「うわあぁーっ!」
隣町の境目に架かる橋の方から、少年の叫び声が聞こえてきた。
「えっ? 何?」
丈の短い小袖に袴姿で、背中まで垂らした三つ編みを上下に揺らしながら走っていた美弥は足を止め、小間使いのような質素な着物を着たざんぎり頭の青年と顔を見合わせる。
「行きましょう」
青年は、着物や洋装の人々で賑わう通りをぶつからないよう上手く掻き分けてどんどん前に走って行く。人にぶつかっては謝るを繰り返しながら、美弥は青年を見失わないよう後を追いかけた。
「誰か! 助けてー!」
橋まで行くと、つぎはぎだらけの着物を着た少年が欄干の上に乗り、泣き叫んでいる。
「助けなきゃ!」
少年を助けようと欄干に近づこうとする美弥の腕を青年が掴んで止めた。
「近づくな」
「でも!」
「あの子供が何に怯えているか分からないか?」
「えっ?」
「やめろ、こっち来るな! 化け物!」
少年が右横を見て怯えた顔でしゃがみ込み、声を張り上げる。少年の目線の先に目を向けると、巨大な黒い蜘蛛が真っ赤な八つの目をぎょろつかせて少年を睨みつけ、低い唸り声を発した。
「それを渡せ」
「な、何あれ」
「やはり見えるか」
恐怖で全身の血の気が引いていき、足が震える美弥の傍を、少年へ蔑むような、憐れむような目を向けて通行人たちが通り過ぎていく。
「物乞いのガキが、ひとりで何やってんだ」
「同情させて金をもらおうってか?」
「何よ、演技してるだけ? 心配して損したわ」
「あんた人の心配するような質じゃないでしょ」
笑いながら歩いて行く洋装の女性たちを美弥は愕然としながら見つめた。
「見えて、ない?」
「あれは妖怪だ。普通の人間には見えない。分かったら下がっていろ」
青年は懐から札を出すと、人差し指と中指の中に挟み、ふうっと札に息を吹きかけて蜘蛛めがけて投げつけた。
「ギャアッ!」
札が当たった蜘蛛は欄干から橋の上に転げ落ちた。少年は驚いた拍子に、欄干を掴んでいた右手が滑り、体勢を崩して川の方へ体が傾く。
「危ない!」
「待て!」
美弥は青年の制止を聞かずに少年のもとへ駆け寄り、間一髪のところで腕を掴んだ。
「もう、大丈夫だからね」
美弥は必死になって少年を引っ張り上げ、抱きかかえた。
「あっ、後ろ!」
少年に言われて美弥が振り返ると、目の前に蜘蛛の真っ赤な目が飛び込んできた。美弥は目を閉じて少年の上に覆いかぶさる。その時、少年の首に、母からもらった勾玉がぶらさがっているのが見えた。
(お母様!)
ぎゅっと目を閉じる美弥の脳裏に、今朝見た母の夢と今日の出来事が走馬灯のように蘇ってきた。
まるで燃えているような夕焼け空に浮かぶ真っ赤な沈みかけの太陽が、最後の力を振り絞って日差しを地上に降り注いでいる。縁側から差し込む橙色をした光の筋が、布団に横たわる母の顔に差し込む。そのおかげで普段の青白い頬が、頬紅をさしたように見える。一瞬、病が治って元気になったような感覚に陥るが、息苦しそうに咳き込み、錯覚だったことに気づく。
「おかあさま、だいじょぶ?」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう、美弥」
弱弱しい笑みを浮かべた母はゆっくり体を起こすと、眉を寄せて深刻そうな表情で見つめてきた。そして着物の袖に手を入れて、赤い紐に通された薄い緑色の勾玉を取り出し、首に下げてくれた。
「これ、なあに? あたしの?」
「そうよ。毎日、どんな時でも身に着けておいて。絶対にはずしてはだめよ」
「どうして?」
「これはね、あなたを守ってくれる大事なお守りだから。大切にしてね」
「おかあさまがつくってくれたの? ありがとう!」
笑顔を向けると、母は何故か涙を流しながら微笑み、細い腕で抱きしめてくれた。
「お母様!」
美弥は手を伸ばすがその先には何もない。目を開けると、天井に伸ばされた自分の手が見えた。
「夢、だったのね」
ドンドン、ドンドン!
