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5:4/洋弓の乙女・和弓の乙女

 通りを大きく跳び越え、歩道橋を盾にし……


 光の矢を避け、身を躱す。


 氷夜香は、上空のグズルーンを相手に、終わりのない苦戦を強いられている。


 短剣一本であの姫騎士を相手にするのは、分の悪いどころの騒ぎではなかった。 


 向こうはオーロラで姿を隠し、ただ天から一射で七射の矢を落とし続けていればいいのに対して、氷夜香は人々の前に姿をさらさぬように逃げ続けなければならないのだ。


 いや、正直なところ、氷夜香が戦いのために姿をさらすのは、いい、それが遙希のためならば、街の中心で大立ち回りをすることだって厭わない。


 だが……


 意識を失ったつむぎを抱いたままで、それはできない。


 氷夜香は常人の数倍の速さで駆けながら、天に浮かび、後を追ってくるオーロラの輝きに目を向ける。上からの攻撃というだけでも、背中に目のついていない身では対するのが難しいというのに、そのうえオーロラの光が邪魔をして、矢を射るタイミングを先読みすることができない。


 もちろん、天から射られる矢は、氷夜香たちを狙っているだけではない。


 走り、同じような場所を何度か廻るうちに気付く。彼女はたくみに矢を進行方向に降らせ、退路を断つことで、氷夜香が向かう方角をコントロールしている。


 それは、氷夜香をどこかへ向かわせようというのではなく、遙希とリヒトの戦いから遠ざけようとする意図。だがしかし、気付いたところで、この状況を打破することにはつながらない。


(どこかで反撃を……)


 一瞬でいい。


 ほんのわずかな時間でもいいから、草色の鎧纏う姫騎士の意識が、氷夜香からはずれてくれさえすれば……


 そう考えたそのとき、次の矢が降り来て、向かう先に突き立つ。続く六本の矢が降る先を予測した氷夜香は、進路を変更すべく横に大きく跳んだ。


(今の攻撃は……?)


 これまでに比べ、あまりに杜撰ずさんな一射に違和感をおぼえた次の瞬間。


「っ……!」


 しまったと歯がみする。


 そこは小さな交差点の真ん中、さえぎるもののない場所におびき出されたのだと知り、慌てて上空に目を向ける。


 草色の鎧纏う弓のワルキューレは……真に、真上にいた。


 電柱の更に上程度の高みにいて、弓を構え真下の氷夜香に、矢を向けていた。


「……!? ハガラズ!?」


 矢の先に浮かぶのは、『H』に似たルーンの文字。背後に浮かぶアウルーラの力を借りることで瞬時に描かれたそれに、氷夜香は、のだと知る。


 打破できない状況を確定する、未来固定の魔術。グズルーンは『最も短い距離を矢が飛ぶ』という状況を作り出すことで、『逃げられないと氷夜香が思う』という、来るべき結果を導いた。『H』のルーン纏う矢は、放たれれば彼女の描いたその結果、氷夜香の描いた未来を確定する。


 それは、どうあっても逃げることのかなわぬ必中の一撃だった。


(つむぎさんだけでも……)


 なんとか無傷で……と、そう考えた瞬間。


 チャンスは、唐突にやってくる。


 矢の先のハガラズを霧散させたグズルーンが傍らに目を向け、振り向きざま、明後日の方向に矢を放つ。


 彼方、北照高校の更に向こうにある山の方角へ。


 あまりにも突然の行動だった。


 七射の矢は闇に吸い込まれるように消え、数瞬後、闇夜を照らす爆発的な光が空を染める。


 どこから放たれたのだろうか、草色の戦女神を狙い空を奔り来る炎の矢を、グズルーンは即座に迎え撃ったのだった。


 驚異的な弓の腕。


 飛び来たる矢を正面から撃ち落としたこともだが、迫る驚異をこの距離で察知したことにこそ驚愕するべきなのだろう。しかしそれを成したグズルーンは、ただ微笑みのままに矢の飛び来た方角を見やって。


「炎の、ルーン……ですね」


 さしたる感慨もないように、つぶやくのみだ。


 しかして、隙はそれで充分。


 彼方からの攻撃にグズルーンが気を取られたその一瞬を突いて、氷夜香は地を蹴り高く跳躍していた。草色の姫騎士のわずかに高みで宙返りをうち……そしてその勢いのままに、彼女は短剣を振り下ろしたのだった。


