俺は彼の見てはいけないところを見てしまったのかもしれない。
それはいわゆるありふれた日常の中で、突如起こった非日常。真っ白だった半紙にポタッと落ちた墨汁。いや、水の中に落ちた一雫の墨液かもしれない。たった一滴の黒い液体が水面に触れた瞬間、たちまち粒はほどけ細い線の尾を引いた。水中をゆらりゆらり踊るように、彷徨うようにゆっくりと溶け込んで、やがて真っ黒に染めあげる。
……彼は墨汁なのか?
コンビニでバイトしている時だった。アガリまで後三十分。この時間になるともうあまり客も来ない。ホットスナックの補充はしなくていいし、仕出しも終わってしまった。暇で暇で仕方がない。
「店長ぉ~、ゴミ出し行ってきまーす」
「よろしくぅ~」
替えの袋を二枚持って外へ出る。通りを歩く人もあまりいない。
ゴミ箱の袋を新しいものに変え、口を結んで両手にゴミ袋を持ち「よいしょ」と顔を上げ目が留まった。
車道を挟んだ反対側の歩道に見覚えのある顔。
「
彼は同じクラスの
そんな一軍エースがスーツのおっさんに笑顔を向けて歩いていた。
兄ちゃんにしては年上過ぎで、父親にしては若すぎる? それになんというか……地味だ。
うーん、凪野は一軍エースで顔もいいけど、派手なわけじゃない。正統派アイドルというか、俳優っぽいというか。よくわかんないけど華がある。
トンビが鷹を産むなんて話も聞くけど、あのおっさんがあんな華を咲かすのは無理だろう。だってひとかけらも似ていないし。
ゴミ置き場にゴミをドサッと置いて思った。
……おっさん、なんか……ごめんなさい。
見ず知らずのおっさんをなにげにディスってしまった自分に気付いて、俺は首を竦めた。
とにかく、なんか妙なんだ。
凪野の笑顔だって、学校でみんなに見せているのとはまるで違うし。作ってるっぽいっていうか……。
あぁ~~~っもう!
後頭部をガリガリ掻いて、声に出せない苛立ちを紛らわせながら店内へ戻ると「とうやぁ~」と地を這うような低い声がした。店長がジトリとした視線で睨んでいる。
「おっせーよ。ゴミ出しに何時間かけてんだ」
店内の時計を見る。時間っていうほど経ってないじゃん。
「十三分っすね」
「わかっとるわい! レジ代われぇ」
「はーい」
べらんめぇ口調の店長とバトンタッチでレジに入る。洗った手を拭きながら、ふと外へ目を向けた。
あいつ、駅の方に歩いて行ったけど、もしかして今から出かけんの? もうすぐ十時だけど。
その日、友達でもないクラスメイトのことがなぜか頭からずっと離れなかった。