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32 幸せ

 虎林組の本家が焼失した事件は、周辺の組だけでなく世間も騒がせることになった。

 元々麻薬を生業にしている虎林組は、警察からもたびたび捜査の対象になっていた。それが今回の事件を期に、龍守組にも飛び火したのだった。

 月岡も任意ではあるが取り調べに出頭する事態になり、その間珈涼は月岡が用意してくれた別荘に避難していた。

 虎林組は崩壊し、組員たちは離散した。けれど虎林組の焼け跡からは遺体はみつからなかった。火事の原因は今もわかっておらず、警察からは龍守組も疑われている。

 けれど月岡は、珈涼が引け目に感じることは何もないと言う。

「珈涼さんは立派に若頭の不在を守り抜きました。後は私に任せてください」

 一日に一度、月岡は珈涼に電話をして彼女を励ましてくれた。

 月岡はまだ治療が必要な身でありながら、自身が不在だった頃の混乱をあっという間に立て直してみせたと部下たちから聞いた。

 龍守組は月岡を中心に元通りに戻りつつあって、彼を若頭から外すなどという声は幻のように消えたという。

 月岡は珈涼と離れ離れの現在を、不本意そうに話す。

「今は私と離れて暮らす方が珈涼さんを守れますが、本当はすぐに側に連れ帰りたい。足らないものは何でも言ってください。すぐに届けさせます」

「大丈夫です。みなさん、とてもよくしてくれます」

 彼はこの世界で堂々と立ち回る力を持っている。彼はリーダーなのだ。珈涼は今もまぶしいような思いを彼に抱く。

 月岡は言葉が少ない珈涼に、優しい提案を持ち掛ける。

「落ち着いたら今度こそ結婚式を挙げましょう」

「だ、大丈夫です。今は結婚式どころじゃないです」

「だめですよ、大事な儀式なんですから。盛大にしましょう?」

 月岡にたしなめられて、珈涼はぽつりと答える。

「私は……教会で白いドレスを着れたら、それだけでいいです」

 けれど珈涼は日に日に返す言葉が減っていって、あるとき月岡にもその異変は伝わった。

 ある日、月岡は心配そうに電話で珈涼にたずねた。

「珈涼さん、家に閉じこもりがちだと聞きました。体調でも悪いのですか?」

 珈涼は六か月が過ぎる頃になっても、月岡に妊娠のことを伝えられずにいた。

 組の本家に乗り込んで銃まで突きつけたというのに、月岡の前では少女のような淡い気持ちの自分がいる。

 珈涼は電話口でうつむいて答える。

「……そんなことないです」

「部下たちもついているとはいえ、一人では気持ちも塞がるでしょう」

 彼が夢の中にいたときに授かった命を、あなたの子だと堂々と言えない。けれどその命を手放すなど、とてもできない。

 月岡は珈涼が何か隠しているのに気づいているのか、ふいに優しく言った。

「やっぱり明日にでもお迎えに行きます。何か気がかりがあるのでしょう? 珈涼さんが安心して暮らせるのが何よりですから」

 ……もし赤ちゃんが、月岡さんに否定されてしまったら?

 その不安は一瞬で波のように珈涼を飲みこんだ。

 珈涼を抱いたあの日のことを、月岡はおそらく覚えていない。違う男の子だと誤解されて、もしかして……堕胎をされてしまったら。

 嫌、そんなことできない。珈涼は悲鳴のように心で思う。

 珈涼はひとり腹部を押さえて、どうしたらこの子を守れるだろうと必死で考えを巡らせた。

 まだ妊娠のことは周囲に知られていない。けれど腹部のふくらみは服の工夫では隠せないほど大きくなりつつある。

 珈涼の出した結論は、きっと賢くはないものだった。けれど赤ちゃんへの愛情からの行動だったのは確かだった。

「ちょっと出かけます」

 別荘の部下にそれだけ告げて外出して、珈涼は行方知らずになった。





 珈涼は宿を転々として月日を過ごして、ついに小さな男の子を出産した。

 そこは古い宿場町の名残が残る地方病院だったが、設備は充実していて秘密も守られた。珈涼はそこを紹介してくれた院長に感謝しながら、眠る赤ちゃんをみつめていた。

 珈涼は彼の小さな手を包み込みながらささやく。

「私が守るから……何も心配しないで」

 赤ちゃんは元気に生まれたが、珈涼自身は体調が優れなかった。出血が多く、出産から三日間は昏々と眠った。

 目覚めた珈涼はひととき、奇跡のような幸せをみつめていた。自分と彼が結ばれて生まれた赤ちゃんは、どんな幸せをつかんでくれるだろう。そう思いを馳せながら、長い間赤ちゃんの手をさすっていた。

