珈涼の大学の卒業式の前日、彼女は兄の真也と母の喫茶店で会った。
真也も明日、大事な日を迎えることになっていた。珈涼は彼に会ってそのことを口にしていいか迷ったが、真也は彼から先に切り出した。
「俺はさ、月岡に初めて会ったときから、あいつに負け続けるだろうなって思ってたんだ」
明日、月岡は龍守組の若頭として、珈涼の父から正式に襲名を受けることになっている。
それは真也が、組長の息子でありながら若頭の地位を追われるというもので、彼の母親の姐は今も認めていない。
「でもこの世界は力のある人間が上に立たないと、下で働く奴らが傷つく。俺、そういうのは嫌なんだよ」
真也は粗野に見せて優しい気性だった。父はそれを知っていて、若頭には向かないと判断したらしかった。
珈涼は彼のコーヒーを足そうとして、真也に制される。彼はそれほど胃が強くなく、何杯もコーヒーが飲めない。
真也はその一杯のコーヒーを名残惜しそうに飲みながら言う。
「月岡がお前までさらっていくのは、正直まだ認めたつもりはないんだけどな」
「兄さんとは、離れてもずっと兄妹であることに変わりはないのよ」
「そりゃそうさ。当たり前のこと言うんじゃねぇよ」
珈涼がためらいなく彼を兄さんと呼べるようになって、真也はもっと珈涼に優しくなった。
「卒業して一週間後には結婚だろ。大丈夫か? 月岡の強引さに呑まれてないか?」
真也も四月から一人暮らしで新生活を始めるというのに、彼は珈涼の心配ばかりしていた。
珈涼はそんな兄に微笑んでうなずく。
「うん……大丈夫。月岡さんと話し合って決めたから」
真也は珈涼の言葉を聞いて少し黙ると、眉を寄せて言った。
「……俺はさ」
珈涼が首を傾げると、真也は独り言のようにつぶやく。
「お前と初めて会ったときから、どうせ俺なんてすぐ要らなくなるって思ってたよ」
「兄さん……」
「でも」
真也は苦笑して言葉を続ける。
「そこまでお前の兄貴は弱くねぇ。これからも邪魔してやるよ」
珈涼は照れ隠しのように目を逸らした真也に、くすっと笑い返した。
「うん。ありがとう、兄さん」
まもなく昼の時間で、漂うコーヒーの香りが穏やかな兄妹を包んでいた。
午後から、珈涼は白鳥組の事務所へ向かった。
大学に入ってまもない頃から、珈涼はここでバイトをしている。掃除をしたりデータ入力をしたり、仕事内容は普通で荒いものではない。
不破が若頭補佐を務めるこの組は、本業が金貸し業のためにやくざな面もある。けれど月岡が珈涼のバイトを認めるくらいには、温厚な組員たちで守られていた。
「……また虎林組の連中か」
「うちの坊ちゃんは争い事を嫌われるからなぁ……」
ただ荒っぽい客に給仕したり、危うい会話の一部を聞くことはあって、今でも時々びくりとすることはある。
組員たちの会話の中に虎林組が出てくるのは、もう何回目になっただろう。珈涼はその中心に今も立っている瑠璃のことが心配だった。
「噂は本当かもな。虎林組の中身はもうガタガタだって」
物陰で立ちすくんだ珈涼の横から、ふいに歩み出した影があった。
珈涼と同じく白鳥組でバイトしている豆子は、モップをトンと立てて組員たちに言葉を放つ。
「さぼらなーい! うちの組は商売で立ってるんだから、ぐずぐず言わずに稼ぐ!」
豆子に叱られた組員たちは、肩を丸めて恐る恐る返す。
「ね、姉さん」
「わかってますよ、働きますって。モップ向けるのやめてください」
豆子は正確には若頭補佐の恋人だが、今や組員たちに「姉さん」と呼ばれて慕われていた。
豆子はおおらかに笑って、いい?と首を傾げる。
「うちは立派な若頭がいらっしゃるし、不破も全力であんたたちを守る。安心して今日も行ってらっしゃい」
組員たちはほっとした様子で笑い返すと、外回りに出て行った。
珈涼は、こういうところが豆子にまったく敵わないと思う。珈涼は、人を安心させる光をまとう豆子のことを尊敬していた。
豆子は珈涼に向き直ると、珈涼の顔をのぞきこんで言う。
「組の話は不破がどうにかする。それよりあたしたち、明日は卒業式だよ」
豆子は猛勉強して珈涼と一緒の大学に入って、四年間机を並べてきた。
珈涼はうなずいて豆子にたずねる。
「うん。写真、一緒に撮ってくれる?」
「もっちろん!」
すっかり親友同士になった二人で迎えられる明日を、珈涼も楽しみにしている。
豆子はふいに辺りを見回して、声をひそめて言う。
「ね、まだ誰にも言ってないこと、聞いてくれる?」
「なぁに?」
珈涼が豆子に近づいて問いかけると、豆子ははにかむような声で言った。
「……あたし、赤ちゃんができた」
珈涼は跳ねるように顔を上げて、みるみるうちに笑顔になった。
夕方、不破が組の事務所に戻って来て、豆子は満面の笑顔で彼に言った。
「聞いて! 今日病院行ってきたんだけど、三か月だって!」
不破は一瞬だけその言葉の意味を考えた様子だったが、豆子の表情ですぐに思い当たったようだった。
不破は興奮した様子で豆子の肩をつかんで言う。
「本当か!?」
