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第六話・柘榴

「大変だったわねぇ。水が引いてからも消毒したり、ダメになった物を処分したり、やることがたくさんあったでしょう。川の水といっても、溢れ出たのは汚水だものね」

 颯真のおばあさんの弟であり、バーの経営者であり、岩山のエージェントの山本が、奥さんと一緒に蔦の洋館にやってきた。

 あの台風が去って一週間が経った土曜日の今日。オレは片付けを手伝いに来ている。洋館に被害は無かったが、アトリエは床上浸水。庭もだいぶ荒れてしまった。柘榴の木もかなり実を落としたが、たった一つだけ耐え抜いた実がぶら下がっていた。

 新作の油絵が仕上げの時期に入っている岩山はアトリエでの作業を諦め、一時的に近所に倉庫を見つけた。おやつの時間には洋館に戻ってこれる程度の距離に、作業できる場を借りられたのが幸だ。

「さぁ、手を止めてお昼にしなさい。颯ちゃんの好きな栗ご飯を作ってきたのよ。庭の栗じゃなくて残念だけど、美味しいから食べて」

 山本の奥さんは何かと世話を焼いてくれる。オレにも岩山にも山盛りの栗ご飯をよそってくれた。

「美味い!」

「うん、美味しい」

 推しと顔を見合わせて笑い合うという素晴らしいイベントが発生し、疲れも吹っ飛ぶ。

 奥さんは、食後のアイスキャンディも用意してくれていた。

「颯ちゃんこれね、右から、ソーダ、オレンジ、いちご、ミルク、抹茶よ」

 奥さんは、そう言って颯真のためにアイスキャンディを並べていた。推しは迷うことなく「コレにする」と抹茶を選んだ。そしてアイドルのような完璧な笑顔でニッコリと笑った。

 山本も競うようにデザートを勧める。

「マカロンもあるぞ。右からチョコレート、ラズベリー、カシス、ピスタチオ、キャラメルだ」

 二人の説明の仕方に、何かひっかかりを感じたが、それが何なのかは分からなかった。ただ隣にいた岩山は、驚いたような腑に落ちたような、変な顔をして颯真を見ていた。


 颯真が描いたという絵は、二階の空き部屋へ仕舞われたらしい。また誰の目にも触れない場所へ戻ってしまったのだ。あんなに素晴らしい絵が描ける颯真が、なぜ今は描いていないのか、オレは未だその理由を聞けずにいる。

 岩山だって知らないままだろう。

 オレはそれを知りたいと思っている。一歩踏み込んで尋ねたいと思っている。

 もうすぐ岩山の絵が完成してしまう。そしたらオレがこの洋館に通う理由はなくなるのだから。

 少しも颯真に寄り添えないまま、会えなくなるなんて、絶対に嫌だ。

 けれども、無理に聞き出すのも違うと、躊躇する気持ちもある。

 岩山の絵が搬入されるまであと一週間。そして商業施設完成のオープニングパーティは更にその一週間後に迫っていた。


 絵の搬入は、会社が手配した美術品専門の宅配業者の手に寄って行われた。アトリエではなく仮の倉庫から会場への輸送だ。積み込んだ後、オレは立ち合いのため業者のトラックに同乗し、洋館へ寄るタイミングは無かった。つまり颯真には会えず、搬入作業は終わってしまった。

 次の一週間は、かなり忙しかった。岩山から予め指示図をもらい、それに沿って設営が行われた。あくまで顔を晒すつもりのない岩山の代わりにオレが現場に意向を伝える係となった。

 エージェントである山本は、それをただ見ているだけだ。

 おやつを届ける仕事が無くなってしまえば、颯真に会う機会はない。週に三回会えていた推しの顔を拝めなくなり、オレの疲れは溜まる一方だ。やはり彼の笑顔はオレにとってかなりの癒しになっていたと実感している。

「啓人くん、お疲れ様」

「山本さんもお疲れ様です」

「いや、私は何もしていないよ。岩山先生も随分と君には感謝していた」

「本当ですか?私にはそんな素振りは見せてくれないですけどね」

「ハハハ。ところで明後日のオープンを前に、明日はバーで前祝いをしようと思っているんだが、くるだろ?君も」

 颯真に会えるなら、断るはずがない。

「はい、是非!伺います」

「じゃ、よろしく。仕事終わったら直接バーに来ておくれ。何時でもいいから」


 オープニングパーティの最終確認が長引き、かなり遅い時間の到着になってしまった。バーには「貸切」の札が出ている。大勢の人がいるかと扉を開けたが、颯真と山本と岩山がいるだけだった。皆もう帰ってしまったのだろう。

「お疲れ様。遅くまで大変だったね、啓人くん」

 山本が労ってくれる。颯真もすかさず美味そうな生ビールを注いで、オレの目の前に置いてくれた。

「お仕事、お疲れ様」

 久しぶりに見た推しの真っ直ぐな笑顔に、溜まった疲れがふっ飛んでいく。

「啓人、明日もよろしく頼む。オレは颯真と一般招待客としてお邪魔するから」

「堂々と画家先生として来たらいいのに。みんな岩山さんに会って話を聞いてみたい、感想を伝えたいって思ってますよ」

「まぁ、そういうことは追々だ。オレはそろそろ帰るよ。啓人はもう少し飲んでいけ。今日は俺の奢りだ」

 山本も「じゃ、私もそろそろ」と帰り支度を始める。そのタイミングで、岩山が椅子の足元からデパートの大きな紙袋を取り出した。一瞬、オレに?と思ったが全く違っていた。

「颯真、これ、俺が選んだんだ。明日のパーティに着てみてくれないか。啓人の仕事に華を添えると思ってさ」

 中からはスーツとシャツとネクタイと靴下が出てきた。

「スーツはチャコールグレーなんだ。明るめの色で少し光沢があるから、上品に見える。颯真の雰囲気によく似合っている。シャツは水色がかった薄いグレー。薄曇りの天気みたいな色だ。そのシャツに合うように青みが強い紺色のネクタイ。靴下はネクタイとほぼ同じ紺色だ。靴は颯真が持っている黒で合うはず。俺の目でしっかりと選んだ。だから安心して着てほしい」