 けれど月岡に見つかったら、この子と離れ離れになってしまうかもしれない。側にいてほしい人を敵のように遠ざけ続けるのはつらい。

 それでも赤ちゃんを守るためには、自分は強くいなければいけない。早くここを離れようと、自分を奮い立たせる。

 まだ療養が必要と主張する医師を振り切って、珈涼は退院の手続きを取った。小さな宝物を守るように胸に庇いながら、雪がちらつく外気に踏み出した。

 けれど電車に乗って旅をする体力が残っていなかった。珈涼は駅から出ると、なるべく人目のつかない小さな宿を選んで、そこで一晩を過ごすことにした。

 そこは小さな貸宿の、二階の隅部屋だった。すぐに暖房をつけたが、雪深い地域に慣れない珈涼には震えるほど寒かった。

 窓の外を見ると、吹雪になっていた。きっと翌朝は鮮やかな雪景色になるのだろうが、今はただ早く部屋が暖まってくれるのを待った。

 珈涼は赤ちゃんが冷えないようにお包みごとしっかりと彼を抱くと、自分の温もりを分け与えながら話しかける。

「名前、どうしようね……」

 珈涼はいつか子どもが生まれたらどんな名前にするか、月岡と話し合ったことがあった。そのときの候補を思い出すと、夢見るような気持ちも思い出した。

 これも、それも、いいね……。二人で笑っていた頃を想いながらつぶやいて、ふいに一つの名前のところで止まる。

「ひろき……うん。ひろきにしよう」

 月岡の名前が彰大だから、彼から一文字もらおうと決めていた。珈涼は嬉しくなって、ひろき、ひろきと繰り返す。

 けれど雪の降る中を歩いて来たせいで、体力が失われていた。珈涼はそっと布団の上にひろきを寝かせてから、その隣で体を丸める。

「少し……休ませてね」

 起きたら役場に行って、それから……と、やることはたくさん思い浮かぶけれど、今は眠らせてほしい。

 珈涼は目を閉じて短い眠りに落ちたが、明け方に戸を叩く音で目を覚ました。

 まだ日も出ないこんな時間にやって来る誰かは、恐ろしい存在かもしれない。けれど雪の積もる中で宿を追い出されたら、ひろきが凍えてしまう。迷った末、珈涼は身を起こした。

 体は冷えてひどく重いが、傍らでひろきはすやすやと眠っていた。珈涼は彼に笑いかけて、すぐ側の扉の前に立つ。

「大丈夫よ。待っていてね、ひろき」

 振り向いてそう告げて、珈涼は慎重に扉を開いた。

「……「ひろき」は何者ですか、珈涼さん」

 そこに月岡が立っていて、珈涼は思わず扉の前で立ちすくんだ。






 とっさに珈涼は扉を閉めて背中を当てていた。けれど薄い扉ごしに、月岡は言葉をかけてきた。

「ずいぶん探しました。何から逃げているのです?」

 一瞬見えた月岡の格好は、この寒い地域には見慣れないくらい薄着だった。いつもきちんとしていた彼らしくもなく、普段着に慌てて上着を羽織っただけで高速を飛ばして来たようだった。

 月岡は切羽詰まった声音で言葉を続ける。

「私から逃げているのだとしたら、謝罪も贖いもいたします。言ってください」

「月岡さん……」

「あなたが欲しいものは何でも手に入れます。でも私はあなたが欲しいと言ったはず。あなたのいない世界で生きていくなど、考えられないことなんです」

 珈涼は乞うように告げられた言葉に胸がいっぱいになって、今すぐ扉を開いて彼を抱きしめたかった。

 でもほんの一段玄関から上がったそこには、珈涼が命をかけても守りたい存在が眠っている。彼が奪われた世界で生きるのも、珈涼には考えられないことだった。

 月岡は迷った珈涼が見えているように、心の芯を貫くような言葉を投げかけてくる。

「珈涼さん、怯えないで。こちらに来てくれたら、証明できます。私はあなたが何を隠していようと、あなたを包みますから」

 珈涼は短い呼吸を繰り返す。珈涼の中の少女の心が揺れていた。

 月岡に飼われるように大切に守られて過ごした日々と比べて、この数か月は過酷だった。お腹の中の子に悪いものは何でも遠ざけてきた。珈涼を助ける者は珈涼しかいなかった。自分の体でありながら自分のものだけではない体が倒れてしまわないよう、必死で毎日に立ち向かってきた。

