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第七話・柿

 土曜日。久しぶりに蔦の洋館を訪ねた。からりとした晴天で、高い位置に雲が浮かんでいる。庭の柿は色付くにつれ、意外とたくさんの実が生っていることを主張してくる。

 その柿の木の横には資材が積まれていて、岩山が自身の手でアトリエの床を張り替えていた。

 オレの姿を見つけると作業の手を止めて、リビングへ移動してきてくれる。

 以前のように三人が揃い、颯真がコーヒーを淹れてくれた。初めてこの洋館に来たときと同じ鮮やかな黄色いカップが使われている。

「このカップ、持ち手のところが四角くなってるでしょ?この形が気に入ってるんです」

 色ばかりに目が奪われていたけれど、確かに面白いデザインのカップだ。

 岩山の視線がオレの持参した紙袋に注がれているのに気がつき、土産に買ってきたマフィンをテーブルに並べる。

「右から、抹茶、チョコレート、チーズ、バニラ、バナナ、ブルーベリーだよ」

「俺はバナナだな」

「僕は抹茶」

「颯真くんは抹茶が好きだよね」

「うん」

 今日も推しは完璧な笑顔をオレに向けてくれる。くりっとした大きな目が「美味しい!」と更に見開かれ、オレをいい気分にさせてくれる。


「龍弥さん。僕、自分が描いた絵をちゃんと整理して保存しておこうと思って。啓人さんに手伝いに来てもらったんです。もうあんな風に絵を描くとこはできないけれど、僕が描いた絵であることには変わらないから、大切にしたいってようやく気がついて」

「そうか。うん。いいと思う。棚を作ったりするなら言ってくれ、俺も手伝える」

 岩山は、隣に座る颯真の頭をわしゃわしゃと大きな手で撫でる。やっぱりこの男のこういうところ、むかつく。

 気を取り直し、オレは姿勢を正した。

「颯真くん、そのことなんだけど、オレから提案があるので聞いてほしい。その資料がこれ。はい、岩山さんにもこれ」

 A4サイズの紙を横にして、左上をホッチキスで留めてあるモノクロの提案書を手渡した。

 タイトルは「ガーデン個展のご提案」だ。

「岩山さんの展示を見て、オレは思ったんです。絵にとって誰かに見てもらうのは、喜ばしいことなんだって。見た人がそれぞれ別々の感想を抱いていくことで、奥行きが出るというか。上手く言えないけど、絵が人目に触れる機会を作ってあげたいと思って。オレはイベント屋だから、そういうことしか思いつけなかったっていうのもあるけれど」

「いいと思うぞ、すごくいいと思う」

 颯真より先に岩山が賛同してくれた。颯真はまだ資料に目を落とし、考え込んでいる。

「颯真くんが描いた絵って言わなくてもいいと思うんだ。颯真くんが色覚のことをオレたちに言わなかったのは、別に隠そうとした訳じゃないって分かってる。気を遣わせないようにしたかったんでしょ。だから、これからも例えばバーのお客さんには言う必要がない。だって今現在、上手くやれてるし」

 颯真が資料から顔を上げ、微笑んでくれた。

「だからこの庭の「台風からの復興記念」として、ここでガーデンパーティを催したい。そして庭には、颯真くんの描いた絵をイーゼルでそこかしこに立てて飾りたい。バーの常連さんを呼んで、颯真くんがカクテルを振る舞って。そしたら自然とみんなにこの絵を見てもらえる。「誰が描いたの?」って聞かれたら、知り合いの美大に通っていた笑顔の素敵な青年ですって、さらっと答えたらいいと思う」

 岩山が「やるなオマエ」、そう言ってオレの綺麗にセットしてある頭も、わしゃわしゃと撫でてくれた。


 山本夫妻にもオレからプレゼンテーションをし、二週間後の日曜日に「ガーデンパーティ」の開催が決まった。山本は張り切って、勝手にチラシを作り、バーの常連たちに郵送したり、配ったりしているらしい。

