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29 病めるときも

 珈涼には何が起こったのかわからなかったほど、またたく間に事は起こった。

 いきり立つ月岡の部下たちは、飛び込んできた猫元の部下たちが制止した。

「この件の責任はすべて猫元が取る! 誠意の証に必ず若頭を回復させる。だから今は手当をさせてくれ!」

 信用できるものかと吐き捨てた月岡の部下もいたが、何としてもボスの無事が最優先だと主張する部下の方が強かった。結果、まもなく月岡は双方の部下たちに病院に運ばれて行った。

 珈涼はそれについて行きたかったが、月岡の部下たちは首を横に振った。

「お嬢さんの安全も最優先事項です。すぐ本家に連れて帰るよう、親父さんに言われています」

 彼らにとって珈涼はまだ「お嬢さん」だった。月岡は部下たちが珈涼を馴れ馴れしく呼ぶのを嫌う。月岡に守られていて、珈涼は暗い部分も汚い部分もまだほとんど知らなかった。

 車の中、珈涼は月岡の身が心配でたまらなくて震えていた。どうしたら、そう思えば思うほど、自分にできることがわからなかった。

 龍守組の本家で座敷に入ると、組長の父と、父に頭を下げる猫元の姿があった。

「面目ない! 信じてほしいとは今更言えませんが、断じて私の作為ではありません!」

 猫元は切羽詰まった調子で謝罪していて、父はそれを無言で聞いていた。

 猫元は父より一回りほど年上で、父も若い頃から世話になったと話していた。だからなのか、父はうなりながら口を開く。

「……個人的には、あなたに同情する。誰がやったかは見当がつきますから」

 父は独り言のようにつぶやいてから、眼光鋭く告げた。

「とはいえ、私も立場がある。あなたのメンツにかけて、月岡を無事に返すように」

 猫元は何度も頭を下げて、必ず助けると約束して去って行った。

 珈涼は一睡もできないまま朝を迎えて、早朝に屋敷の前に車が停まる音を聞いた。

 しばらく経って、父は珈涼の部屋を訪ねてきて言った。

「……峠は越えた。しばらく入院するが、大丈夫だ」

 父に肩を叩かれて、珈涼は涙があふれた。

 それからの日々は、一日が一季節のように長く感じた。今日こそ無事に戻って来てほしいと、珈涼は毎朝起きるたびに一番に願った。

 けれど三日が過ぎ、一週間が過ぎる頃になっても、月岡は病院から戻らなかった。

 心配で気持ちがあふれて、珈涼が一人で屋敷を抜け出したとき、裏門で停まった車があった。

「不破さん?」

 運転席から顔をのぞかせたのは、少し気弱そうな顔をした月岡の親友だった。

「危ねぇぞ、珈涼さん。月岡が心配なのはわかるけどよ」

 乗りなと言われて、珈涼は慌てて助手席に滑り込む。

「月岡さんの病院の場所、不破さんはご存じですか?」

「ああ」

 珈涼の言葉にうなずきながら、不破は眉を寄せた。

「あいつは今、珈涼さんに会いたくないと思う。……それでも会いたいか?」

 珈涼ははっと息を呑んだが、すぐにこくんとうなずき返した。




 車の中で、不破は月岡の病状を話してくれた。

 月岡が盛られたのは虎林組が一手に握っている麻薬で、治療方法はあるが、回復には時間がかかるということ。

 繰り返し服用すると致命的に心身を蝕むので、病院から出すことができないこと。

 不破は苦い口調で珈涼に言う。

「今は命に別状はないが、ずっと夢の中にいるような状態だ。会わせることはできるが、珈涼さんにはきついかもしれねぇぞ」

 麻薬、それは珈涼には別世界のように実感がない。

 生まれたときから極道の世界にいる月岡は知っているのだろうが、彼は珈涼の前ではそんな言葉すら使ったことがなかった。それを飲んだらどうなるのか、珈涼だって考えたくもなかった。

