「今日は珍しく執務室にいるんですね」
屈託のない笑顔を見せたのは、ルルー王女だった。
キッドが驚く間もなく、彼女は軽やかに部屋へと足を踏み入れる。
「はい、仲間が優秀すぎて、仕事を取られてしまいました」
肩をすくめながら苦笑いするキッドに、ルルーはくすっと笑う。
「なるほど~、それはよいことですね」
「ええ。でも、だからといって俺のことをクビにしないでくださいね」
「それは天地がひっくり返ってもありえませんから、安心してください」
その明るくも真っすぐな言葉に、キッドは思わず肩の力を抜いた。気づけば、張り詰めていた心がふっと和らいでいる。
「せっかくだし、紅茶でもどうですか?」
彼は空いている椅子を勧めると、手際よく湯を沸かし始めた。
「お邪魔じゃなかったですか?」
「ちょうど休憩しようとしていたところですよ」
やがて、ほのかに甘い香りを漂わせる紅茶がカップに注がれる。
キッドはそのカップをルルーの前にそっと置いた。芳醇な香りが部屋の静寂に溶け込み、ほっとするような穏やかな空気が流れる。
「ありがとうございます」
ルルーは小さく礼を言い、湯気をくぐらせるようにそっとカップを手に取った。鼻先で香りを楽しんだ後、一口含むと、にこやかに微笑む。
「ルルー王女こそ、こんなところで時間を潰していて大丈夫なんですか?」
キッドが席に戻りながら問いかけると、ルルーはカップを両手で包み込み、少し恥ずかしげに上目遣いで彼を見つめた。その仕草は、巣穴からそっと顔を出す子リスのようで愛らしい。
「実は……私も何か役に立てるように、キッド様に魔法を教えてもらえないかと思いまして……」
そう言った後、少し照れくさそうに目を伏せ、紅茶にそっと唇を寄せる。湯気の向こうに覗く顔は、かすかに朱に染まっていた。
「魔法に興味があるんですか? 霊子魔法はともかく、元素魔法ならルルー王女にも扱えるかもしれませんが……」
「霊子魔法? 元素魔法?」
聞き慣れない言葉に、ルルーはカップを持ったまま小さく首をかしげる。その姿に、キッドは口元を綻ばせた。
「あ、そうですよね。魔導士でもなければ、魔法の種類なんて知りませんよね」
「魔法って、いくつも種類があるんですか?」
「ええ、そうですね。……興味あります?」
キッドはふと遠い目をした。山にこもっていたここ数年、魔法について誰かと語る機会などほとんどなかった。だが、もともと魔法への探究心が強い彼にとって、こうして誰かと魔法について話せるのは悪くない。
「はい。キッド様が使う魔法なら知りたいです」
ルルーのまっすぐな瞳に、キッドは嬉しそうに微笑む。
「では、ルルー君に、キッド先生が簡単に説明してあげましょう」
「よろしくお願いします、キッド先生」
ルルーは、「君」付けにも気を悪くするどころか、むしろ楽しそうに微笑みながら、カップをそっとテーブルに戻した。そして、まるで授業を受ける生徒のように、膝の上で手を揃え、背筋をぴんと伸ばす。その素直な仕草に、キッドはふっと頬を緩めそうになったが、ぐっとこらえて真剣な表情を作る。
「ルルー君は、火・風・水・地の四大元素について知っているかな?」
キッドが穏やかな口調で問いかけると、ルルーは少し考えたあと、静かにうなずいた。
「はい。世界は火・風・水・地の四つの元素で構成されているという、昔の考え方ですよね?」
「そうだ。今ではその考え方は否定されているが、自然が人間の力の及ばない大いなる力であることは変わらない。そして、火・風・水・地が、その自然の中でも特に強い影響を持つ要素であることも間違いない。そこで、昔の魔導士たちはその力を利用する方法を探求し、結果として生まれたのが元素魔法。いわば、最初の魔法だ」
ルルーは興味深そうに、小さく身を乗り出した。
「その魔法を使えば、火を出したり、風を吹かせたりできるのですか?」