 颯真は皆に愛されている。笑顔を絶やさず、気分の浮き沈みがなく、人に優しい言葉をかけることができる。そして大きな目がくりくりと動き、ふわふわとした髪がよく似合うイケメン。そりゃみんな颯真を好きになるに決まっている。やはり魔性の男なのだ。彼がバーテンダーとして働き続ける以上、あのバーは未来永劫、安泰だ。もし、颯真が画家になっていたら、バーはあの場所に存在してはいなかった。そう思うと考え深い。

 颯真は、当日にメインとして振舞うドリンクを柘榴のカクテルに決めたという。彼がオレに自分の秘密を語ってくれたとき作ってくれたカクテルだ。柘榴は常連のおばさまの家に大きな木があるらしく、それを分けてもらうという。

 岩山は、庭のどの場所にどこの絵を配置し、どのようにライティングするか、日々試行錯誤してくれている。額やイーゼルを選んで、実際に置いてみては、リビングからの眺め、アトリエからの眺め、バルコニーからの眺めを確かめている。このまま画家先生に任せておけば、完璧な配置となるだろう。

 オレは、ただただ天気を心配していた。一日に何度も天気予報のサイトを見ては一喜一憂している。最初は雨マークだった予報が、三日前には曇りマークに変わった。そして、いよいよ明日というタイミングで、晴れマークになってくれた。


 パーティは十五時からスタートした。「好きな時間にフラっときて、フラっと帰ってください」と告知してあり、皆が軽い足取りで蔦の洋館へ足を運んでくれている。

 颯真に会うことを目的に、颯真の作るカクテルを飲みにやってくる。

「やぁ」「こんにちは」「楽しみにしてたのよ」

 皆の声が弾んでいる。

 そして、森のように茂る庭の雰囲気の良さに、さらに庭のあちらこちらに飾られている絵の繊細な色遣いに、皆が感嘆の声をあげる。

「いいお庭ね。それにこの絵画たち、本当に素敵。このお庭の雰囲気にぴったり」

「物語の中に入ったみたいだわ。現実とファンタジーの間にいるみたい」

「庭木が絵を引き立てるし、絵が庭を引き立てるね。素晴らしいよ」

 それぞれが、ぞれぞれの感想を口にする。

 バルコニーに作った即席のバーカウンターの中にいる颯真の耳にも声が届いているだろう。

「この絵は、どなたが描いたのかしら」

「可能なら購入したいが、誰と交渉すればいいだろうか」

 颯真のエージェントも、山本が引き受けてくれている。

「これは、数年前にある青年がこの庭を描いたものです。本人の意向で、お売りすることはできませんが、またこの絵をこの庭で愛でるパーティをしますから、足を運んでください」

 そう聞けば、誰もが「是非」と答えるのだった。


 オレは、颯真と揃いの衣装を着て、ボーイの役割を担った。空になったグラスを下げたり、手持ち無沙汰な人に次の飲み物を勧める程度だけれど、楽しい体験となった。定位置は柿の木の下で、常に会場全体に目を配らせていた。柿の木の下には、オレの一番のお気に入りの絵が飾られている。たくさんの柿が実った木を、子どもの視線のような低い位置から見上げた構図だ。絵の中は夜で、その夜空には細い月がぼんやりと浮かんでいる。

 お気に入りの絵の横に立ち、バルコニーでシェーカーを振る颯真を見る。庭が持つ森のような匂いを感じ、颯真や彼の絵を賞賛する騒めきの中にいる。これは本当に幸せな時間だった。

 パーティは二十時で、クローズとなった。岩山は、意気投合した人たちと、どこかに飲みに行ってしまった。山本夫妻も、遠方からわざわざ足を運んでくれた人を、食事へと連れ出す。

 急に静かになった庭で、颯真はバーカウンターを片付け、オレは、すべての絵を一旦アトリエへと移動させた。

 特に会話はなかったけれど、二人とも充足感に包まれていた。


 片付けも終わりリビングへ戻ると、テーブルの上に「お疲れ様でした。右から、鮭、こんぶ、梅、おかかです」というメモ書きとともに、おにぎりが置かれていた。山本の奥さんが気を利かせて用意してくれたのだろう。ありがたい。