 けれど珈涼は一週間月岡と離れ離れで、どうしているか心配でたまらなかった。彼が苦しんでいるのなら、せめて側で看病してあげたかった。

 珈涼は息を吸って不破に答える。

「行きます。月岡さんに会わせてください」

 不破はうなずいたが、その横顔は暗く沈みきっていた。

 不破の言葉が正しかったと知ったのは、彼が繁華街の裏通りにある小さな病院に入ったときから感じていた。

 そこは設備は奇妙に新しいが、外界から閉ざされた牢獄のような堅い作りをしていて、一つ一つの病室に重々しい鍵がついていた。

 不破はその最奥の部屋で、部屋の前で構えていた月岡の部下に言う。

「面会を頼みたい。白鳥組の若頭補佐が責任を持ってお嬢さんを警護する」

 月岡の部下は珈涼の顔をみとめて少しためらったようだったが、やがて一人が看護師を呼びに行った。

 看護師によって開錠されたそこは、珈涼が思うような惨状ではなかった。

 掃除の行き届いた、壁も天井も真っ白の一室で、月岡は点滴につながれてベッドに横たわっていた。

「月岡さん……!」

 珈涼はすぐに月岡に駆け寄ったが、彼は無反応だった。目は開いていて呼吸もしているが、そこには生気がない。

 一週間しか経っていないのに、ずいぶん痩せている。まるで人形のようにベッドに沈んでいて、月光のように凛々しい彼を覆い隠していた。

 珈涼は月岡の傍らで立ちすくんで、触れていいのかさえためらった。そんな月岡に不破が歩み寄って言う。

「月岡、珈涼さんが来てくれたぞ」

 不破は青ざめた頬に、無理やり笑みを浮かべて問いかける。

「お前が人目にさらすのさえ嫌がった婚約者が、男に連れられてきたんだ。……なぁ、何とか言えよ」

 悲痛な不破の声にも、月岡は答えない。

 不破は自分の頭をくしゃくしゃとかきまぜて、どうしようもない焦燥感を露わにしていた。

 珈涼はベッドの横に座り込んで、月岡の手に頬を寄せる。けれどその体温は病人そのもので、珈涼に何の意思も伝えてこない。

 どれくらいそうしていたか、珈涼には実感がなかった。やがて不破が珈涼に言った。

「治療を続けていけばよくなる。焦っても仕方ない。珈涼さん」

 出ようと不破に言われて、珈涼は震えながら月岡の手を離そうとする。

「あ……」

 けれど長く座り込んでいて、体が強張っていた。珈涼はバランスを崩して、月岡の上に倒れ込む。

 珈涼は慌てて起き上がったが、どうしてか視界が反転した。

 不破が切羽詰まった声で叫ぶ。

「珈涼さん!」

 一瞬目が回った後、珈涼は床に倒れていて、誰かに組み敷かれていた。

 誰か……は不破を除けば、一人しかいない。

 珈涼は肌に食い込む、その動物的な力に悲鳴を上げる。

「……月岡さん、痛、い……!」

 月岡が労わりなどまるでない目で珈涼を見下ろして、彼女の上にのしかかっていた。




 すぐに不破が珈涼から月岡を引きはがそうとしてくれた。だが月岡は猛烈な力で珈涼を組み敷いていて、不破の抵抗を拒んだ。

「すぐに人を……!」

「……待ってください」

 不破は部屋の前で警護をしていた月岡の部下を呼ぼうとして、珈涼に制される。

 珈涼は仰向けに倒されたまま、月岡を見上げる。肌に食い込む指の痛みに悲鳴を飲みこみながら、月岡の真意を読み取ろうとした。

 見上げた月岡は無表情で、無言だった。それは珈涼に、ひとつの記憶を呼び覚ました。

 珈涼は月岡をみつめかえしながら、不破に言葉をかける。

「月岡さんと二人きりにしてください」

 不破はその言葉に慌てて言い返す。

「だめだ! 今の月岡は正気じゃない。何をされるか……」

「月岡さんには……何をされてもいいですから」

「珈涼さん!」

 珈涼はふいに強く不破を見て言った。

「私は月岡さんの妻になるんです。……病めるときだって、側にいます」

 不破は珈涼のいつにない気迫を見たのか、ごくりと息を呑んで黙った。

 不破が考える気配がして、少しの後に彼は言った。

「危ないと思ったら、壁でも床でもいいからおもいきり叩け。それで外に聞こえる」

 珈涼はうなずいて、不破は渋々部屋を出て行った。

 扉が閉ざされて、珈涼は震える声で月岡にたずねる。

「月岡さん……あの日の夢の中に、いるんですか? 私を抱いた初めての日に」

 月岡の渇望するような目は、珈涼にあの日を思い出させた。

 初めてマンションに連れてこられた日、月岡は何も言わず一方的に珈涼を抱いた。珈涼はただ怖くて怖くて、目を開くことさえできずにその行為を受けていた。

 今の珈涼は、あのときとは気持ちが違う。月岡と過ごした日々が、彼に触れているところから安息をくれる。

 珈涼はそっと月岡の頬を撫でて言う。

「その夢が心地いいなら、続きをしましょう? 私はもう震えているだけの子どもじゃありませんから」

 そのとき、無表情だった月岡の目に青い火のような情欲が映った気がした。

 次の瞬間、かみつくようなキスをされた。珈涼はそれを受け入れながらささやく。

「いいの。……ひどくして」

 そうして、冷たい床の上であの日の続きが始まった。




 それはあの日と同じで、月岡の一方的な行為で始まった。

 もう数えきれないほど月岡と珈涼は甘い夜を過ごしてきたが、初めてのあの日、二人の心は完全にすれ違っていた。月岡は自らの欲に目がくらみ、珈涼はただ怯えていた。

 けれど今の珈涼は、それを月岡の暴力にはしなかった。月岡の足に足をからめ、キスの合間に彼の名前を呼んで、彼と悦楽を共有した。

 床の上の行為は初めはひどく痛むものだったが、次第に体はほてって痛みはかき消された。

「ん……もっとひどくして、いいのに」

 珈涼がそう告げた頃には、月岡の行為はだいぶ優しいものに変わっていた。肌に食い込むほどだった指は珈涼の頬をそっと撫でて、渇望するような目は珈涼を酔うようにみつめていた。

 次第に二人とも余裕がなくなって、言葉より短い呼吸でお互いを確かめていた。

 珈涼は月岡を包み込むように受け入れながら言う。

「……あのときだって、好きだったけど」

 珈涼は涙のにじんだ目を閉じながらささやく。

「今はあのとき想像していなかったくらい、あきひろが好きなの……」

 少しの間、珈涼は意識を失っていた。

 頂点から降りてきて、珈涼も小さな夢の中に入ったとき、思い出したことがある。

 あの日の翌朝、目が覚めた珈涼は一人だった。けれど月岡は夜の間、彼女の体を抱いて何かささやいた。

 珈涼の背を撫でながら、髪に顔を埋めながら、月岡は苦しむように打ち明けた。

「俺を許さなくていい。どんなものより欲しいんだ」

 その声が、そのとき聞いたものだったのか、意識の外で月岡が告げたのか。珈涼と月岡の夢は間もなく混ざり合った。

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