「そうだね。ただし、元素魔法には明確な制約がある。元素の力を利用する以上、それらが存在しない場所では魔法を行使できないんだ。たとえば、火の魔法を使うには、たき火のような燃えている炎が必要だし、風の魔法を使うには、風が吹いていなければならない。たとえば、屋内では風の魔法は使えない、といった具合にね」
「……それは、なかなか不便ですね。たき火があれば火の玉だって作れるのに、火がない場所では、たき火を起こすための火種さえ作れないってことですよね?」
ルルーの鋭い質問に、キッドは満足げに深くうなずいた。
「さすがルルー君、理解が早いね。元素魔法は素質さえあれば少ない魔力で扱えるという利点があるものの、威力はさほど高くはなく、何より汎用性に欠ける。ちょっと便利な力としては使えるが、不確定要素が多すぎて、戦術的には使いにくい。そこで、次に魔導士たちが目をつけたのが、あらゆる物質に微量ながら含まれる希少元素――マナだ」
「マナ……ですか?」
またもや聞き慣れない言葉に、ルルーは細い眉根を寄せた。
「そう。この世のあらゆる物質には、ごくわずかだがマナという元素が含まれている。魔導士たちは、四大元素に頼るのではなく、このマナを操る方法を編み出したんだ。ただし、マナは四大元素のように単純ではない。扱うには高度な呪文や、それを媒介するための魔法杖が必要になる。しかし、その代わりにマナは場所を選ばず、どんな環境でも魔法を行使できるという大きな利点があった。結果として、マナ魔法の発展により、元素魔法は次第に衰退し、やがてほとんどの魔導士がマナ魔法を使うようになった」
「なるほど。それはそうですよね、マナ魔法があれば、わざわざ不便な元素魔法を使う理由はありませんよね。……あれ?」
ルルーはふと疑問を覚え、キッドをじっと見つめる。
「でも、キッド先生が魔法を使う時って、杖は使っていませんし、長い呪文も唱えていませんよね?」
思い返すと、キッドが魔法を行使する姿は、彼自身が説明した「マナ魔法」とはまるで異なっていた。道具も呪文もなく、まるで息をするように、自然に魔法を扱っていたのだ。
「その通り。俺はマナ魔法なんて使ってないからね」
キッドは、どこか楽しげに唇の端を上げた。
「それどころか、今の魔導士でマナ魔法を使っている者なんて、もうほとんどいないんだ」
「え? どうしてですか?」
驚きを隠せず、ルルーは思わず身を乗り出した。
「マナ魔法は確かに便利だった。高度な学習が必要だったが、一度習得すれば、誰でもどこでも魔法を使えるようになったからね。だけど――便利すぎたんだ」
キッドは一拍置き、窓の外に視線を投げた。春の暖かな日差しが差し込む室内に、わずかな静寂が落ちる。
「多くの魔導士が好き勝手にマナを消費し続けた結果、世界中のマナは枯渇し、今ではほとんど魔法の効果を発揮しなくなってしまった」
キッドの語り口は穏やかだったが、その言葉には重みがあった。
ルルーは眉をひそめ、何かを考え込んだように目を伏せた。
「……なんというか、為政者として身につまされる話ですね」
彼女の声にはかすかな悲しみが滲んでいた。乱獲され絶滅した生き物、欲に駆られ伐採されすぎて消えてしまった森――王女として、彼女はそうした「奪い過ぎた末路」をいくつも見聞きしていた。それらと、キッドの語るマナの枯渇は、まるで鏡映しのようだ。
キッドはそんな彼女の表情を見つめ、ふっと口元に笑みを浮かべる。
「王族として、そういうふうに受け止められる時点で、ルルー君は立派だよ。この話を聞いても、他人事みたいに流す貴族も少ないからね」
「そうなんですか……」
ルルーは静かに息を吐いた。
「でも、それじゃあキッド先生は今、何の魔法を使っているんですか?」
彼女の視線はまっすぐだった。元素魔法でもマナ魔法でもない――それなら、一体どんな魔法なのか?
