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28 罠

 撮りますよと月岡の部下に言われて、珈涼は豆子と身を寄せ合った。

 成人式で二人が着ていた振袖を、今日も身に着けている。それは月岡と不破がそれぞれの恋人のために用意してくれた、大事な衣装だった。

 豆子はカメラを覗き込んで大きくうなずく。

「うん! いいよ。珈涼ちゃんもどう?」

 珈涼もまた、卒業証書を持って豆子と写真に収まった自分を、満ち足りた気持ちで受け止めた。

 高校時代までは、愛人の子どもと言われてあまり友達もできなかった。母の喫茶店を継ぐのだからと、それ以外の未来も思い描けなかった。

 珈涼は豆子を見返して、ちょっと泣きそうな顔でうなずく。

「……夢みたいです」

 友達と振袖を着て大学の卒業式を迎えるなんて、想像もしていなかった。

 豆子は笑って珈涼の肩を叩く。

「今日が終わりじゃないよ。これからよろしく。大変なこともあるだろうけど、助け合っていこーね」

「はい……」

 二人はせっかくだから最後に大学の中を回っていこうという話になった。

 通い詰めたゼミ室、サンドイッチがおいしかった喫茶、季節の彩りが豊かだった並木道を、順々に巡っていく。

 最後に講堂に戻る途中、珈涼は裏門を見て少し足を止めた。

 そこは何度となく、月岡が珈涼を車で送ってくれた場所だった。月岡はめったに珈涼を電車に乗せずに、ここまで自身の車で送ってくれた。

 気をつけていってらっしゃい。悪い遊びをしてはいけませんよ。月岡はそう念を押して、降り際の珈涼の頭に口づけた。

「珈涼ちゃん?」

 そのときの甘い声音を思い出して赤くなった珈涼に、豆子が声をかける。

 珈涼は慌てて豆子に振り向こうとして、誰かが裏門で車から降りたのに気づいた。

 そのひとは黒いスーツをまとい、しなやかな体躯の長身で、目を引く緊張感をまとっていた。手に白い薔薇の花束を携えていて、つと珈涼を見た。

 そのまなざしは、月岡を思わせた。実際、姿形もとてもよく似ていた。違うところをみつけるのが難しいくらいに、月岡を写し取ったようないでたちをしていた。

「……瑠璃さん」

 瑠璃は男性ほどに背も伸びて、華やかさに磨きがかかったようだった。彼女は微笑んで珈涼に歩み寄ると、白い薔薇の花束を差し出して言う。

「ご卒業おめでとうございます。どうぞ、これを」

「失礼。お話なら私がうかがいます」

 月岡の部下が近づいてきて、警戒するように珈涼の前に進み出る。

 瑠璃は部下にふっと笑うと、優しく珈涼に告げる。

「お祝いの日に争うのはよしましょう。今日はディナーのお誘いに参りました。……月岡さんもご一緒に、ぜひ」

 珈涼は息を呑んで、瑠璃の言葉を聞いていた。




 珈涼は龍守組の本家に来ると、襲名の控室で月岡と落ち合った。

 月岡は黒い紋付袴姿で、普段のスーツ姿とはまた違う艶やかさをまとっていた。けれど袖を上げるさまも歩く様子も慣れていて、珈涼はまだ知らない彼の姿にひとときみとれた。

 月岡は部屋に入ってきた珈涼を見て微笑む。

「和装の珈涼さんは格別のあでやかさですね。いつ見てもいい」

 月岡は屈みこんで、いたずらっぽく珈涼に言う。

「結婚後は着物が変わりますけど、いろいろご用意していますよ。楽しみにしていてくださいね。……早速今夜から試着してみますか?」

 間近でささやかれると、なんだか二人で過ごしているような気分だった。

 けれどそのまま二人で甘い時間を過ごしたくても、ここは本家で、まだ月岡は儀式の途中だと自分に言い聞かせる。

 珈涼は一緒に入ってきた月岡の部下を振り向いて、彼が持っている花束を目に留めながら言う。

「月岡さんの儀式のお邪魔をするつもりはないのです。でも……報告したいことがあって」

「瑠璃のことですか」

 月岡に話が伝わっていることに気づいて、珈涼はまばたきをする。

 月岡は別の部下の方を振り向いて、珈涼に目配せをする。

