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第28話 いざ、出陣




「まだか、まだか……。」



 陣幕に一人。緊張を気兼ねなく露わにして待つ。

 今や、右足どころか、左足も震えて、俺が床几に座っているこの場所だけが局地的な大地震状態。


 先ほど試しに立ち上がって歩いてみたが、案の定だった。

 酒を飲んでもいないのに千鳥足。十歩ほど歩いた程度で膝を折る有り様。


 右足が震えていると解った時点で勝頼達を追い出して本当に正解だった。

 もう少し遅れていたら無様な姿を晒す結果になっていただろう。


 余談だが、勝頼はまだ結婚しておらず、婚約者もまだ居ない。

 四男に生まれた悲しさか、義信は十三歳で結婚したのに対してだ。

 更に付け加えるなら、諏訪の方がその方面に潔癖な為、武田家クラスの大名家の男児なら成人前に当たり前のように存在する妾も居ない。


 即ち、勝頼は童貞である。

 その初さが今回は上手い具合に事を運ばせてくれたが、ハニートラップはいつ、何処に潜んでいるかが解らない。勝頼の立ち場と今後の事を考えたら、早急な解決が必要だろう。



「大殿! 高坂昌信に御座います!」

「入れ!」



 だが、それを悩む前に今は緊張を何が何でも収めて、上杉輝虎との会談に望まなければならない。

 ようやく待ちに待った声が陣幕の外から聞こえ、震える両膝を上から両手で押さえ込んで平静を必死に装う。



「済まないな。お前も忙しいだろうに」

「いえ、お呼びとあらば、即参上。大殿の為なら、火の中、水の中。犬馬の労を厭いません」

「そうか、頼もしい事だ」

「……して、拙者に何用でしょうか?」



 よっぽど急いで駆け付けたのだろう。

 陣幕の中へ歩み入り、俺の一歩手前で右拳を突いて跪いた肩は激しく上下に揺れており、長い髪を束ねながらオールバックにした前髪は一房だけが垂れて、伏せられた顔の顎先からは汗が滴り落ちていた。



「うむ、おっぱいを揉ませてくれ」



 こうまで急いで駆け付けてくれた忠臣にこんな事を言っても良いのだろうか。

 相変わらずの美青年っぷりを感じると共にそう感じたが、上杉輝虎との会談は今正に刻々と迫っている。躊躇いは一瞬、ここへ呼び寄せた目的を単刀直入に告げた。



「御意! ……って、えっ!? い、今、何と?」

「頼む! おっぱいを揉ませてくれ!」

「えっ!? ……えっ!? えっ!? えっ!? えぇぇ~~~……。」



 高坂昌信は即座に俺の願いを一旦は了承するが、伏せていた顔を跳ね上げて、目をパチパチと瞬き。

 二度目の頭を下げての懇願をすると、右、左、後ろの順番に顔を振り向けた後、信じられないと言わんばかりの引きつらせた顔を正面へ戻した。

 大至急に来いと言われて、どんな緊急事態が発生したかと全速力で駆け付けてみれば、おっぱいを揉ませろと言われる。誰だって、怒りを覚えるのは当然だ。


 しかし、もう俺にはこの手段に頼るしか無かった。

 有史以来、男を奮い立たせるのは女であり、男は女の前で格好を付けたがり、女の為なら命懸けにもなれる。

 つまり、おっぱいの柔らかさを堪能して、凝りに凝り固まった緊張も柔らかく解きほぐそうという作戦である。



「椿、この通りだ! おっぱいを揉ませてくれ!」

「え、ええっと……。こ、ここで?」

「ここで!」

「い、今?」

「今!」

「な、何故?」



 高坂昌信の目の前に正座。両拳を大地に突きながら頭を垂れる。

 その呼び名を主君と家臣の関係ではなく、男と女の関係で用いたせいか。高坂昌信を改め、椿は一瞬だけ受け入れてくれそうな気配を見せるも、辺りをキョロキョロと見渡してごね始める。


 陣幕を四方に張ってあるとは言え、薄布一枚。天井は無い。

 視界は遮られていても聞き耳を立てたら丸聞こえであり、陣幕の外には万を超える兵士が居るのだから嫌がるのは当然だ。



「頼む! 揉ませてくれ!」



 だが、武田家の未来は今や椿のおっぱいにかかっている。謝罪も、事情の説明も後にして、今はおっぱいを是が非でも揉ませて貰う。

 その断固たる意思を以て、椿が到着する前に何度も入念に行った脳内シミュレーション通り、より頭を垂れての土下座を行うと見せかけて、下から椿へと大地を舐めるように素早く跳び抱き付く。



