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30 底にあった希望

 珈涼が月岡の元を離れて龍守の本家に戻った翌日、思わぬ事件が起こった。

 はじめは、月岡が病院を抜け出したという知らせだった。すぐに部下たちが探しに動いたが、月岡から無事だと連絡してきた。

 けれどその連絡のときから異変を感じた部下はいたようだった。月岡は、「猫元をつぶせ」と命令を出したからだった。

 その日から、月岡の命令は絶え間なく弾丸のように降り注ぐ。

 あの若頭を襲え、あの組を壊滅させろ、何を使っても構わない……。月岡の命令はそれ自体が破滅的で、冷静で知られる彼の下で仕えた部下たちを混乱させた。

 珈涼はそれを電話で豆子から聞いたとき、首を横に振って否定した。

「月岡さんがそんな命令を出すはずがない」

「健吾もそう言ってる。月岡さんの直属の部下も同じ考えだろうって。……偽物がやってるんだ」

 豆子は電話口でうなって珈涼に同意したものの、不破から聞いた考えを続けた。

「けど、下の方の組員は月岡さんを知らない。血の気の多い組員もいる。今は月岡さんの部下たちが抑えてるけど……」

 珈涼は恐ろしい想像を口に出して言う。

「じきに偽物の命令通りに暴力沙汰を起こしてしまう?」

「……うん。そうなったら龍守組は混乱して、月岡さんも信用を失くしちゃうよ」

 豆子は暗い声音でつぶやいて、珈涼もじきにやって来る未来に怯えた。

 でも珈涼には、怖いだけではない思いがある。

 珈涼は自分の胸を押さえて、自分の心に問いかける。

 暴力沙汰なんて見たくない。月岡が信用を失うのだって嫌。

 怖いからと目を閉じるのは、もうやめるんでしょう?

 珈涼はそう自分からの答えを聞いて、口を開く。

「豆子さんは、不破さんの事務所でこれからも働くって聞いた」

「うん、そうだけどどうしたの?」

 珈涼の問いかけに、一瞬豆子は不思議そうに問い返す。珈涼はそんな豆子に問いを重ねた。

「姐としての勉強もしてきた?」

「……珈涼ちゃん、もしかして」

「急でごめんなさい。でも私に教えてほしいの」

 珈涼は前を見据えてその言葉を口にする。

「若頭の妻としての振舞い方を。……月岡さんの不在は、私が守る」

 そして、月岡さんを無事に取り返さなければ。

 その意思は、珈涼を強い覚悟で奮い立たせた。





 珈涼は月岡の部下たちに、月岡を名乗る者から命令が下ったら必ず自分に報告をしてくれるように頼んだ。

 彼らはずっと守られてきた「お嬢さん」だった珈涼がそんなことを言い出したことに驚いたようだった。けれど事はボスの信用にかかわることで、混乱を食い止めるにはそれなりの立場からの命令が必要だった。

 月岡の部下から報告をもらったら、珈涼は偽物の命令を打ち消す命令を部下に告げた。

 争えと命じられたら、それを止める命令を。誰かを傷つける命令があれば、誰かを守るように指示した。

「猫元さんのところに人をやって未然に防いでください。刀傷沙汰は許しません」

 さすがに珈涼自身が争いの場に立ち入ることは月岡の部下たちが許さなかったが、それでも珈涼は使ったことがない強い言葉で偽物の命令を否定した。

 ほとんどの部下は下って来る命令を偽物のものだと確信していたが、珈涼の命令には疑問を抱く部下もいた。

「猫元組は龍守組の傘下ではありません。今回の件もある。むやみに庇うのも」

「月岡さんならそうするはずです。私の命令通りにしてください」

 一つ間違えば闘争になると思うと、緊張で夜も眠れないこともあった。

 もう一つの反対は、父の妻であり本来の姐から来た。

 彼女は珈涼を呼び出して、明らかに不快という顔で告げた。

「自分が何をしているかわかっているの?」

 姐は月岡が若頭を襲名することに反対していた。珈涼自身も夫が外で作った愛人の子なのだから、存在そのものが目障りに違いなかった。

 珈涼は姐に頭を下げて謝罪する。

「お詫びは今も、これからも、いくらでも。私をいくら疎んでも構いません。姐さんに比べれば、この世界では子どものような私ですから」

 珈涼は毅然と顔を上げて姐に返す。

「けれど月岡さんの部下のことは、私はよく知っているんです。彼らを使うことなら多少の慣れがあります。今は私の夫となる人と……龍守組のために、命令を下すことをお許しください」

 姐は話のわからない人ではなく、珈涼の言葉を最初から切り捨てることはしなかった。

 ただし姐らしく強気で、短く珈涼に念を押した。

「ならば相応の成果を出しなさい。……過ちには、私は厳しいわ」

 珈涼はごくりと息を呑みながら、深く一礼してその言葉を聞いていた。

 珈涼がミスをしたのは、月岡が行方不明になってから二月が経つ頃だった。

 その頃には偽物は月岡らしさを装うこともなく、支離滅裂な命令ばかり下すようになっていた。月岡の部下たちに限らず、龍守組のほとんどの組員たちがその命令に従わなくなっていた。