キッドは、そんな彼女の疑問を待っていたかのように、満足げにゆっくりと口を開いた。
「それが、次の話だよ。マナを使い果たした魔導士たちは考えた。どこにでもあって、しかも使っても減らず、むしろ湧き出してくるような魔力の源となるものがないかと」
「そんな夢みたいなものがあるんですか?」
ルルーの大きな瞳には、驚きと疑問が交錯していた。
キッドはその反応を予想していたかのように、穏やかに笑みを浮かべる。
「少なくとも、魔法を使おうとする時に、必ずその場にあるものが一つだけあるんだ。ルルー君、何だかわかるかな?」
「え? そうですね……。太陽は昼しか昇っていませんし、大地も建物の中では触れられないですし……」
ルルーは額に手を当て、真剣に考え込む。
悩みながらも一生懸命に答えを探そうとする姿は、どこか愛らしく、先生としてはつい助け舟を出したくなるほどだった。
「世界のどこにでもあるものを探す必要はないよ。魔導士が魔法を使う時、必ずそこにあるものをシンプルに考えてみるんだ」
「魔導士が魔法を使う時に、必ずそこにあるもの……?」
ルルーは小さくつぶやきながら、再び思考の海に沈む。彼女の瞳は揺れ、まるで心の中で答えを手繰り寄せているようだった。
そして、ふと――その表情がぱっと明るくなった。
「……あっ!」
勢いよく顔を上げ、キッドを真っすぐに見つめる。その瞳には確信の光が宿っていた。
「気づいたようだね」
「はい! 魔法を使う時、必ず魔導士自身はその場にいる……そういうことですね?」
その言葉に、キッドは満足げにうなずいた。
「正解だよ。どんな時でも、どんな場所でも、魔導士自身だけは必ずそこに存在している。だから、魔導士たちは考えたんだ。人間が生きている限り、常に生み出し続ける力が何かないかと。そして、ついに見つけたんだ。霊子という力を」
「霊子……ですか?」
ルルーは強い興味を示すようにキッドを見つめる。彼はその反応を楽しむように、一拍置き、ゆっくりと語り始めた。
「人間の想像力は、無から有を生み出す。想像の力は、誰も見たことのない景色を描き、世界に存在しないものさえ思い浮かべ、心の中に新しい世界を創り出す。そこには、とてつもない力があるのではないか――そう考えた魔導士がいた。そして彼は気づいたんだ。人が想像し、思考し、感情を揺り動かすとき、人の心から溢れ出す、奇跡のような力があることに。――それこそが霊子だった」
ルルーは息を呑んだ。その言葉が持つ重みと、その奥に潜む神秘が、まるで目の前に新たな世界を広げるかのような感覚を覚える。
「そして、その魔導士は、霊子の力をマナの代わりに使う方法を発見した。それが、霊子魔法の始まりだ」
「マナの代わりに……そんなことが」
ルルーは息を呑み、驚きの中に感嘆の色を滲ませた。
キッドは頷きながら、続ける。
「ああ。マナ魔法でできる多くのことが、霊子魔法でも再現可能だった。それに、杖も呪文も必要ない」
「それって、本当に奇跡のような力ですね」
ルルーは身を乗り出すように言うが、キッドは穏やかに微笑むだけだった。その表情には、何か言葉にしがたい含みがある。
「確かに、そう思えるかもしれない。でも、霊子魔法には大きな問題があるんだ」
彼の声がわずかに低くなる。ルルーは思わずごくりと唾を飲み込んだ。
「霊子は心の力。使えば使うだけ、心――つまり精神を消耗する。さすがに命を落とすようなことはないが、無理に使い続ければ、やがて気を失ってしまう。消費の激しさ、それが霊子魔法の最も厄介な欠点だ。それに、霊子の量には個人差がある。術者によって威力も大きく変わる」
ルルーは息を詰め、キッドの言葉に耳を傾けた。その語り口は淡々としていたが、どこか遠い記憶をたどるような響きがあった。