「私の方にも、雅弥から祝電が来ました。「虎林組は龍守組の新しい若頭の襲名を祝う。後日ディナーの席を用意したので、妻となる方と一緒にどうぞ」と」

 月岡は眼光鋭く前を見据えると、吐き捨てるように言う。

「珈涼さんを誘拐した身で何を言うか。恥を知れ」

「で、でも」

 珈涼は月岡を見上げて首を横に振る。

「虎林組の組長と若頭からのお誘いを無下にしては」

「珈涼さん。瑠璃に同情する必要はありません」

 月岡が瑠璃を名指しすることは珍しく、珈涼ははっと口をつぐむ。

「雅弥に操られているとしても、瑠璃ももう大人です。……雅弥と関係を続けている以上、雅弥と同じ船に乗っている立場です」

 月岡は珈涼に断定するように告げる。

「誘いは、罠です。断りの使いを出しておきます」

「でも、瑠璃さんは……」

 珈涼は哀しい目をして月岡を見上げた。

「月岡さんの妹さんです。妹が、お兄さんを祝ってはいけないですか?」

 珈涼は月岡を見返しながら続ける。

「月岡さんは、ご自分の側の親族を誰一人結婚式に呼ばれませんでした。それは月岡さんが決めることだとわかっています。けど、私がお兄さんに同じことをされたら……」

 珈涼は兄の真也を思いながら、言葉をつまらせる。

「……ごめんなさい、お祝いの日に。失礼します」

 珈涼は踵を返して、その場を去ろうとした。その袖をふいに月岡がつかむ。

 袖を引かれた先は、月岡の腕の中だった。月岡は困り顔で珈涼に言う。

「珈涼さんのわがままは珍しい。道理を崩す力がある」

 月岡はぽんぽんと珈涼の背を叩いて、一つ息をついた。

「警護は厳重にいたしましょう。もちろん、珈涼さんを怯えさせるようなことがあればすぐに退出する」

「では……」

 珈涼の表情が晴れていく。それを見て、月岡は珈涼にささやいた。

「わがまま一つですから、ごほうびも一つくれますね?」

 珈涼は月岡の背に腕を回して顔を赤くすると、こくりとうなずいた。




 月岡と珈涼の結婚式が二日後に迫った日、二人は海を臨むホテルでディナーに招かれた。

 場所の選定には、月岡は虎林に注文をつけていた。虎林の配下が経営する店でないこと、こちらの部下も控えていること、外部から攻撃を受けない立地であることだった。

 珈涼にはなじみのない条件ばかりだったが、虎林は快くそれらを呑んだ。虎林が選んだホテルは、雅弥の父の代からの重鎮で、月岡の結婚にも一役買った猫元氏の所有するところで、料理も猫元が責任を持つと言ってくれた。

 ここでトラブルが起これば猫元のメンツをつぶすことになる。それを見て、月岡ももてなしを受けることを承諾した。

 潮騒の音だけが届く静かな夜だった。珈涼は月岡に手を取られて、貸し切りにされたホテルのラウンジに足を踏み入れた。

 雅弥と瑠璃は既に席について二人を待っていた。白いスーツと黒いスーツ姿、対照的な服装だったが、それは対のように釣り合って見えた。

 瑠璃は身長こそ雅弥には及ばないものの、一礼してみせる仕草一つでも洗練されていた。自分のように月岡に守られていない彼女に、珈涼はうらやましいとも思った。

 二人は月岡と珈涼の姿をみとめると席を立って、雅弥などは月岡に歩み寄って肩を叩いた。

「よく来てくれた。父の代からの対立など私たちの時代には不要だろう?」

 雅弥は月岡の手を取って笑いかける。

「君と瑠璃が兄妹であるように、私とも兄弟になろう。君の組にとっても利益になるはずだ」

 月岡はそれに答えず、珈涼をそっと席に導くと、自ら椅子を引いて席についた。

 双方の部下も控える中、雅弥の合図でディナーは始まった。

 宝石のような海の幸のカルパッチョに、とろけるようなクリームポタージュ、サラダには珈涼の好きな果物がたっぷりとあしらわれていて、珈涼が終始好むようにコースが組まれていた。

「新婚旅行はどちらに行かれるのかな?」

「今は少し慌ただしいのでね。落ち着いてから」

 雅弥が中心に話題を振り、月岡が言葉少なく応じる。話すのが苦手な珈涼は雅弥に話しかけられたらどうしようと緊張していたが、彼はそれも知っているのかむやみに珈涼に話を振ることはなかった。

