「ヘルムート! 其方、私が誰かわかっていてそのような振る舞いをするというのか!」
「もちろん存じ上げておりますよ。この学院におります全て、どころかこの国中全ての人間が、貴方様が何者でいらっしゃるかはわかっていますでしょう」
そう言ってヘルムートは優雅に微笑んだ。
その顔がまた、バルタザールを嘲笑っているようで、余計に不快感が溜まる。
「それならば何故、そのような態度をとるのだ」
整えられた作りもののような顔が、ヘルムートの態度をさらに憎らしいものに見せる。
「それは大変失礼をいたしました。そのような、というのがどれのことかも思い当たりません。しかし、これ以上殿下に不快な思いをさせるわけにもまいりませんので、私はそろそろ姿を消すことにいたします。それでは、本日はこの辺りで失礼いたします」
ヘルムートはその長身を半分に折り曲げるようにお辞儀をし、颯爽とその場を離れた。
その姿はどんな美術品よりも美しく、明度の高い肌に艶のある黒髪が風に揺られて当たる様は、どんな女性よりも可憐に見える。熟れた果実のような紅い薄い唇は、老若男女全てのものを魅了した。
それはどんな地位の人物であっても変わらなかった。この国の第一王子でさえ、ヘルムートの魅力に囚われている。
「また、逃げられた」
ヘルムートの後ろ姿を見ながら、バルタザールは膝をつく。
国立学院に入学するまで、王子である自分には誰もが頭を下げ、礼を尽くして応じてくれていた。
それが、ここへ入学して初めて、自分の思い通りにならない人物と出会った。どうやって言うことを聞かせようとしても、気づくと相手のペースに乗せられ、丸め込まれてしまう。
手に入れたくても叶わない、まるで絵や写真の中のもののようだ。
「バルタザール様。そこまでヘルムートに執着せずとも、私たちがいるではありませんか」
不服そうな顔で次の手を考えていたバルタザールに声をかけたのは、オーウェンだ。昔馴染みの彼は、今後もきっと自分に付き従ってくれる。
「思い通りにならないものこそ、手に入れたいと思うものだ」
「ですが、ヘルムートは誰の誘いにも乗りません。あの顔立ちですから、すでに何人もの女性達が声をかけているそうです。それでも、誰にもなびくことなく、毎日真っ直ぐに寮に帰る。その後は何をしているか、誰も知らない」
「そういうところが、良いのではないか」
誰もを魅了する美貌。誰にもわからない私生活。何とかして、自分の隣に来てはくれないだろうか。ヘルムートへの執着欲は既に恋心。欲しくて欲しくてたまらない。
「ヘルムートは平民のはずです。言うことをきかせることぐらい、簡単でしょう?」
「地位を盾に命じることなど簡単だ。だが、そうして仕舞えば、ヘルムートは二度と私に目を向けてはくれないだろう。もちろん、王子である私がしないのだ。この学院の誰もそのようなことはしないよな?」
ヘルムート相手でなければ、地位を盾にいうことをきかせるなど難しくもなんともない。
王子であるバルタザールの命令に、従わない者などいないのだ。
「はぁっ」
寮の自室に戻ったバルタザールは、綺麗に整えられたベッドにその身を横たえた。
王族のみが利用を許される特別室。学生の暮らす寮であるはずが、煌びやかに飾り立てられたその部屋は、王城の自室にも引けをとらない。
掃除をするのは執事養成課程の実習の一つだ。そこに在籍するヘルムートが、もしかしたらこの部屋に入ったのではないか、そんな願望すら頭をよぎる。
少しでもヘルムートの痕跡を感じられないかと、その空気にすら意識を配るが、いつもと変わらぬ香りが炊き込まれている部屋では、自分以外の人間の跡は見出せない。
国立学院の執事養成課程は、その名前に遜色なく一流の執事を生み出しているようだ。
自分以外の人間の気配を感じられることのない部屋は、いつもどこか寒々しい。耳をすまして聞こえてくるのは、寮内で暮らす生徒達の笑い声。
国立学院とはいえ、部屋の広さは毎月の寮費に比例していて、平民であるヘルムートは間違いなく相部屋で生活しているはずだ。
バルタザールの暮らす部屋よりも狭い部屋で二人きり。あのヘルムートが部屋でくつろぐ姿も、寝姿も、湯上がりの姿まで見てる誰かがいる。
胸だけでは収まり切らず、喉元まで熱くするような気持ちは嫉妬。
「そいつを見つけて……どうするんだ」
ヘルムートと相部屋の誰か。平民であることは間違いない。
領主養成課程に在籍するバルタザールとは棟すら別のヘルムートの部屋を知ったところで、何をする?
この嫉妬心を叩きつけたところで、誰も喜びやしない。それどころからヘルムートには失望されかねない。
バルタザールの行動は常に、『王族らしさ』に付き纏われている。国民のために何をすべきか、何をしていいか、何をしてはいけないのか。
バルタザールの一言で生活が変わる者がいる。バルタザールの行動一つで、なくなる領地がある。
国立学院を卒業すれば、再び王子として窮屈なあの生活に戻る。ここにいる間だけ、少しそのしがらみから解かれた振る舞いが許されているだけだ。
それでも問題行動は、即座に国王に報告されているだろう。
そしてそれは、バルタザールを締め付ける命令となって舞い戻る。
国王の紋章の封蝋が押された手紙。定期的に届くそれは、バルタザールの気持ちを滅入らせる。
ベッドから数歩離れた机の上に置かれた一通の手紙。国王からのものだと即座にわかる印。
今回は何が書かれているのだろうか。
労りの言葉など一言もない、『王族らしく』が詰め込まれた内容。
前回の試験の結果が伝わったか。それともヘルムートへの執着が伝えられたか。
どちらにせよ今度は何を課せられるのだろう。
陰鬱な気持ちで机の上の手紙に手を伸ばした。
国王によって付けられた鎖と重り。増え続けるそれらがバルタザールの心に絡みつく。
絡みついた鎖によってこころが裂かれる前に、今日のヘルムートの微笑みを思い出す。
嘲笑っているようにも思える笑顔ですら、バルタザールの心の支え。目の前であれば不快感を覚えるはずなのに、こうして一人で思い出せば、また違った感情が湧き上がる。
もっと私で笑って欲しい。
ヘルムートの美貌に心を寄せながら、封を切った。