「龍弥さん……。気がついていたんですか?」

「いや、ほんの二週間前だ。俺が気づいたのは」

 颯真はスーツをしばらく見つめ黙り込んでいた。そして、意を決したように顔をあげる。

「ありがとうございます。明日、着させてもらいますね」

「そうか、よかった」

 そばで見ていた山本もうれしそうに微笑んでいた。

 二人が帰宅し、バーには颯真とオレだけになった。どうやら何も分かっていないのはオレだけのようだ。

 颯真は「庭に一つだけ生った柘榴を絞ったんだ」と赤い色のカクテルを綺麗な所作で作ってくれた。


「あのね、啓人さん」

 颯真が静かに話し始める。いつもは小さな音で聴こえているジャズのBGMも、今は流れていない。

 岩山のように察することができなかったオレに、颯真は自ら、秘密を打ち明けようとしてくれている。平気なフリをしているけど、緊張が隠しきれていないのが見て取れた。

「高校を卒業して、僕は美大に進学したんだ。受験は大変で美大予備校にもたくさん通って、それでもやっと入学できたって感じ。龍弥さんみたいな最初から上手な天才タイプは、美大でも一握りだよ」

「岩山さんて、そんなすごいのか?」

「そこ分かってないんだ、啓人さん」

 フフフと推しが笑う。

「僕が絵を描くことを、洋館に住んでたおばあちゃんがとても喜んでくれて、庭の物置をアトリエに改築してくれたんだ。だから僕は頻繁にあそこで絵を描いていた。大学の課題とは別に、庭や、庭の実や花なんかの色が混じり合った景色を描くのが大好きだった」

「うん」

 あのホコリを被っていたキャンバスの絵を見た今、その言葉がよく理解できる。

「おばあちゃんが亡くなって、僕がここに引越してきて、描き続ける日々は続いて。ある日、工事現場のそばを通ったとき、重たい落下物が頭に当たって、僕は意識を失って救急搬送された」

「え?……なんて?」

 さらっと口にされた話があまりに衝撃的で、狼狽える。

「無事に退院できたけど、僕は一つだけ大切なものを失っていた」

「大切なもの?」

「うん。隠しててごめんなさい。僕には色が見えない」

「色が?」

「赤も緑も青も、全部グレーの濃淡にしか見えない」

 そう知ればこの半年間、心当たりがたくさんある。いつも黒い服を着ているのも、ブルーハワイの青、いちじくの赤、抹茶プリンの緑も、このバーの瓶に全てナンバーがふってあるのも。なのにオレは全く気がついてあげられなかった。

「もし、神様が僕から何かを一つ奪う運命だったとしても、なぜ色覚をって考えるといつも涙が出るよ」

 言葉の通り、推しの目からポロリと一粒の涙が溢れ落ちた。

「他のものなら、何でも神様に差し出したのにっていつも思ってた。でも今はね、もし奪われたのが聴覚だったら啓人さんの声は聴こえなかった。味覚だったら一緒におやつが食べれなかった。だから、どれだったとしても嫌だったなって思ってる」

「そりゃそうだよ」

「あのね、啓人さん。明日のオープニングパーティが終わって少し落ち着いたら、僕の絵を見にまた洋館に来てくれる?」

「見せてくれるのか?」

「うん。ちゃんと整理して、ちゃんと保存したいってやっと思えたから。あの台風の日、龍弥さんと啓人さんが、僕のキャンバスを大切に扱ってくれて、なのに僕があの絵を蔑ろにしてちゃだめだって、気がついたから」

「もちろん、手伝うよ。手伝わせてほしい」

 推しは手の甲で涙を拭った。

「ごめんね、明日もお仕事早いのに。そろそろ帰らなきゃだよね」

 アイドルのような笑顔を取り戻し、オレを見てニッコリと微笑んでくれた。

 閉店の片付けをする颯真をバー置いて、一人で歩く帰り道、ふと気がついた。洋館からバーへの徒歩十分は、一度も道路を横断しない。つまり信号機が一つもない。山本は、颯真のためにここにバーを作ったのだ。あのアトリエを不動産屋経由で岩山に貸したのも、颯真を一人にしないための山本の心遣いなのかもしれない。


 翌日。商業施設のオープニングパーティは大成功となった。もちろん、岩山の作品が飾られた最上階ギャラリーのお披露目にもたくさんの人が押し寄せた。アトリエで見ていた岩山の絵が、真新しいギャラリーに効果的に飾られている。たくさんのお客さんの視線を集めると、更に絵が放つパワーが増したように感じた。絵があるべき場所に納まっていると、思った。

 チャコールグレーのスーツを着た颯真と、一般人を装った岩山にも会えた。推しは、仕事中で案内役に徹していたオレに向かって、小さく手を振ってくれた。オレが知る限り、岩山が絵を描いているアトリエにあまり近づかなかった颯真。今日、モノクロの世界で岩山の絵を見て何を思ったのだろうか。

 その日の夜オレは、ノートパソコンで企画書を作った。会社に提出するものではなく、颯真に見てもらうための企画書をイベント屋として書いた。


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