緩やかな川の流れに従ってワラワは流されていく。
水を吸った十二単はひとえに重い。
このままではいずれ沈んでしまうだろう。
十数年仕えてきてこの仕打ち……許されざる行為だ。
ワラワは自慢の黒髪を伸ばしてその辺の木々の枝に引っかける。
水の中から脱出し、川岸に登った。
――此ノ恨ミ……晴ラサデオクモノカ………
濡れた十二単の裾をずりずりと引きずりながら進んでいく。
今宵は新月。
月の見えぬ空は暗くワラワの髪のように深い暗黒色だ。
額に貼りつけられた邪魔な札はとっくに破り捨てた。
あんなモノでワラワを祓えるなどと片腹痛い。
ワラワは白粉で化粧された表情の変わらぬ顔で見上げる。
明かりのついているアパートがいくつか並んでいた。
蜘蛛の様に黒髪を伸ばし、アパートの側面を上っていく。
メゾンド・カミハラ。
覚えておる。
覚えておるぞその名前ぇ!
あの小娘の住処じゃ。
あの小娘の部屋がある建物じゃ……。
ワラワは黒髪を自在に伸ばし、操り、アパートの二階へと昇っていく。
外廊下を一部屋ずつ確認。
須藤・佐々木・遠野・七草……。
ナナクサ!
見つけたぞ小娘えええ!
ワラワを捨てたなああああ? 許さぬ! 許さぬぞおおおお!
能面じみた顔が変化するのならば、鬼女のそれになって脅かしてやりたいところだが、それは出来ぬ相談。
ワラワの顔はそういうふうに作られておる。
ワラワは黒髪をわさわさと伸ばして郵便受けの隙間に侵入させた。
更に夏の朝顔のように伸ばして、内側の鍵を開けた。
ついでにチェーンロックなるものも解除する。
キィ……。
黒髪で押して扉を開ける。
続く廊下は薄暗い。
……小娘はもう寝たのじゃろうか?
くくく、好都合好都合。
表情が変えられたらにやりとあくどい笑みを浮かべたいところじゃ。
ワラワは溜め込んできた穢れの力を使ってふわりと宙に浮き――ケガレホバリングという――、静かに部屋の中に入っていく。
無論、髪でしっかりとパタンと扉を閉めるのも忘れない。
今の世の中は何かと物騒じゃからな。
仮にも女子の部屋、開いていたらどんな変質者が入ってくるかわからぬ。
ワラワは黒髪をそこかしこに張り巡らせて、小娘の退路を塞ぎ、廊下を進みリビングに出た。
部屋の中は真っ暗じゃった。
食卓の上にビールの空き缶が転がっていた。
こういうちょっとしたガサツさが婚期を逃す原因なのじゃが、あやつ何故気づかぬのか……。
ワラワは溜息を吐いて、ケガレホバリングで進んでいく。
小娘の寝室はリビングの奥の居間じゃ。
ついでだからリビングのそこかしこにワラワ自慢の黒髪を伸ばしておく。
小娘はきっと驚くに違いない。
部屋中が黒髪で飾られているのだ。
さぞ怖がるだろう。
そこにワラワが現れる。
そして恨み節を告げるのじゃ、此ノ恨ミ晴ラサデオクモノカ!――シュミレーションは完璧じゃった。
もう小娘が泣いて許しを請う姿がワラワの脳内にフラッシュしておる。
ワラワは相変わらずな能面の下に、こらえきれぬ歓喜と期待を抱えながら居間への扉をあけ放つ。
飾りけのない質素な空間に衣装箪笥とベッドが一つ置かれている、ベッドの上で小娘は死んだように眠っていた。
カーテンのサッシのところにはどこか気高くスーツが吊り下げられていて、窓の向こうからは犬の遠吠えが聞こえてくる。
静寂。
ワラワはケガレホバリングで小娘に近づく。
規則正しい寝息だけが響く。
耳元で一回。
――此ノ恨ミ晴ラサデオクモノカ……
小娘は反応しない。
よほど疲れておるのじゃろう。
残業エブリデイ。
企業戦士の鏡じゃ。
しかし、それはそれとしてワラワを捨てたことは許されぬ。
もう一度耳元で今度は大きめに。
――此ノ恨ミ晴ラサデオクベキカ!!
蚊を追い払うようなしぐさはしたが、小娘はやはり目を覚まさない。
これでは恨み節の意味がない。
ワラワは黒髪でくすぐってやろうかと考えたが……影討ちは好まぬ。
その時、室内に揺れを感じた。
それは徐々に大きくなっていく。
家具が揺れ、台所からコップが落ちて割れる音がした。
本が落ちる音や服が落ちる音、引き出し、棚……そして箪笥が、グラッ!と小娘目掛けて倒れてきた。
こんなことでワラワの祟り相手を死なせてなるものか!
ワラワは即座に黒髪を伸ばし、箪笥をぐるぐる巻きにする。
蜘蛛の巣に引っかかった哀れな害虫のように黒一色で装飾された箪笥。
いい出来じゃ!
ワラワは頷く。
「……ふぁ……じしん?」
小娘が目を開いた。
まどろんでいるがその眼はしっかりと空中のワラワに向いている。
「……え?」
小娘は大きく目を見開いた。待った甲斐があったというもの!
ワラワはわさわさと黒髪をうごめかせ、小娘に近づく。
――此ノ恨ミィイイイイ晴ラサデオケルカアアアアァ!
ワラワ渾身の急降下。
小娘は泣いて許しを請うに違いない!
ズパアアアン!!
張り手がワラワを襲うのは次の瞬間だった。
ワラワは床に叩き落とされていた。
夏の虫のように。
――ナッ!?
わらわの驚愕の声に、小娘も驚愕の声を上げた。
「お、お雛様がしゃべってる!? てか私川に流したのになんで!?」
言いながら小娘はワラワをつまみ上げて窓を開けた。
あまりに自然に。
――ヨ、止セ! 何ヲスル! 離セ小娘!
「やっぱしゃべってる! 気持ち悪!」
小娘はワラワをぽいっと二階の窓から外に投げ捨てた。
咄嗟の事でケガレホバリングが間に合わず、ワラワは落ちた。
その先はゴミ集積所だった。
まだ持っていかれていないゴミに塗れるワラワ。
表札を見上げるとワラワは粗大ごみの分類らしい……。
ピシャン!
頭上で小娘の部屋の窓が閉まった。カーテンも。
最後に見た小娘はどこかゴミを見るまなざしをしていた。
……ワラワここまでされるいわれある? ねえ?
――許サン。許サンゾ……此ノ恨ミ晴ラサデオクモノカアアアアアア!
ワラワは吼えた。
それがワラワと小娘の長くて短い死闘のゴング代わりとなった。