「あら? あの子、何も言ってなかった?」
「いえ、なにも」
いつもなら玄関前で待っているはずのつむぎは、そこにいなかった。
昨夜あんな感じで別れたのもあったので、それで顔を出しづらいのかと心配になって家まで呼びには来てみたのだけれど、彼女はひと足お先に学校へと向かった後だったのだ。
「おかしいわね。でもなんだか、今朝は妙に張り切ってたみたいだから、お昼を楽しみにしてていいんじゃないかな? かな?」
なんてつむぎの母は言うけれど、なにか用事がある日や、ひとりで考えたいことがある日なんかは、こうやって何も言わずに一人で登校することもないではないわけで。
とまあ、そんなわけで、今朝の遙希はひとりで学校へ向かっている。
学校へ向けて歩くこと三十分。
つむぎがいないのにもかかわらず、トネリコの木の公園角を、わざわざ遠回りである左に回ったのは、なんというか単純にいつもの癖だった。
「そうそう、こんな朝のオレをなぐさめてくれるのは、いばらさんだけですよー」
せっかく曲がってしまったのなら、と、小さな神社の鳥居前で掃除をしているであろう黒髪の美少女に、いつものように毒舌混じりの慰めを求めてみることにする。
ところが……いばらに会うのだけを楽しみに登校してきたというのに、こんな日に限って、なぜだか彼女はいなかった。
周囲はしん、としている。
神社の側には樹齢ばかり重ねた木々に閉ざされた山があるだけ。道を挟んで反対側は一段低くなっていてそこにあるのは、刈り入れが終わって土が茶色い地肌を晒す田畑。向こうの方に街が見えるけれど、それはあくまで景色。
神社の入り口脇にある、小さな和菓子販売所もまだ開店前で、そこにもまだ人の気配はない。
それどころか、違う高校の自転車通学をしている生徒が、順に数人通り過ぎていってからは、人の通る気配もない有様だった。
がらんとした静けさの中に、ひとり取り残された気分を味わう。
一度も朝の掃除をさぼったことがない、と豪語していたはずのいばらの姿がないことを、ちょっとだけ心配に思う。
とはいえ、参道を上がって神職のお宅にお邪魔して、「いばらさんは風邪でもひきましたか?」などと聞きに行くわけにもいかないだろう。
そんなわけで、遙希は観念してフツウに学校へ向かうことにせざるを得ないのだった。
†
「ねえトーガ、噂は聞いているかい?」
まるでコロニーを離れる細菌の株のようだ……そんな感想で友人を迎えながら、遙希は自分の机の上に鞄を置いて、購買で買ったミルクのパックにストローを刺す。
(つむぎは……)
彼女は自分の席にいた。一瞬だけ目があったのだが、にこりともせずにすぐに前を向いてしまう。学校では他人っぽく振る舞う約束なので、普段と同じといえば同じなのだけど、昨日あんな事があっただけに、やはり少しだけ気になってしまうわけで。
とはいえ、わからないものはわからないので、とりあえず肩をすくめてから。
「なんだよ噂って」
と、まずは新字に問い返す。
「来たばかりだから知らなくても当然だね。噂は噂、口を
「それで?」
「うん、聞く体制になってくれた。そうだね、黙っていてもいずれ君の耳には入るだろうけれど、昼休みの僕のかわりに、先回りして伝えておこうと思う」
つまり遙希には、そんな噂ひとつでも、新字以外からは伝わらないと言いたいわけか。
ちょっとむっとする。
「いや、いい。昼休みのお前に会ったら聞くよ」
「気を悪くしたかい? まあ、そう言わずに聞いてくれよ。実は、だ。屋上が立ち入り禁止になっているんだ。しかも四階の階段に立ち入り禁止のガムテープが貼られていて、教師陣の中でもひと際屈強な、体育のガンツが門番を務めているらしい。それでも勇者はいてね、勇敢で無謀な先輩の現地報告によると、扉は周辺の鉄筋もろとも吹っ飛んでて、爆弾でも使ったんじゃないかって有様だそうだ」
ぶっ、と牛乳を吹き出しそうになる。
どう考えても昨日の夕刻の……オーロラの中で行われた氷夜香とフルンドの戦いの余波だった。いや、正確には扉を吹っ飛ばしたのはフルンドないので、犯人は氷夜香なのだけど。
「あー、あれかぁ……」
思わずそんな言葉が漏れる。
「周知かい? なら、視聴覚PC室と技術家庭科室が閉鎖されてるのは?」
「いや」
頭を横にふるふる。
もちろん一階の技術家庭科室は……遙希に向けて投げられた槍が破壊した……ので、閉鎖されているのも想像に難くないけれど、聴覚PC室のことは知らない。
確かあそこは四階……最上階だったはずだが……
「要はこちらも閉鎖されてるんだけどね、まあ、勇者はどこにでもいるのさ。技術家庭科教室は、とにかく中がメチャクチャで、四階の視聴覚PC室に至っては、天井に穴が空いてるらしい。しかも熱で溶けてるみたいなんだ。隕石でも落ちたんじゃないかって話だよ」
「あー、あれだぁ……」
それはたぶん、フルンドの薙刀が屋上に開けたクレーターの穴……などと言えるはずもない。
だから遙希は、牛乳をちゅちゅー、とすすることで、とりあえず『興味なし』という意志を新字に伝えるにとどめることにした。
「興味なし、かい。これはこれで、きみの退屈を埋める役には立つと思うのだけどね。実はね、生徒の中に昨日学校を囲むオーロラを見た、って言ってる人がいるらしいんだ。なにか関係ありそうなにおいがしないかい?」
「っ!?」
思わずむせそうになる。
「そうさ、きみが見る、あれだよ。前から言ってるように、みんなは信じていないし、信じないだろうけれど、僕はそこに一握の真実くらいはあると考えているんだ。どうだい、興味がわいてきたんじゃないかな?」
うなずきかけて、冷静になる。
確かに昨日……いや、金曜日までの自分なら、新字の話に即飛びついたに違いない。しかし今となっては、もはやオーロラは自分ひとりの世界で完結しなくなっている。それはむしろ、氷夜香やフルンドたちの『あっちの世界』と遙希の『こっちの世界』を隔てるカーテンのような物で。
そして自分は多分、あっち側の世界に片足を突っ込んでしまっているのだろう。
だからオーロラを見た人がこの学校にいることそのものに興味はあるが、氷夜香、フルンド、謎の青年……彼らのようにそれが、場合によっては敵である可能性すらある。
そうだ。
氷夜香とフルンドは、とりあえず遙希の命を狙うことをやめてくれたようではあるけれど、それだって昨日だけとりあえずという話かも知れないわけで。ここで自分がそっち側の人間であるとばらして、敵を増やすこともない、とは思う。
(……っていうか、敵を増やすって……)
浮かんだ言葉のありえなさで、今更ながら、自分の置かれた状況の異様さに気付く。
「なんだか、思うところがありそうだね、トーガ」
「ああ、今日はまっすぐ帰ろうと思う。明日は休むかもしれない。マジで」
命のためとか、命のためとか、主に命のために。
遙希のそんな返事に不思議そうな顔をする新字だったが、しばしあって肩をすくめると、なにかに得心したようにして、
「それがいいね、そういう顔をしてるよ」
そう言った。
しかし……
放課後を待たずにその場で帰っておくべきだったと、その選択を後悔することになるのだ……などと、そのときの遙希にはまだ想像もつかないことなのだった。