(キッド様は、その霊子魔法を使いこなしているんだ。私の知る限り、誰よりもうまく……やっぱり、この人こそ、私の英雄――)
そう思った時、ルルーの胸に新たな興奮が湧き上がる。
「なるほど……。でも、それなら、私にも霊子魔法が使えるってことですよね?」
希望に満ちた瞳が、まっすぐにキッドを見つめる。しかし、キッドはその期待を裏切るように、ゆっくりと首を横に振った。
「残念ながら、霊子があるからといって、誰にでも霊子魔法が使えるわけじゃないんだ。マナ魔法のように、呪文を唱えれば発動するというものではないからね。霊子を魔力へと変える――それは言葉で説明できるものじゃない。理屈ではなく、感覚で使うものだ。だから、普段から霊子を知覚できず、魔力へ変換することもできないようなら……残念だけど、霊子魔法の才能はないということになる」
「む……」
さっきまでの興奮はどこへやら、ルルーはむくれたように頬を膨らませ、唇を尖らせた。その仕草は王女としてはふさわしくないかもしれないが、年頃の少女としてはごく自然な反応だった。
「なんだか、ずるいです!」
「そんなことを言われても……」
キッドは困ったように頭をかくが、拗ねたようなルルーの表情は変わらない。
大きな瞳にじっと見つめられ、彼は苦笑いしながら問いかけた。
「そんなに魔法が使いたいですか?」
「もちろんです!」
ルルーの答えは即答だった。澄んだ声と真剣な眼差しには、揺るぎない意志が宿っている。その瞳の奥にある熱を感じ取り、キッドはふっと口元をほころばせた。
「なら――ルルー王女が魔法の力を必要とするときは、いつでも俺があなたの代わりに使いましょう」
不意に響いたその言葉は、先ほどまでの軽い調子とは違っていた。どこか静かで、落ち着いた響きを持っている。それは軍師としての冷静さと誠実さを湛えた声だった。
ルルーは思わず息を呑む。
キッドの瞳には、揺るぎない信頼と優しさが宿っていた。
「ですので、ルルー王女には、王女として、あなたにしかできないことをしていただきたい。あなたには、俺にもできない多くのことができるはずです。そして、あなたならきっと世界を変えられる……俺はそう信じています」
キッドの言葉は、深く揺るぎないものだった。
ルルーはふっと目を伏せ、一度ゆっくりと息をつく。そして、思考を巡らせるように数秒の沈黙の後、静かに居住まいを正し、凛とした姿勢でキッドに向き直った。その姿には、迷いを振り払い、新たな覚悟を宿した王女の気高さがあった。
「……はい。キッド様のおっしゃる通りです。今回は、よい勉強をさせていただきました。そろそろ、政務に戻りますね」
ルルーは静かに立ち上がった。その背筋はまっすぐに伸び、先ほどまでの魔法への未練は、もはや影も形もない。
「私は王女をやります……。ですが、もし私が道を違えそうになったときは、キッド様、そのときは正しい方向に導いてくださいね」
その言葉には、少女の無邪気さはもうなかった。ルルーの瞳には、王女としての誇りと覚悟が深く宿っている。
キッドはその意志に応えるように、力強くうなずいた。
「……はい。俺があなたを立派な王にしてみせます」
ルルーは微笑むと、くるりと踵を返し、堂々とした足取りで出口の扉へと向かった。
「頼みましたよ……私の軍師様」
その言葉は小さく、キッドの耳にはほとんど届かなかったが、確かな信頼が込められていた。
扉が閉まる音が響く。
ルルーが去った後、キッドはしばらくの間、名残惜しそうに扉を見つめていた。だが、すぐにその視線を机に広げた地図へと戻し、深く息を吐く。
「さあ、気合いを入れ直すか!」
彼は再び策略を練り始めた。
それから十日後、紫の王国の軍が、紺の王国に向けて出兵準備を整えたとの情報が、冒険者時代のネットワークを通じてキッドのもとへと届いた。