 それは確かに甘い日々ではない。でも……と、珈涼はふいに涙をこらえて叫ぶ。

「嫌! 放っておいてください! 私はひろきを離さない!」

 扉の向こうで月岡が息を呑む気配がした。月岡は一瞬奇妙に沈黙して、ぐっと扉に力をこめる。

「……私より、あなたの背から出てこないような男の方がいいと言うんですか」

 次の瞬間、月岡は扉の隙間から足を押し込んで、扉を無理やり開いた。

 けれど珈涼は押しやられた扉のせいで数歩よろめいたものの、すぐに畳に駆け上って叫ぶ。

「だめ!」

 ひろきを腕の中に入れて、珈涼は守るように彼を抱きしめる。

 目を閉じる直前、月岡が大きく目を見開いたのが見えた。

「……子ども?」

 月岡はぽつりとつぶやいて、珈涼の前で立ちすくんだ。

 沈黙は一瞬で、ひろきが弾けるように泣き始める。

 珈涼は慌てて、ひろきをあやしながら彼に言い聞かせる。

「ごめん、ひろき。怖かったね。泣かない、泣かない……」

 珈涼がいくらあやしても、ひろきは泣き止まなかった。珈涼は自身も泣きそうになりながら声をかけ続ける。

「どうして? いつも大人しい子なのに……。ね、ひろき、ごめん。ママ、ここにいるよ。どこにもいかないよ……」

「珈涼さん」

 ふいに月岡が珈涼の前で膝をついて、彼女を覗き込みながら言った。

「ひろきは私の子ですね」

 それは問いかけではなく、事実の前で膝をつくような言葉だった。

 珈涼は思わず顔を上げて月岡の表情を見る。そこに先ほどまでの焦りや怒りはどこにもなかった。

「だから……逃げたんですね」

 彼はひろきをみつめて、何か大きな感情に向き合うようにため息をついた。

 珈涼は彼の様子に喉を詰まらせて、泣き止まないひろきと月岡を見比べる。

 側で見上げれば、月岡とひろきはとてもよく似ていた。ずっと必死だったから、その涼し気な目つきも、鼻や耳の形だって、月岡譲りだと気づかなかった。

「珈涼さんが誰にも何も言わずに姿を消した理由も、わかりました。でも」

 月岡はひろきの額にそっと手を当てながらつぶやく。

「不破に聞いています。珈涼さんが私のお見舞いに来てくれたときのこと。……あれは、夢ではなかったんですね」

 月岡がひろきの額に手を当てたとき、ひろきの泣き声が少し小さくなった。ひろきはまだよく見えない目で、誰かを探すように頭を動かす。

「貸してください」

 月岡は腕を差しのべて珈涼に言う。珈涼は不思議な気持ちでそれに従った。

「……ひろき」

 月岡は彼をそう呼んで、初めての仕草で、とても上手とは言えない手つきでひろきをあやした。

 けれどひろきはそれで満足なようだった。珈涼がどんなにあやしても泣いていたのに、やがてぴたりと泣き止んで寝息を立て始めた。

 ふいに月岡はぽろっと涙を一粒こぼすと、それを拭いながらぎこちなく笑う。

「私はね、小さい頃泣き虫だったんですよ」

 月岡は濡れた目で珈涼を見て言う。

「でも珈涼さんに会ってからの涙は、幸せだから」

 珈涼は短く呼吸を呑んで、ずっと不安だった心を言葉にする。

「……喜んでくれますか?」

 珈涼は少女の心を打ち明けて月岡に問う。

「私とこの子は、あなたと一緒に過ごしていいですか?」

 月岡は驚いたようにまばたきをして、珈涼をみつめる。

 月岡はくしゃりと泣き笑いの顔になって、珈涼の頬に触れる。

「そんな幸せな男は、私くらいですね。……一緒に生きましょう」

 珈涼もやっとこらえていた涙をあふれさせて、月岡とひろきを抱きしめた。

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