「キャっ!?」



 当然、椿は驚いて悲鳴をあげるが、ここで怯んではいけない。

 その隙きを突き、身を捩りながら胸を隠そうと交差させている両手の手首を取って強引に開かせると、そのまま全力でのしかかって押し倒す。


 あとはこちらの思うがまま。

 椿のたわわに実ったおっぱいに顔を埋めて、その柔らかさを存分に堪能するだけ。



「か、硬い……。」



 しかし、俺は大事な事を忘れていた。

 今、武田軍は万が一に備えて、上杉輝虎との会談が無事に終わるまで全将兵が臨戦態勢中。



 勿論、それは高坂昌信である椿も同じ。

 完全武装の甲冑姿であり、その刃を弾く為に作られた胸当てはとても、とてもに硬かった。

 その程度、椿を目の前にして一目瞭然だったにも関わらず、椿の胸を揉む事ばかりに集中して気づかなかった自分の度し難いバカさ加減に頬擦りをピタリと止めて絶望する。



「わ、解りました。わ、解りましたから落ち着いて下さい。

 そ、それと鎧を脱ぐのを手伝って下さい。そ、それくらいは良いですよね?」



 そんな俺に同情したのか、椿が俺の背中を優しく叩いて諭すが、その優しさが今は辛くて、目に潤んでいた涙が堪えきれずにホロリと零れ落ちた。




 ******




「え、ええっと……。さ、サラシも解いた方が良いですよね?」



 俺と椿の二人の関係は公然の秘密だが、一応は世を忍ばなければならない。

 諏訪の屋敷を除き、逢瀬を重ねる時は人目が無い場所を選び、いつもこそこそとこっそりが基本である。


 だが、今はお天道様の下、周囲を遮るのは陣幕の薄い布が一枚。

 高坂昌信である椿が急遽呼ばれたのが他の家臣達に伝わり、何人かが何事かと訪れていたが、陣幕の出入口前に陣取る勝頼が通せんぼ。

 全員が全員、一様に『さすがは大殿! 大事な会談前に凄ぇ!』と立ち去っており、ここで何が行われているかは既にばればれの状態。


 それだけに恥ずかしいのだろう。

 先ほどから椿は俯きっぱなし。脛当てを除いた甲冑を脱いだ今、その下の着物もはだけて、露わとなった上半身の肌を桜色に染めていた。



「モチのロン!」



 その色っぽさに辛抱がもう堪らなかった。

 緊張を興奮で上書きする作戦は成功だ。椿のたわわに実った胸を潰しているサラシが一重、また一重と解かれてゆく度、俺の鼻息はフンフンと荒くなってゆく。



「あ、あの……。お、お待たせ致しました」

「椿!」

「キャっ!?」



 そして、待ちに待ったその時が遂に来た。

 サラシを解き終えた椿が胸を両手で隠しながら上目遣いを恥ずかしそうに向ける。

 その瞬間、俺の胸がズッキューンと高鳴った。気づいた時にはもう椿を押し倒していた。



「ちょっ!? そ、そんな乱暴に……。んくっ……。ぁっ!?

 い、痛っ!? い、痛いです。も、もっと優しく……。ぃんっ!? や、優しく、お願いします……。」



 ところが、ところがである。

 幾ら揉もうが、幾ら吸おうが、幾ら摘もうが、俺の暴れん坊は先ほどから小さく小さく縮こまったまま。

 真冬の猛吹雪が吹き荒ぶ極寒の只中に居るかのような情けなさであり、常日頃の言う事をちっとも聞こうとしない我が儘ぶりは何処へやら。



「うおおおおおおおおおおっ!?」



 だったら、この荒い鼻息と高鳴る胸の鼓動は何なのか。

 今、俺は間違いなく興奮している筈だと猛烈な頬擦りを行うが、俺の暴れん坊は完全に沈黙。うんともすんとも言わない



「お、大殿! やっ……。だ、駄目です! だ、駄目!

