が提供していると分かった。すぐに動画にアクセスし、オレはドキリとした。

「これ、本当に溢れるんじゃないか?」

 普段はほとんど水が無さそうな川が、かなりの水位になっている。居てもたってもいられなくなって、オレはウインドブレーカーを羽織り、財布とスマホとビニール傘だけを持って家を出た。

 傘がほとんど役に立たない中、なんとか幹線道路まで歩き、タクシーを探す。なかなか空車を捕まえられず、もどかしい。少しでも早く颯真のところへ行ってやりたくて、目的地方面に向かって歩きながら空車のタクシーを探す。

 タクシーが捕まった頃には全身びしょ濡れで、運転手は嫌な顔をしたが、今のオレには気遣いなど出来なかった。大きな道路を洋館に向けて曲がったところで、道路にかなり水が出ていた。前のほうの車が立往生しているようで、渋滞が発生している。

「どうします?お客さん」

「ここでいいです」

 オレはタクシーを降り、洋館に向かって走った。水に足を取られ、風に煽られ、少しもスピードが出ない。ビニール傘はひっくり返り、使い物にならず、申し訳なく思いながらも沿道の自販機のそばに捨てた。


 森のような洋館の入口が見えてくる。川の氾濫はしていないようで、石畳の小道も通ることができた。

「よかった」

 アトリエは無事だった。でも、岩山が危険と判断したのだろう。庭では雨合羽を着た二人が岩山の絵を、掃き出し窓からリビングへと運び始めたところだった。アトリエから岩山が絵を運び、庭にいる颯真に手渡している。

「啓人。来てくれたのか。悪い、手伝ってくれ。俺の読みが甘かった。早いうちに移動させておくべきだったのに」

「いや、今はそんなこと言ってる場合じゃないです。急ぎましょう」

 十二枚の絵は連携プレイでアトリエからリビング、更に二階へと運ばれ、なんとか最悪の事態を免れることができた。

 岩山もさすがに焦っていたようで、運び終わって胸を撫で下している。オレもだが、岩山も颯真もびしょ濡れだ。特に颯真は震えていた。絶望したような顔をして、ブルブルと。

「どうした?颯真くん。寒い?早く着替えたほうがいいよ」

「…川が、川が溢れたら、ぼ、僕の絵が…」

「ん?なに?」

 そのとき、ゴーゴーという風の音に、濁流が流れるような音が加わった。掃き出し窓の向こうを見れば、庭は風呂の水でも溜めてるように水位が上がっていく。

 颯真が窓の外へ駆けだす。アトリエへと走る彼を、オレと岩山が追う。

 まだアトリエも床上までは水が来ていない。颯真は、奥のほうで蜘蛛の巣が張りホコリをかぶっているキャンバスに抱きつき、子どものようにワンワンと泣き出した。

「僕の、僕の描いた絵が、濡れちゃうよ。どうしよう、どうしょう、ダメになっちゃう」

 そんな姿を見て立ち尽くしてしまったオレと違い、岩山はすぐに動きだした。

「運ぶぞ。多少雨に濡れるが、水没するよりずっといい。俺がアトリエから出す。啓人受け取ってバルコニーまで運べ。颯真がリビングへ入れろ」

 颯真は感情の栓が外れたように、「僕の、僕の絵が」と、すがって泣いている。

「颯真、しっかりしろ!」

 雨に負けないほどの大きな声で、岩山が怒鳴った。颯真がびくりと身体を震わせ、岩山の顔を見た。

「オマエの絵だったんだな。悪かったな。俺、自分のことばかりで、この絵を運ぶことに気が回らなくて、申し訳なかった。さぁ、まだ間に合う、運ぶぞ」

 颯真は、ようやくコクリと頷いた。キャンバスはかなりの枚数があったが、岩山の絵よりはサイズが小さいものが多く、運びやすかった。ただ何年も誰も触らなかったようで、それはホコリまみれだった。

 水位はどんどんと上がっていき、アトリエの中にも水が入ってきたが、颯真のキャンバスは少し高いところにあったせいで、全て助かった。ただ、部分的に雨には濡れてしまった。油絵が濡れて、どれくらい損傷してしまうのかオレには少しも分からないが、あまり影響がないことを祈るしかない。


 付近一帯は停電し、昼間なのにリビングは薄暗い。颯真がタオルを用意してくれオレは身体を拭き、二階の岩山の部屋にあった服を借りて、全身を着替えた。

 窓の外を見れば、庭木がいくつも風で折れてしまっている。きっと栗も落ちて流されてしまっただろう。けれど、水は引いてきたし、雨脚は少し収まったようだ。

 颯真がガスで湯を沸かし、ドリップでコーヒーを淹れてくれた。その暖かさにようやくこわばっていた身体の力が抜け、落ち着きを取り戻す。今日のおやつは、マドレーヌだ。

 リビングのソファに座ると、颯真の絵がところせましと並んでいるのが見える。庭や、庭で収穫した実や花を描いた絵が多かった。岩山の力強い色使いとはまた違っていて、淡い繊細な色が折り重なるように絡まり、鮮やかさを放っている。薄暗い部屋で見ていても、絵の中の庭は明るく見える。庭にいるときの匂いまで感じられた。絵のことは何も分からないオレだけど、颯真の描いた絵がとても好きだと思った。


 この日、オレは初めて洋館に泊めてもらった。「二階に一部屋余っているから」と言われたが、ほぼ物置のような部屋は埃っぽくて、リビングのソファで、颯真の絵に囲まれて眠ることにした。

 停電は解消されず、洋館の中は真っ暗だ。「おやすみ」と言って二階に上がったはずの颯真が、タオルケットを引きずって、リビングへ戻ってきた。

「暗いの怖いから、僕もここで寝るよ」

 そう言って、リビングに敷かれたラグマットの上で、丸くなった。もう雨音は聞こえない。風だけが庭木をザワザワと揺らしている。

「今日はありがとう、啓人さん」

 小さな声でお礼を言われたから「どういたしまして」とだけ返事をした。


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