俺の中はすでにあいつで染まっていた。
「おはよう~」とクラスメイトが次々に教室へ入ってくる。
俺は音や声がするたびにドアへ目を向けていた。でも、そんな必要はなかった。目視しなくてもあいつが来れば賑わいでわかる。
今日も四、五人引き連れてのご登場だ。
「湊翔~、おーい」
視界がひらひらと遮られる。前の席の小島の手だった。
「どーしたん?ボーとして」
「あぁ、凪野ってさ。どんなやつ?」
「なにいまさら」
「いやぁ、まぁ、どんな奴なんかなぁ~と、しゃべったことないし」
「あぁ、わかる。俺もねーもん」
後ろの席の中松も話題に入ってくる。
「同じクラスでも案外接点ないやつっているよな。特に凪野とか、いっつも密度すげーし」
小島が茶化すように凪野群の方へ手のひらを差し向ける。
「密度なくても、しゃべらんかったけど?」
中松が頬杖を突きながら他人事のように言った。
密度がない?
高二に上がり、同じクラスになって三ヵ月。周りに密度がない凪野を俺は見たためしがない。
まぁ、今みたいにこんなガッツリ着目もしてなかったけど。たぶんなかったと思う。
「密度ないって?」
「俺、小学校からあいつと一緒なんだよ。中学の時は今みたいな感じだったけど、小四の時とか、普通だったよ。群がってなかった」
「え、凪野ってモテてなかったん?」
小島が興味津々で嬉しそうに身を乗り出してくる。
「小四だべ? まぁ、パッと見女子っぽかった気はする」
「あ~わかるわ~、線細いし、色白いし、柔らかそうだもんな」
「柔らかそうって、エロおやじっぽ……」
小島に続き何気なく発してしまった感想に一瞬ギクッとした。なのに、それを見事に拾われてしまう。
「確かにエッチかもな、ちょっとほっぺとか触ってみてーかも」
「まっ! 中ちんったらハレンチッ!」
「その呼び名ヤベーって」
「へんたいかよ……」
俺を挟んでキャッキャと話す二人に、投げ捨てるように言って席を立つ。
『確かにエッチかもな、ちょっとほっぺとか触ってみてーかも』
違うだろ、そっちじゃない。俺が行ったのは凪野のことじゃない。
妙なムカムカが込み上げてくる。
「あら? 東ちん。どこ行くん」
「便所」
「行ってら~」
後ろからの声かけに片手だけひらりと挙げて返す。
「なぁ、その呼び名って誰でもいけんじゃん。自分の名前も呼んでみ?」
「え、小ちん? いやーーー! 俺も息子も名が廃るぅ~」
盛り上がり続けてるアホな会話を背中に、胸の辺りを摩った。
なんだこのムカムカ、胸やけか? 朝食べたフライ弁当のせいか? 父ちゃんは大丈夫かな?
「ねぇ、朔真くん。今日用事ある?」
「ん? ないよ」
「じゃあ、カラオケ行こー」
「おー、俺も行くー! 俺の歌ぁ~を聞けぇ~」
「あんたは誘ってないって」
「意外に陽くん歌うまいんだよね」
「よく言った朔! 全然意外じゃないけどな!」
「朔真くんがいいならいいけどぉ」
賑やか軍団をチラッと見ると凪野は普通に笑ってた。
やっぱ、全然違うじゃん。
* * *
授業が始まる前に帰らなきゃと個室をでる。
うーん、……下からも上からも結局出なかった……。
そもそも、お腹が痛いわけでもないんだよなぁ。
冷たい水で手と顔を洗って顔を上げたら、びしゃびしゃの不機嫌そうな俺がいた。
ひどい顔。鏡の中の自分と向き合ってるのも嫌になって、視線を外したら顎に一本の髭が見えた。中途半端な位置に中途半端な髭。爪で掴んで引き抜こうとしたけど抜け切れずにプチッとちぎれ、気付けばチッと舌打ちしていた。
中途半端な
なにもかもがイラつく。
柔らかそうってなんだよ。
女顔ってなんだよ。
「……確かに男くさくもないけどさぁ」
『ほっぺとか触ってみてーかも』
中松の声と同時に脳裏に浮かんだのは昨日見た、凪野とおっさんの姿だった。
アイツ男じゃん。
「うぅ……」
また込み上げてくるムカムカ。
俺は腕で胸のムカムカを散らしながら、トイレを出た。