 手作りのおにぎりは全てが真っ黒い海苔に包まれているから、これはオレもメモ書きを読まなければ、中身が分からない。二人で頬張りながら、楽しかった時間を振り返る。

「啓人さん、改めてありがとうございました。今日は僕にとって夢みたいな時間だった。啓人さんのお陰です。感謝してもしきれない」

 並んで座ったソファで、オレの目をしっかりと見てそう話してくれた。心から思って口にしてくれたのが伝わってくる。だから今なら少し図々しいことを言っても許されるのではないかと、オレは調子に乗ってしまった。

「颯真くん。お願いがあるんだ。絵は売らないっていう意向なのは承知している。でも一枚だけオレに売ってくれない?オレにとって颯真くんの存在は特別で、週に三回のおやつタイムに会えていたのが、どれほど幸せだったか。いや、これからも週に一回、いや二回はバーに通うよ。会いに行く。でも、それじゃ足りないんだ。君をもっと近くに感じていたい。だから、せめてオレの侘しいワンルームマンションに「柿の木の絵」を一枚飾らせてほしいんだ」

 推しは目線を外したまま、クククと笑う。

「ダメですよ」

「いや、頼むよ。でも金額はあまり出せない。オレの給料一ヶ月分で考えているんだけど、無理なら二ヶ月分でも」

「だから、ダメですって」

「そうか……。だよな。ごめん……」

 恥ずかしい。オレの頼みならきいてくれるのではないか、少しは特別に思ってくれているんじゃないかと勘違いしていた自分が、恥ずかしい。


「代わりに提案があります」

「提案?」

「うん。ここの二階には三つの部屋があります。一番手前が僕の部屋。一つ飛んで一番奥が龍弥さんの部屋。真ん中の部屋を綺麗に掃除して、新しいベッドを置いて、壁に「柿の木の絵」を飾ります。だから……」

「だから?」

「引っ越してきませんか?ここで一緒に暮らしてくださぃ……」

 最後のほうはとてもとても小さな声になっていた。オレの頭は、ジワジワと遅れて言葉の意味を理解していく。あぁ、なんて素晴らしい提案をしてくれたのだろう。思わず、隣に座る颯真を抱きしめる。

「引っ越してくる。すぐに。明日にでも引っ越してくる」

「よかった」

 颯真は小さく震えていた。抱きしめていた手を慌てて離し、顔を覗き込む。

「どうした?」

「すごく勇気が必要だったんですよ、今。あぁもう、まだドキドキしてる」

 その目には薄っすらと涙が浮かんでいた。オレは颯真の頬に指でそっと触れ、その涙を拭ってやった。

「オレ、引っ越してくるだけじゃなくて、色々期待しちゃうかも」

「いいですよ。期待しても……」

 オレはもう一度、愛しい人のことを強く強く抱きしめた。


 季節が変わらないうちに、オレは蔦の洋館へと引っ越してきた。

 その日。お祝いだと言って、岩山が脚立に登って、綺麗なオレンジ色となった柿を収穫してくれた。

「ほれっ」

 投げて寄越すから、華麗にキャッチする。

「食べてみろ、美味いぞ」

 シャツの袖口で、皮をキュキュっと数回拭き、ガブリと食らいついた。こうやって豪快に食べるのがこの庭の住人になる一歩のような気がして。

「啓人さん、ダメーーーー!」

 颯真の声が庭に響き渡る。その声を聞くより先に、口の中が固まったかのように、渋味でいっぱいになった。

「ハハハハハ」

 岩山の高らかな笑い声が、むかつくほどよく聞こえた。笑ったままアトリエに消えていった岩山は、もう次のシリーズの制作に入ったのだという。

 口のなかの渋味が取れず悶絶するオレに、颯真はキッチンから牛乳をコップに注いで持ってきてくれた。渋みは全然緩和されず、変な顔になるオを見て、愛しい人も笑っている。

「これは渋柿ですよ。あとで一緒に皮を剥いて、干し柿を作りましょうね」

 渋味のおすそ分けだと思って、颯真の唇にチュっとキスをした。

 柿のように赤くなる愛しい人の顔は、堪らなく可愛かった。


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