 月岡の命令を誰も聞くことがない。それが偽物の真の狙いだったと珈涼が気づいたのは、龍守組の本家の中で月岡をあざ笑う声を聞いたときだった。

「月岡はもうおしまいだな。親父は誰を次の若頭に指名するか……」

「本家に住んでもいない親父がもう一度指名できるか? 姐さんが決めるんだろ」

 珈涼は物陰でその話し声を聞いたとき、後悔に襲われてうつむいた。

 自分は偽物の命令を打ち消すことばかり考えて、月岡の名前で下される命令を否定ばかりしてきた。メンツを最重要視するこの世界で、月岡のメンツを珈涼自身が台無しにしてしまった。

 寒気を感じて、ひとりで久しぶりにマンションに戻った。ベッドまで来ると、倒れるように眠った。

 この二月間、緊張と不安でいつもギリギリの最中にいた。月岡を探しに行きたいのに、今自分が動いては偽物を止められないと、自分を抑えてきた。

 月岡と眠ったときは安らぎの場所だったベッドは、今は冷たく、ほこりもかかっていた。珈涼は咳き込んだが、彼の名残を求めるようにしてシーツを引き寄せる。

 夢でも会いたい人は、そういうときほど夢には出てきてくれなかった。珈涼は寒気と喘息の発作で、身動きも取れなかった。

 ……そのとき、夢の底で小さなぬくもりに触れた。

 そのぬくもりは本当に小さく、消えそうな灯のように頼りなかった。けれど珈涼はそれを大切に抱きしめて、大丈夫だよと励ましていた。

 泣きたいような気持ちで目覚めて、珈涼はまだ熱の残る体で寝室を横切る。

 棚を開けて取り出したのは、いつか月岡が珈涼に買ってくれた検査キットだった。

――不安なときは使ってください。それでもし何かあっても、すぐに医者にかかれば大丈夫ですから。

 珈涼はそれを手に取って、そっと箱を開く。

 珈涼はもう二月、生理が来ていなかった。だからもしかしたらと思った。

 果たして結果を見て……珈涼はぽつりとつぶやく。

「……私が守らなきゃ」

 検査の結果は、陽性。

 珈涼のお腹に、あの日の月岡との赤ちゃんが宿っていた。




 龍守組の本家に戻って来た珈涼を、父と兄が心配そうに迎え入れた。

 父は廊下で向かい合うなり、焦燥に駆られたように珈涼を叱った。

「こんなときに一人で出歩くな。何かあったらどうする」

「は、はい。ごめんなさい、お父さん」

 珈涼は不器用だが自分をみつめていてくれる父に、慌てて謝ることになった。

 兄の真也は一人暮らしを始めていたが、珈涼が月岡の代理をするようになってからたびたび龍守組の本家に様子を見に来てくれていた。

 真也は珈涼の顔色が優れないのを見て取って問う。

「喘息が出たのか? 医者は?」

「兄さん、大丈夫。今は倒れるような発作はもうないの」

 月岡に念入りに治療を受けさせてもらったおかげで、珈涼の喘息も日常生活に支障がない程度に回復してきていた。

 ただ今でも時々は調子が悪いときがあって、月岡に背をさすってもらいながら眠っていたが、それは珈涼と月岡だけの秘密だった。

 秘密というなら、妊娠していることを二人に伝えた方がいいだろうか。珈涼はそう思ったが、今はまだ確証がないことを言えなかった。

 真也はちらと父親を見てから、彼も珈涼を叱った。

「お前な、もっと俺たちに頼れよ。親父も俺も極道なんだぞ。この世界に来たばかりの妹を一人で戦わせるもんか」

「うん……ごめんなさい」

 珈涼は孤独に陥りかけていた自分に、よく周りを見なさいと言いたくなった。

 自分は一人じゃない。お父さんもお兄さんもついている。だから自信を失うことなく、信じることをやっていこう。

「お父さん、お兄さん。お願いがあるの」

 今珈涼が抱えている命だけは、珈涼が守ってみせるけれど。まだ形もあいまいなその存在が、自分にこんなに力をくれるとは思ってもみなかった。

 珈涼は二人を見て、顔を上げて告げた。

「もう一度、私と虎林雅弥さんが会食する機会を作ってほしいの」

 二人は顔を見合わせて、父が顔を険しくしながら言い返す。

「俺たちがお前を、敵地のど真ん中に行かせると思うか?」

「でもそこに月岡さんがいると思う」

 珈涼は二人を交互にみつめて言う。

「私が月岡さんを取り返せるように。考えがあるの。お願い」

 父と兄はすぐにうなずきはしなかった。けれど珈涼の決意が固いのは伝わったようだった。

 ふいに父は苦笑して言う。

「お前はお嬢様だな。何かと周りを振り回す」

「ごめんなさい。でも譲れないの」

 謝った珈涼に、兄も言葉を返す。

「月岡に……極道に甘やかされたせいだ。ほんと、わがままだよ」

 兄も苦笑いして、どうしたものかといたずらっぽくつぶやいた。

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