 代わりに瑠璃が、皿にあしらわれた様々な果物を示して問いかける。

「珈涼さんはどの果物がお好きですか?」

 珈涼はまだ少し緊張しながら答える。

「どれも好きですが、アンズがおいしいですね」

 瑠璃はその答えに微笑んでうなずく。

「そうだと思いました。大事に召し上がっていらっしゃるから」

 珈涼は気恥ずかしい思いでうつむいたが、次第に瑠璃が相手ならと少しずつ緊張を解いていった。

 月岡の口調は雅弥に距離を取ったままだったものの、食事は和やかに進み、メインの肉料理が運ばれてくる次第になった。

 濃厚なトリュフが香るステーキがテーブルに並べられた途端、瑠璃が苦しそうな顔をして席を立った。

「……失礼」

 瑠璃は口元を押さえて急いで部屋を出て行く。突然のその様子に、珈涼は思わず雅弥に問いかけた。

「瑠璃さん、どうされたのですか?」

 雅弥はさほど慌てた様子はなく、悠々と構えたまま言う。

「瑠璃は最近食事の好みが変わってね。前はステーキも大好きだったのだけど、ここのところ肉全般が受け付けないみたいで」

 その言葉に、珈涼は同じ言葉を最近聞いたことを思いだした。

――なんだか食事の好みが変わっちゃってね。魚大好きだったんだけどなぁ。

 豆子はそれを、照れくさそうに珈涼に言っていた。

――……赤ちゃんができると、よくあるんだって。

 カタっと、月岡が持ったナイフの先が揺らいだ。

「責任はとるよ。私も男だからね」

 雅弥はそれを愉快そうに見やって、ワインを傾けた。




 まもなく瑠璃は戻って来て何事もなかったように食事を始めたが、珈涼は月岡が動揺しているのを感じていた。

 月岡と瑠璃は一緒に暮らしたことがなく、父も違っていて、二人で会うところさえ見たことがない。けれど雅弥と瑠璃が境界を越えた証を聞いて、月岡の中にある兄の心が揺らいだのだろうと思った。

「瑠璃、大丈夫?」

「うん、いつものことだよ」

 雅弥と瑠璃はまるで仲のいい兄妹そのもので微笑みあって話しているから、ますますその裏の事実を恐ろしいものにさせた。

 雅弥が一方的に瑠璃を抱いたと思うには、瑠璃の表情が明るい。瑠璃はずっと一緒に過ごした兄への親しさから、異母兄妹の禁忌を越えてしまったように感じた。

 月岡と珈涼が黙りこくったまま、食後のコーヒーが運ばれてくる頃になった。

 瑠璃は笑って、珈涼に一声かける。

「珈涼さんには特別に、紅茶にしました。時々は食後の紅茶もいいものですよ」

 珈涼はちらと月岡をうかがった。ここへ来る前に月岡に言われたことを思いだしたからだった。

――珈涼さんだけ違うものを給仕されたら、手をつけないようにしてくださいね。

 月岡はそっけなく雅弥を見やって言う。

「私にも同じものをもらえるか?」

「仲睦まじいね、君たちは」

 月岡はこれまでも、意図的に珈涼より先に食事を進めていた。体が弱く、アレルギーもある珈涼は狙われやすい。横目で必ず珈涼に危険がないかを見守っていた。

 雅弥はおおらかに笑って、給仕を振り返る。

「じきに奥方様になる方に特別なティー体験をしてもらいたかったんだがね。まあいいだろう。……みなに同じものを」

 少しの時間の後、四人の前に紅茶が並べられた。華やかな花の芳香の漂う紅茶で、珈涼は目を細めて香りを楽しむ。

 けれど珈涼は喫茶店で長く手伝いをしてきた身で、香りに違和感を抱いた。

 向かいの席から香る花と、こちら側の席の花の香りが違う。そういう奇妙な感覚に、珈涼は月岡を振り向く。

「月岡さ……」

 月岡だって、普段の慎重な彼なら気づくはずだった。

 けれど月岡は向かいの席でおいしそうに紅茶を飲む瑠璃を見て、自分も紅茶に口をつけていた。

 ふいに月岡は顔をしかめると、手を伸ばして珈涼のカップを叩き落とす。

「飲むな! これは……!」

 月岡の声は途中から濁って、激しい咳に変わる。

「……麻薬!」

 席から崩れ落ちる月岡に、珈涼と部下たちが駆け寄る。

 目を見張って硬直している瑠璃と、微笑を浮かべた雅弥がそれを見下ろしていた。

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