「バルタザール殿下? どちらに行かれるのですか?」
「ちょっと魔法訓練室にな。其方も行くか?」
「い、いえ。私は遠慮しておきます」
バルタザールの誘いに、オーウェンは取れてしまいそうなぐらいに首を振って答えた。
倒れそうになるほどまでに自分を追い込むバルタザールの訓練に付き合わされるのはまっぴら、ということだろう。騎士ならばともかく、領主になることが決まっている貴族の子息。多彩な魔法は必要ないということか。
「それならば、また
頭を下げるオーウェンに向かって軽く片手を挙げ、バルタザールはそのまま魔法訓練室へと向かう。
騎士養成課程に通う者たちの暮らす寮にほど近い場所に魔法訓練室はある。バルタザールの暮らす寮とは、執事養成課程の寮によって隔てられており、寮に戻るオーウェンとは真逆の方向だ。
敵を模した人形がいくつも立ち並ぶ訓練室に一人で入り、次々にそれらを倒していく。火に水に風。何種類もの攻撃魔法を使いこなし、いくら倒しても起き上がるように作られた人形に向けて、魔法を放つ。
使い続けて自分の限界に達したときが、魔力が増えるときだ。後一つ、後一つと、威力の枯れかけた魔法を放ち続けた。
魔力が尽きるときに起きる頭痛を、奥歯を噛み締めて耐える。大きな鐘の音が鳴り響いているような頭の中で、鐘の音に混じって聞こえる国王の声。
『王族たる者、誰よりも魔力を強く持つべき』手紙に書かれたその一文。魔力を増やせと、誰かが常にバルタザールを追い詰める。
最後の一つを打ち終えた途端に、膝から崩れ落ちた。
魔力切れ。今日は後何回これを繰り返せるだろうか。訓練室の床に寝転び手足を投げ出す。こうして魔力が回復するのを待つ。
こんな訓練、オーウェンが逃げ出すのも無理はない。
だが、国王の言葉を実行するのであれば、これ以外に手立てはない。
じりじりと魔力が回復するのを感じながら、バルタザールの目から涙が溢れ出した。
いつまで、こんなことを続ければ良いのか。
どれだけ魔力を鍛え上げようとも、常にそれ以上を求められるだけではないのか。
その辺の領主子息であれば、逃げ出してしまうほどの訓練。これを続けなければならないのが、王族だというのなら。
いっそ投げ出してしまいたい。
回復し始めたことのわかる魔力とは違い、身体は既に限界を超えている。指先から崩れてしまいそうだ。
「はっ。これが王子の手だというのか」
攻撃によって巻き上がる砂。熱くなった石。それらで傷つけられ続ける自分の手を見ながら、バルタザールは笑みをこぼした。
それでも手放せない王太子という地位。
これ以外の生活は、想像もできない。
情けのない自分の思考に、ヘルムートのあの笑顔を思い出す。こんな無様な自分を嘲笑って、罵ってくれはしないだろうか。
そんな気持ちの悪い感情で構わない。
王子ではない自分を見てはくれないだろうか。
ヘルムートの視界に入れてはくれないだろうか。
彼は、バルタザールがこのような場所でこんなにも焦がれていることを知りもしないだろう。
一定量魔力が回復した頃には、なんとか身体も動かせるようになった。
いつまでも床に寝ていても仕方がない。ここに来た目標を達成しなければ、本当に嘲笑い罵られるだけだ。
次は何回かかるだろうかと、人形に向かって魔法を放つ。魔力切れを伝える頭痛は、すぐに始まった。
今日は後何回この頭痛に耐えて、後何回動けずに倒れ込むのか。
思いの外早く訪れた頭痛に少し油断が生じた。
魔法を使うときは何よりもイメージが大切で、それが精密であればあるほど、威力も命中率も上がる。逆を返せば、イメージが粗末なものであれば、作り出すことすらままならないのだ。
「まずいっ」
バルタザールの油断は魔法の暴発を招き、そして手のひらから眩い光線が放たれた瞬間、バルタザールの視界は暗転した。
「殿下。バルタザール殿下。大丈夫ですか?」
暗闇から聞こえてきたのはバルタザールの身を焦がす美しい音色。人生の終わりに聞くことができるのであれば、幻聴だとしても歓迎したいもの。
「お気を確かに持ってください。間もなく、魔力も回復しますから」
ヘルムートの声のように聞こえるその音を、夢心地で聞き続けた。
いつまでも聞いていたい。
もう少し。
このまま。
「このまま……ではありませんよ。そろそろ体も動かすことができるはずです。いつまでもこのような格好でいらっしゃるとは、殿下もまだまだ子どものようですね」
「なんだとっ」
自分に向けられる侮辱の言葉は、朦朧とした意識の中でも、それがどれだけ愛しい男からの言葉でも聞き逃すことはできない。
「よかった。ご無事でいらっしゃるようです」
「ヘルムート。何故、其方がここに?」
自分のことを上から見下ろすように見つめるヘルムートのことを見ながら、バルタザールの疑問が口をつく。
床に横たわったままの自分の体。頭の下に感じるのは少し固い枕。顔を上から覗き込むヘルムート。
つまり、ヘルムートに膝枕をされているのだ。
「わぁぁっ」
はっきりした頭で全てのパーツが埋まった。
「もう起き上がれそうなぐらいに回復されたのであれば、良かったです」
「ヘルムート、どうして……」
「私はちょうど寮に帰るところでした。魔法訓練室に珍しくまだ明かりがついているなと思ったんですが、中に人の気配がなかったものですから、無断で入らせていただきました」
「明かり……もうそんな時間か?」
「間もなく夕食かと。お部屋にお戻りになりますか?」
「あぁ。私がいなければ、皆が心配する」
「ご無理をし過ぎたのでは? 倒れるほどの訓練は、あまり良いものとは思えません」
「倒れたのは違いないが、少し油断しただけだ。決して無理をしたわけではない」
なんてわかりやすい嘘だろうか。
自分を限界まで追い込む訓練をバルタザールが行っていることは周知の事実。
それでもヘルムートに正直に話す気にはならなかったし、自分の口から知られるなんて真っ平だ。
「そうですか……」
ヘルムートの視線は傷ついたバルタザールの手のひらに注がれ、そっとその手を取った。
「魔法が暴走したのですね。気がつかず、治癒が遅くなりました」
倒れたことすら魔法の暴走のせいにして、ヘルムートの手のひらから暖かい魔法が傷口に注がれる。
「全部、其方が治してくれたのか?」
「はい。僭越ながら。執事ですので、治療に関しても一通り学んでおります。ご心配であれば、医師に診てもらってください」
「いや。いい」
せっかくヘルムートが治してくれた傷。他の誰にもさわらせたりするものか。
「それでは、私も戻ります」
ヘルムートはいつものように頭を深く下げ、訓練室から出ていこうとする。
その後ろをバルタザールは駆け足で追いかけた。