 も、もっと優しく……。も、もっと優しく……。い、痛っ!? ぁぅんっ……。」



 最早、認めるしか無かった。

 この荒い鼻息も、この高鳴る胸の鼓動も、スケベ心によるものに非ず、その全てが緊張によるものだと。


 それを自覚した途端、冷や汗が全身に噴き出してきた。

 緊張を解きほぐす最後の手段すらも潰えてしまい、どうしたら良いのかが解らなかった。


 俺は小学校、中学校、高校、大学を通して、リーダ的な役割を担った経験が一度も無い。

 いや、積極的に避けていた。小さなリーダー的な役割なら何度か推薦があったが、柄じゃないと言い訳して逃げていた。


 そんな俺が武田家の未来と甲斐信濃に住む全ての者達の未来を賭けて、上杉輝虎と会談を行う。

 自分の言葉一つが百人どころか、千人すらも悠に超えて、数十万人に大きな影響を与えると考えたら、今更ながら恐ろしくて、恐ろしくて堪らなかった。


 今までは良かった。問題は無かった。

 所詮、俺は影武者。言い方は悪いが、信繁さんと勘助さんの操り人形に徹して、存在する事自体に意味があった。

 武田家がより豊かに、より有利にする為、未来の知識を色々と提案する事は有っても、その是非を選択をするのは信繁さんと勘助さんの二人。俺は傍観者に過ぎなかった。


 しかし、今日は違う。

 上杉輝虎との会談を提案したのは俺自身であり、それを反対する信繁さんと勘助さんを説き伏せたのも俺自身だ。


 これから行う会談の場に信繁さんと勘助さんは居ない。二人のサポートは受けられない。

 要らぬ警戒心を与えない為と外野からの余計な茶々を防ぐ為、会談の場は俺と上杉輝虎の二人とその付添人が一人づつ、立会人を務める藤孝殿の五人と決めたのも俺自身だ。


 緊張が不安を呼び、不安は弱気を呼び、弱気は絶望を呼び、最後に絶望だけが残った。

 頭の中は失敗前提のネガティブ思考に支配されて、ただただ『どうしよう? どうしよう?』の文字で埋め尽くされてゆく。



「どうしよう? どうしよう?

 椿、どうしよう? 俺、どうしら良い?」

「お、大殿?」

「ぁっ……。ぅっ……。ぃっ……。」



 その結果、被っていた影武者の仮面が剥がれ落ちた。

 椿の胸から上げた顔に素の自分を曝け出してしまい、それにすぐ気づくも時既に遅し。


 椿は大きく見開いた目をパチパチと瞬き。

 文字通りの目の前でまじまじと見つめられて、一刻も早く誤魔化す必要が有ると解っていながらも頭は大混乱。言葉が上手く出てこない。



「嬉しゅう御座います!」

「えっ!?」



 だが、何故かは解らない。奇跡が起こった。

 椿は息をハッと飲み込むと共に戸惑いを満ち溢れさせていた表情を一変。嬉しくて、嬉しくて仕方がないと言った様子で表情を輝かせながら俺に抱きついた。



「でも、それならそうと仰って下されば……。ぇぃっ!」

「ふぁっ!?」



 そればかりか、俺の耳元でクスクスと嬉しそうな笑みを零したかと思ったら、その右手を袴の中へと腰の隙間から差し入れてきた。

 今さっきまで俺の要望を受け入れてくれてはいたが、どちらかと言ったら嫌がっていたのが、このサービス満点の豹変ぶり。今度は俺が目をギョギョッと見開いて戸惑う番だった。



「お任せを……。私が大殿の気を必ずや鎮めてみせます。

 だから、大殿は私だけを見て、私を愉しんで下さい。……ねっ!?」

「う、うむ……。た、頼む……。」



 ただ、『災い転じて、福となす』とだけは解った。

 影武者とバレる絶体絶命の窮地を脱した安堵感は、上杉輝虎との会談を前にした緊張をあっさりと吹き飛ばしてしまい、俺の暴れん坊は椿の優しさに包まれて元気を急速に取り戻しつつあった。




 ******




「何故、人は争うのか……。何故、人は争わねばならないのか……。

 ひとよひとよにひとみごろ……。富士山麓にオウム鳴く……。水兵、リーベ、僕の船……。」 



 袴の帯を結びながら青い大空を見上げて思う。

 紆余曲折は有ったが、俺の考えはやはり間違っていなかった。今、俺の心は大空のように青く、青く、何処までも澄み渡っていた。



「父上、もう時間です! 早くして下さい!」

「解った! 今、行く!」



 陣幕の外から勝頼が三度目になる催促を轟かすが、俺の心は動じない。

 正しく、動かさざる事、山の如し。風林火山の極意をたった一文字とはいえ、手にした今の俺は無敵だ。



「……と言う訳だ。済まんな」

「いえ、ご武運を! ……けほっ! かほっ!」



 心残りが有るとしたら、一つ。

 身支度をまだ整えておらず、俺のせいで先ほどから激しく何度も咽て、うがいを水筒の水で念入りに行っている椿をこの場に残さなければならない事か。

 絶望しきっていた俺を奮い立たせてくれた椿にこそ、勝利を掴み取るところをすぐ傍で見ていて欲しかったが、付添人でない以上は連れて行けないのだから仕方が無い。



「おう、吉報を待て! その時はお前が勲功第一だ!」



 陣幕出入口の幕を叩いて跳ね除けると背中から風を感じた。もう何も怖くは無かった。




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