「美弥! まだ寝てるんじゃないだろうね!」
突然、襖が破れそうな勢いで叩かれ、美弥はガバッと飛び起きた。
「おまつさん! もしかして寝坊しちゃった?」
あたふたと布団から這い出ていると、襖がガラッと開き、恰幅良いおまつが腕組をして仁王立ちで睨みつけてきた。
「やっぱり寝てたね! 今日は、明日の準備もあって忙しいんだよ。さっさと仕度しな!」
「は、はいっ!」
美弥が背筋を伸ばして返事をすると、おまつはピシッと襖を閉めて足早に去って行った。
「そうだ、明日は桃華の婚約者がいらっしゃるんだったわ」
美弥は呟きながら寝巻きを脱ぎ、丁寧に畳んだ。
「ありがとう。また今夜も宜しくね」
寝巻きにお礼を言い、部屋の隅にある行李の中に入れ、そこから丈の短い縦縞の小袖と藍色の袴を取り出し、声をかける。
「おはよう。今日も宜しくね」
着替えを終え、幼少期から使っていて何度も縫い直した煎餅布団を畳んで行李の傍に置き、皺を伸ばしながら話しかける。
「毎晩ありがとう」
腰までの髪を高い位置で一つ結びにして三つ編みにしてから、窓も何もない4畳の狭い部屋に目を向ける。
「いってきます」
襖を静かに閉め、女中頭のおまつの活気溢れる声が響く台所へ向かった。
「美弥、遅いじゃないかい。竈で火の番だよ、早く!」
おまつに急かされ、米を炊く羽釜が乗っている竈の前で中腰になり、薪と火吹竹を手に持って、チロチロ燃えている小さな炎と羽釜を交互に見る。薪をくべて、時に火吹竹で息を送り込んで強火にしていく。ぐつぐつと煮えたぎる羽釜から、米の炊ける良い匂いが広がっていく。
「いい匂い。お米さん、おいしくなってね。竈さんも頑張って。私も頑張るわね」
炎がぼうっと勢いよく燃え始め、羽釜の蓋がガタガタと落ちそうになる。
「あんた、何やってんだい。早く弱火にしな!」
美弥の後ろを通りかかったおまつに怒鳴られた美弥は、慌てて灰をかけて火を弱める。
「まったく。何年やってるんだい」
「す、すいません」
「あとはあたしがやるから、井戸で洗濯してきな」
「はい!」
周囲でてきぱきと手を動かしている女中たちから、くすくす笑われたり、呆れ顔で見られたりしながらも、美弥は気にせず顔を上げて台所から出て行った。
井戸の前に行くと洗濯物が山積みにされており、先に来ていた2人の女中から洗濯板とたらいを渡された。
「じゃあ、あとはよろしく」
「ちゃんと汚れ落とすのよ」
「あっ、はい」
美弥は洗濯物の山に笑顔を向けて小袖をまくった。
「きれいにしてあげるからね」
着物や布などを一枚、一枚丁寧に洗って干し終わった時には、朝日が完全に昇りきって太陽の暖かい日差しが降り注いでいた。
「ふう。やっと終わったわ。皆もお疲れ様」
物干しざおに干されている洗濯物が、美弥の言葉に答えるように風に吹かれてパタパタとはためいた。
ぐうぅ~。
「朝ご飯まだだったわ。お腹空いた……」
美弥がお腹を押さえて台所に戻ろうとした時、背後から声をかけられた。
「ほら、あんたの分だよ」
振り返ると、朝食の乗ったお盆を手に持っているおまつが立っていた。
「おまつさん。持ってきてくれたんですか」
「いつまで経っても食べに来ないから、片付かなくて困ってたんだよ」
「ありがとうございます」
笑顔でお盆を受け取ると、おまつは風にそよぐ洗濯物を眺めて溜め息をついた。
「仕事は遅いし、のろまで手がかかるし、人から仕事を押し付けられても文句も言わないお人よしだけど、あんたのやることは丁寧で、物が喜んでるみたいに見えるのはどうしてかねえ」
「もしかして、褒めてくれてますか?」
目を輝かせる美弥に、おまつは眉を下げて苦笑した。
「ほんと、あんたって子は。人のことを悪く思ったりしないのかね。力さえあれば、こんなことしないで、桃華お嬢様のようにきれいなおべべ着て、きちんと教育も受けられたのに。。あんたは神部家の立派な血を継ぐ正当なお嬢様なんだから」
「正当な血筋なのに、お父様や桃華さんのように妖怪も見えないし、巫女の力も全くないんです。役立たずの私を追い出さずに女中として働かせてくれて、個室ももらえて、こうやってご飯も食べられて、お父様には感謝しています」
おまつは眉を寄せて大げさに溜め息をついた。
「はあーーー。お人好しもここまでくると清々しいねえ。何であんたに巫女様の力がないのかあたしにはさっぱり分からないけど、もし力があったら桃華お嬢様の婚約者の相手はあんただったのに。ここだけの話、桃華お嬢様よりあんたの方がよっぽど美人なのにもったいないねえ」
「そう、ですか? お世辞でも嬉しいです」
へらっと笑う美弥に、おまつはふっと笑みをこぼした。
「それ食べたら町にお使いに行っといで。奥様とお嬢様から必要なものが書かれた紙をもらっているんだけど、文字を読める女中は少ないから。元お嬢様だったんだから読み書きは教わったんだろ?」
「いえ。3歳の時に巫女の力を測る検査をして力がないと分かったので、読み書きを教わらず女中の仕事を教わり始めたんです。でも、文字が読みたくてこっそり寺子屋に通って読み書きできるようになったので大丈夫です」
おまつは同情の眼差しを向け、用が書かれた紙を渡した。
「じゃあ、頼んだよ」
「はい」
美弥は紙を受け取ると井戸の縁に座って手を合わせ、芋粥を食べ始める。家の中に戻るおまつは小さく呟いた。
「この先、あの子はどうなるんだろうね。不憫な子だよ」