どうやら二人は前々からそういう話をしていたようで、待ちに待ったという顔ではしゃぎ合う。
「すごいなお前! やるって決めたら本当にやっちまった!」
「そうそう! もっと褒めて!」
豆子は得意げに胸を張って、上機嫌に言う。
「食べたいものいっぱいある。赤ちゃんのためなんだからいいよね」
「おう、何でも食え。どれから……」
不破はうなずいて、ふいに言葉をやめた。豆子は不思議そうに不破に問い返す。
「どうしたの?」
「俺、こんなに幸せでいいのかって、ちょっと考えちまった」
不破は豆子の背中を抱いて、泣き笑いのような顔で言う。
「……ずっと俺と一緒にいてくれよな、豆子」
豆子は彼女らしくもなくちょっと動揺した様子で、慌てて言い返す。
「な、何よぅ! そういうことは夜景の見えるレストランとかで言うんだよ。気が利かないなぁ、健吾は!」
「お、おう」
不破はぽりぽりと頭をかいて、苦笑しながら豆子を見下ろした。
「わかった、わかった。夜景の見えるレストランな? 用意ができたら言うから、今日はまず祝おうぜ」
「しょうがないなぁ……」
二人はそう約束すると、仲良く連れ立って出かけて行った。
珈涼はずっとほほえましそうな顔をしていたが、二人の姿が見えなくなった途端、ふとうつむいた。
珈涼を迎えに来ていた月岡は、珈涼の気がかりそうな顔を見て眉を寄せる。
「私たちも帰りましょう」
ビルを降りて、月岡は珈涼の手を取って先に助手席に乗せる。月岡自身は運転席に乗り込んで、車を走らせた。
二人で夕食の準備をしながら、月岡は問いかける。
「……珈涼さんも子どもが欲しいですか?」
珈涼はうつむいて、月岡を見返せないまま悩んでいるそのことを思った。
珈涼が言いよどむさまで、月岡は彼女の答えを察したようだった。
月岡は苦笑を浮かべて言う。
「珈涼さんがためらうのも当然です。人生を左右するかもしれない選択ですから」
月岡は優しく珈涼を見返してさとす。
「大丈夫。私がちゃんと避妊していますから」
それを聞いて、珈涼の表情はますます陰った。
月岡はその反応に少し違和感を抱きながらも、食卓に食事を運ぶ。
それぞれの席についた後、二人で食事を始める。
けれど珈涼はいつも以上に月岡に返す言葉が少なかった。それに気づいて、食事が終わった後に月岡から切り出す。
「どうされたんですかとおたずねする前に、私の気持ちを話しましょう」
月岡は珈涼が顔を上げたのに安堵して、話を始めた。
「私はまだ、少し早いと思っています。珈涼さんは初めてのときの翌日、病院に駆けこまれたでしょう?」
こくんとうなずいた珈涼に、月岡は目を伏せて言う。
「ひどく怖がっていらっしゃった。珈涼さんはまだ十八で、新しい家に連れてこられたばかりでした。それなのに、私の身勝手で振り回してしまった」
「私は……」
珈涼の声はふいににじんだ。月岡は珈涼の言葉を促すように首を傾ける。
沈黙の後、珈涼は喉をつまらせて言った。
「子どもができたら、月岡さんに迷惑をかけてしまうと思って……怖くて仕方なかったんです」
珈涼の目から涙がこぼれた。月岡はそれに口の端を下げて、珈涼さん、とつぶやく。
珈涼は涙を落としながら心を打ち明ける。
「今も月岡さんが避妊していて、安心してるんです。もしできたとき……子どもは欲しくなかったと言われてしまわないかと、怖くて」
「……そんなことを考えていらっしゃったんですか」
月岡は顔色を変えて席を立つと、珈涼の隣に座った。
月岡は珈涼の肩を抱いて、目線を合わせながら言う。
「あなたとの子どもを疎むなどということは、今もこの先も、決してありません。どんな子でも待っていますし、愛しています」
珈涼の背をさすって、月岡はしばらく考え込んでいたようだった。
やがて月岡も打ち明けるように言う。
「怖い……そうですね。私も怖がる気持ちはあるんですよ」
「月岡さんが?」
「珈涼さんが私のことを嫌いになったら。珈涼さんが傷ついたら。そんなことあってはほしくないと思っても、もしかして……私の前からいなくなってしまったら」
月岡は首を横に振って言う。
「怖いです。そうなるくらいなら、今のままでいてほしい」
「……月岡さんはそれでいいのですか?」
ようやく顔を上げた珈涼に、月岡はうなずく。
「珈涼さんを一人で悩ませてしまっている間は、まだそのときではないのです。私は珈涼さんと生きていきたくて結婚を申し込みました。こうして暮らしている時間だって好きですよ」
珈涼は涙を拭って、月岡を見上げながら問い掛ける。
「はい……私もです」
「なんだか今日が結婚式みたいですね」
月岡は笑って珈涼の頭を胸に抱く。
「私と珈涼さんの気持ちが通ったのだから、今日式を挙げてしまいましょうか?」
「だ、だめです……」
珈涼は少しうろたえながら言った。
「待ってください。あと少しだけ」
「いいですよ」
月岡は珈涼の額にキスを落として返す。
「あと少しだけ、ですからね?」
じきに迫った結婚式を意識して、珈涼は顔を赤くしていた。