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第2話 天使

 天使がおる。

 パカッと大きく開いた口から声にならなかったこと、眞紀ますみは自分の身体をコントロールした自我を褒めたくなった。強く二、三度目をこすりながら脳内で自身にツッコミを入れる。

(天使とか何あほなことぬかしとんねん)

 普段の眞紀なら、そんなメルヘンなことを考えたりなんてしない。どうにもここ最近の眞紀は、センチメンタルをこじらせていたので、そんな考えが脳天を貫いたのだろう。


 眞紀の眼前-言っても三十メートル程だが―にいるのは一人の人間だった。着用している体操服は眞紀と同じ学年を示している。

 敷地の一番端に当たる第二体育館の裏手を目指していた足取りは、木立こだちで覆われすっかりと鳴りを潜めていた太陽の光で視界が急に開けたことで、ぴたりと止まった。目がちかちかとするほどに明るい太陽に、少し下を向いていた頭がゆっくりと引っ張られる。

 そこにいたのだ。第二体育館のちょうど真裏の出入口の少しの段差に腰を掛けている青年が。


 天使と一瞬見紛う《みまが》程に整っている容姿をしている彼は、水が半分ほど入ったペットボトルを手にぼんやりと空を眺めていた。

 視線を惹きつけて反らすことを許さない程の容姿に唖然としながら、眞紀は光と影の淡いに立ちすくんでいた。

 それが一瞬だったのか、永遠だったのかなんて些末な問題だった。眞紀にとっては異様な程に長く感じるその瞬間は、想像しているよりも早い決着を迎えた。

 彼は眞紀からの射抜かんばかりの強さを込めた視線に気づいたのか、細く長い首を動かしゆっくりとこちらにその顔を向ける。お互いの視線が絡まると、小さな頭をこれまたゆっくりと傾けた。


 伸ばしているのか、少しだけ癖のあるこげ茶の髪が白い首筋を覆っている。切れ長の目元に、しっかりと通った鼻筋をしているのに形のいい鼻、下唇が少しだけ厚いがそれでも薄い唇。見る者に涼し気な印象を与える顔立ちは、イケメンだとかハンサムでは収まらないつくりをしている。

 そう、視線が絡まったのだ。つまり目があった。


 いつの間に止めていたのか、ハッと音がするほど大量に空気を吸い込んだせいで、肺で呼吸がつまった。途端に空咳が止まらなくなってしまう。呼吸に喘ぎながら、大音量でバクバクと鼓動を響かせている心臓を落ち着かせようとする。

 止まらない咳のせいなのか、見たこともない同性の魅力に抗えなかった心臓の驚きのせいか、眞紀は顔に身体中の血が集まっていく感触をまざまざと味わう事となった。


 両膝に手をついて前のめりになり、何とか呼吸を落ち着かせようとする。眞紀の視界には、土から顔を覗かせている新芽と少し泥に汚れたシューズが見えている。ようやく咳が落ち着きはじめた頃、そこにニュッと綺麗に靴紐が結ばれた眞紀より少し小さなシューズが顔をのぞかせた。

 ギョッと目を見開き、ガバリと赤みが残っている顔を勢いよく上げると、整った容姿の彼が目の前に立っていた。近くで見ると、肌のきめの細かさまで見えてしまい、より整っていることを知る。

 切れ長でてっきり一重ひとえなのかと思っていたが、近くで見ると二重ふたえのようだ。じっとこちらをただ見つめてくるその目を見つめ返しながら、どうでもいい感想が頭をよぎる。

 感情の籠っていないその瞳を見つめていると、どんどんと先に反らしてたまるかとどこからか反骨精神はんこつせいしんがムクムクと湧き上がってきた。

 天使とのにらめっこで勝ったら、ええことあるかな?

 見つめあいながら、莫迦ばからしい考えをひとりごちる。心の声なので、誰からもツッコミは入らない。


 そろそろ眼球が乾きだした、そんな頃合いだったか。身じろぎ一つすることなく、ただ眞紀の前に立ち尽くしていた彼が、おもむろに右手を差し出してきた。その手には、水が半分入ったペットボトルがあった。

「え。……あ、貰ってええの?」

 彼の意図が掴めず、間の抜けた声で尋ねてみる。こくりと頷きを一つ返しただけで、言葉の一つも発することは無い。

 お前は、カオナシか。

 とは思えど、初対面の人間にそうツッコむわけにもいかないので、「ほな、遠慮なく」と気まずげに零すとペットボトルを受け取り、勢いよく中の水をあおった。

 一口だけ貰うつもりだったのだが、相当に喉が渇いていたようで。眞紀が大きく二回喉を鳴らすと、あっという間にペットボトルは空っぽになってしまった。ペットボトルから口を離した時、思わずプハアッと声が漏れる。またたに空気へ染み込み溶け落ちていった声は、眞紀の喉がとても渇いていたと知らしめているようだった。


 眞紀の思考は飲み干したペットボトルに目をやって初めて、社交辞令のつもりで差し出されただけだったかもしれないという考えに至った。その優しさを真に受け、すっからかんに飲み干してしまった眞紀は焦り、慌てて彼に謝った。

「すんません。……あー、後で買いなおすんで。ほんまにすんません」

 苦い微笑ほほえみを浮かべながら、意味も無く後頭部をポリポリと掻く。さっきまではほどいてなるものかと、見つめ続けていた瞳と視線を合わせるのが途端に恥ずかしくなる。

 彼からの返事は一向に無く、返事が返ってくることをどこかで期待していた好奇心はたちまち枯れていく。気まずさが場を支配するようになり、後頭部を掻いていた左手を下ろす。


 時間を置いたことで、いくらかの冷静さを取り戻した眞紀は、眼前に立っている彼に目線を合わせる。眞紀よりも十センチほど高い身長に比べて、横幅は随分と薄い。一見すると痩せぎすの様だが、じっくりと見ていれば筋肉がしっかりとついているようだった。

 一目見た瞬間は天使と見紛みまがおうかという程だったが、正面にただ立つ彼は、そんな儚げな雰囲気を微塵も持ち合わせてはいない。むしろ、キラキラしいまでにオーラを放っており、王子様とでも呼ばうかという程の輝きだった。


「いいよ、別に」

 鮮やかな赤色をした薄い唇がおもむろに上下に別れたかと思うと、身長の割には高い澄んだテノールの声が空気を震わせた。耳馴染みがよく、かすみのように体中をまとい、そしてほどけていく。

 もはや喋らないのだろうかなどと考えていた眞紀は、男にしては綺麗な声に衝撃を受け思わず固まった。彼は、そんな眞紀を歯牙しがにもかけず、鮮やかな身のこなしで踵を返すと長い脚で闊歩し、先ほどまで腰かけていたところへと戻っていった。


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