 しかし、グズルーンは慌てもせず、ただ無造作にその一撃を避けようと身を躱す。


 常ならば、それで充分といえるだろう。


 しかし、それこそが狙い。


 氷夜香には、グズルーンの心の声が手に取るようにわかる。


 彼女は、この短剣が自らの身体を傷つけることがないと思っているのだろう。


 ただの短剣の一撃が鎧を割ることなどなく、ましてやルーン石の助けもないままに、彼女の戦乙女の馬“グラウム”を傷つけることなど不可能。ルーン石の助けを借りようにも、刻まれたルーン文字を描くのに数角が必要である以上、振り下ろしてからそれを描くことなど不可能で、その上それを唱え結実することなど無理だと。


 それが常識、しかしそれは油断。


 天からただ矢を射るだけで空を制圧する、姫君の、限界。


「『イズ』」


 剣を振り下ろし、唱える。


 短剣にはまっていた、たった一枚は、氷夜香の象徴でもある氷のルーン。


 総画は一画、振り下ろす軌跡でルーンを描き、ルーン最短の音節で発動するそれは、本来は投擲用の武器にかける魔術文字。


 弓の戦乙女であるグズルーンにこそふさわしいはずのその文字を、氷夜香は今、短剣の一撃に用いたのだった。


 結果。


イズ』の石は、光となって消え、短剣は氷を思わせる白と、雷を想起させる紫のスパークを纏い、矢のごとく加速する。その加速は短剣と布でくくられた氷夜香の手を引き、つむぎを抱えた彼女の身体ごと、瞬きの間でグズルーンの脇を上から下へ駆け抜ける。


 グズルーンにかわいとまなどない。


 交錯の瞬間、氷夜香は弓とを瞬断し、そして地に降り立つ。


 短剣は彼女の手から離れて地に深々と突き刺さる、それを手に縛っていたスカートの生地は、ルーン魔術の余波で粉々にちぎれ飛んでいた。


「ごめんね、怖い想いをさせたね」


 腕の中でまだ眠ったままのつむぎに話しかける。


 背後の空、翼をもがれたグズルーンは、落下する。


 細い黒弓、両足の翼、そしてアウルーラの肩に生える一対の翼まで、そのすべてを一撃で斬り落とされた弓姫が墜落する様を見届けることなく、氷夜香シグルーン遙希ヘルギの許へと急ぐ。


     †


 森深き斜面。


 木々の間に壊れた赤いアウルーラが横たわっている。


 胸装甲の上には、弓を放った後の姿勢、すなわち残心ざんしんの有りようで、戦女神が立っていた。


 やがて……


 彼女は構えを解き、ゆっくりと、手にした和弓をおろす。


 その戦女神……フルンドこそ、グズルーンへと炎の矢を放った射手だった。


 彼我ひがの距離は七キロメートル。


 狙うのにしばしの時。射つのに三枚のルーンを用いたフルンドの一撃を、英雄の戦乙女グズルーンは一枚のルーンを用いることすらせず、ただ振り向きざまの一射だけで相殺あいうち落としてしまった。


 まこと畏怖いふに足る所行だった。竜殺しの英雄にして王、シグルズの正妻として、彼の後ろに控えているのは伊達ではないということだ。


「それでも、目的は達成できたと言えましょう」


 そう、これでいい。


 フルンドの作った隙をつき、シグルーン……背羽氷夜香がグズルーンを仕留めているはずだ。この距離からでは確認もできないが、フルンドの『天狼てんろう火炎焱ほむら』を半壊せしめた戦乙女なのだから、それくらいは、してもらわなくては困るというもの。


 ふっと笑みを浮かべる。


 弓を射るに邪魔であったため、頬に一本の髪も触れぬよう、赤いリボンで高くまとめていた黒髪を解き、頭を振る。


「さあ、『天狼てんろう火炎焱ほむら』」


 彼女は、足下の愛馬アウルーラに話しかける。


「ウェルンドの鍛冶工房でその身を休める前に、もうひと働きです。あの方のため、シグルーンに存分に槍を振るっていただくためにも……彼の方の眠り姫つむぎさんを、預かりに参ることにしようではありませんか」

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