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第2話 情報の交換

「飲めないの?」「そんなことはないんですが、飲むと酔っ払いそうで」 高輪叶人からハハハと乾いた笑いが漏れた。飲むと酔う。それは当たり前の話だ。これが高輪叶人でなければきっとそんな心配はしないだろう。隣を見ればまた少し酒が減っている。灰皿には2本、吸い殻が転がっている。俺はなるべく顔を見ずに、その指先だけを見ていることに気がついた。「出る時に飲むことにします」「そっか。なんか迷惑かけちゃったね」「いえ……飲みたかったのは本当です。そういえば、どうして新年会に?」 見ていた限りでは、誰かに積極的に話しかけているような様子はなかった。「ああ。この会社とは一緒に仕事しててさ。通信速度を安定させるプログラムに俺が協力してる。ほんとは新年会までくる義理はなかったんだけどね」 途端、高輪叶人の顔色が曇る。「……嫌な話題ならいいです」

 会での高輪叶人は酷くつまらなさそうだった。「まあ……いや、そうだな、会いたい人がいたんだ」「会いたい人?」「そう、会えなかったけどね、多分」「多分」

 高輪叶人が人を探す。 それは現在、とても難しいことだ。高輪叶人は刺されてから発見が遅れた。病院で息を吹き返した時、いくつかの障害が生じていた。右腕の肘から先の麻痺、味覚障害、それから相貌失認。人の顔が見分けられない。だから余計、最近では研究室に引きこもって素性の知れるメールやビデオ会議でやりとりをしていると聞く。「うん。それで、その、三蓼さんが少し似てる気がした、からかな」 その言葉はずっと、グラスに向けられていた。そうして少しだけ、緊張しているように見えた。「俺に?」「そう。三蓼さんに会ったのは初めてだよね?」 言葉に詰まる。ふと高輪叶人を見れば、そのわずかに細められた目は探るように俺を見つめていた。次第に動悸が上がっていく。この目は果たして、俺を映しているんだろうか。 俺は高輪叶人に会ったことがある。「高輪さんを見かけたことはありますが、話すのは今が初めてです」「見かけた? どこで?」「理学部塔の屋上の喫煙スペースで」 理学部塔屋上の端っこに屋外用の灰皿が置かれている。とくに喫煙スペースとは書かれていないけれど、行けば誰かが煙草を吸っている。そこからは思いの外遠くまでが見渡せた。地上10階なのに腰高の柵でしか囲われていないからだ。空に開け放たれたその場所は、建物内にある喫煙スペースとは一線を画していた。 俺の答えは想定外だったんだろう、高輪叶人は混乱したように目を彷徨わせた。「そうだったかな。ごめん、覚えてない。そうか、わからない」「俺は高輪さんと話したことはないです。そんなに頻繁には行かないから」「そっか」 実際に行ったのは1回だけだ。


 その時の印象は酷く鮮烈だった。 いつだったか、多分1年のときの春。妙に空が暗く薄青く、雲ひとつなかった。高輪叶人が細い煙草を右手に挟んで時折口に含み、そして煙を吐き出していた。その白い煙の端っこはいつのまにか背後の暗い空に溶け、高輪叶人はそれを目で追っていた。そうして煙草の煙が消えるように、今にもこの世界から消えてしまいそうに映った。その姿に酷く魅了された。 一目惚れとか、そういうものでもないのだと思う。その時の俺は何故だか、高輪叶人がこの世界の全てのように思えた。 だから俺はそれ以降、理学部塔の屋上には行っていない。恐ろしくなったからだ。何かが。 だからいつも、隣の工学部塔までいってその屋上で煙草を吸う。時折高輪叶人が煙草を吸っているのが見えた。この50メートルほどの距離が、そして間に存在する分厚い空気の層が、わけのわからず鳴り響く心臓の音を拡散してくれる。この距離は煙草の煙を見えなくする。 そうして今、目の前で薄く白い煙が高輪叶人の口から棚引いている。だから思わず目をそらした。 同じ喫煙所を使う人間というのはいつのまにやら顔見知りになるものだ。それで工学部塔の連中にあの科学部塔の屋上で煙草を吸っているのが高輪叶人だと教えてもらった。そして高輪叶人のいるところにはなるべく立ち入らないようにした。とはいっても理学部の屋上と研究室以外は足を向けないそうだから、研究室のある理学部の上層階にいかなければ会うこともない。 俺の前のグラスの氷もカタリと音を立てた。きっともう大分、薄まっている。

 そうして話題も尽きた。「今日はありがとう」「いえ、こちらこそ」 灰皿には既に吸い殻が3本転がっていた。吸口から少し先までの長さ。左手で吸うのはきっとまだ、慣れていないんだろう。そうして高輪叶人は首を傾げた。「三蓼さんは不思議だね。また誘ってもいいかな」「どうして?」 思わずその言葉が口をつく。「事件のことを聞かないからですか?」「……そうだな、そのタイプは好ましい。けど今更だ」「今更?」「そういえば何でかな。何で聞かない?」 何で。「聞かれたくないんでしょう?」「あぁ。……とても面倒なんだよ。同じ問答を繰り返すのがさ。一層のことプリンタで打ち出して配って回ろうかと思うくらいには」 その声はイラついていた。その陶器のような眉間にわずかに皺がよる。それがとても不思議に見えた。「でも結局は調べればすぐわかるようなことを尋ねられるのが嫌なんであって、事件のことについて話すことはそんなに嫌でもない。というか犯人について一番知りたいのは俺なのにな。三蓼さんは何か知りたいことがある?」 高輪叶人の目元はわずかに赤い。「そう……ですね」 高輪叶人の言う意味をよく考える。 事件について話すのは嫌ではないが、同じことを繰り返し話すことには辟易している。つまり話題に上らない、報道されていないことなら答えても良いという趣旨なのだろうか。

 何故わざわざそんなことを俺に聞く。口の中でため息が滞留する。俺には聞きたいことがある。けれども聞かなくてもよいことだ。刺されて何か、変化はあったか。それこそ山というほど聞かれたことだろう。「特にありません」「そうか」 漏れたその呟きは、僅かな落胆が滲んでいたように感じられた。それこそ何故だ?「聞いてほしいことでも?」

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