結婚を裏切る男の背後には、必ずと言っていいほど、傲慢な愛人がいるのだろうか――。
神崎梨紗が宅配ボックスを開けると、クリアブルーの妊娠検査薬が転がり落ちた。同封されていたメモには、まるで針で刺すような鋭い文字でこう書かれていた。
「私はあなたの夫の子を妊娠しました」。
差出人の名前は、はっきりと「早乙女若菜」と記されている――神崎紀康の心を八年もの間、支配し続けてきたあの女だ。
今、梨紗は病院の冷たい待合椅子に座っていた。消毒液のにおいが鼻をつき、胸が締めつけられる。
そのとき、突然誰かが叫んだ。
「奥さん、出血してます!」
慌てて下を見ると、濃い色のスカートに鮮やかな赤い染みが広がっていた。太ももに温かい液体が伝わり、心臓が凍りつく。
混乱の中、ふとエレベーター前に見覚えのある人影が目に入った。
背筋の伸びた男性――夫の神崎紀康だった。彼は隣の若菜を大事そうに守るように歩いている。若菜は両手で小さなペットキャリーを抱え、中には真っ白なウサギが丸くなっていた。
「どいてください!早乙女さんのウサギがケガをしているんです!」
付き添いのスタッフが人混みを乱暴に押しのける。
その拍子に梨紗は突き飛ばされ、腰をかたい椅子の縁に強くぶつけてしまった。激痛で意識が遠のきそうになる。看護師が慌てて支えながら、不満げに言った。
「早乙女さんが国民的女優だからって、妊婦の出血を放っておいていいんですか?」
もう一人の看護師が慌てて袖を引き、声をひそめる。
「やめなよ、彼女は神崎社長の大事な人だよ。下手なこと言ったら職を失うよ。うちの病院の最上階、彼女のペット専用のVIP診察室になってるの、知らないの?」
「まったく、神崎社長はあのウサギまで大切にしてるんだから、呆れるよね……」
梨紗の顔色は、手にした診察券よりも真っ白になっていた。婦人科の診察室へ運ばれ、医師の言葉が氷のように突き刺さる。
「妊娠六週目です、ご存知なかったんですか?」
梨紗は呆然とした。家のことに追われて、生理が遅れているのも疲れのせいだと思っていた。半月前、紀康が酔って帰宅した夜、久しぶりに彼が近づいてきた。しかし、その最中に「若菜」と名前を呼ばれた。避妊もしなかったあの日、一度で妊娠してしまったのだ。
「来るのが遅すぎました。」
「中絶手術にはご家族の署名が必要です」
梨紗は震える手でスマートフォンを取り出し、一番上に登録されている「紀康」に電話をかけた。
コール音が48秒も鳴って、ようやく繋がったが、背景には若菜の喜ぶ声がはっきり響いていた。
「紀康!先生が雪丸が妊娠したって!ママになるのよ!」
「本当か!よかったな!」
紀康の声は、梨紗が聞いたことのないほど優しく、嬉しそうだった。次の瞬間、無情な音とともに電話は切れた。
もう一度かけ直しても、返ってきたのは冷たい話し中の音だけだった。
冷たい手術台に横たわり、金属器具のぶつかり合う音が心臓を打つ。器具が体に差し込まれ、激しい痛みに唇をかみしめる――紀康の心の中で、自分は妻でありながら、若菜のウサギ以下の存在なのだと痛感する。
術後、ふわふわと力の入らない体を引きずって診察室を出ると、エレベーターが一階に着いた。
スマートフォンが鳴り、息子の拓海からだった。
梨紗は、息子が自分を心配してくれるのだと思い、わずかな慰めを感じた。
だが、電話の向こうからは拓海の弾んだ声が響く。
「パパ!ななちゃんの雪丸、本当に赤ちゃんできたの?僕、生まれるところ見てもいい?」
すぐに、若菜の甘ったるい声が聞こえてきた。
「拓海くん、雪丸が赤ちゃん生んだら、一匹あげるからね」
「ありがとう、ななちゃん!本当にやさしいね!僕のママになってよ!」
「そんなこと言ったら、お母さんが悲しむでしょ?」
「じゃあ、こっそり呼ぶね……」
梨紗は電話を切った。指先が白くなるほど強く握りしめていた。この一本の電話が、心の中の最後の支えを完全に崩してしまった。
帰宅すると、広くて冷え切った家が待っていた。家政婦の松本が顔色の悪さに気づき、慌てて駆け寄る。
「奥様、どうなさいましたか?」
「大丈夫よ。」
梨紗は力なく答え、そのまま寝室へ向かった。クローゼットを開け、わずかな着替えをスーツケースに詰める。
ドレッサーの上には、ずっと用意していた離婚届が静かに置かれていた。いつかは必要ないかと思っていたその書類に、もう迷いはなかった。
鏡に映る自分は、顔色も瞳もすっかり色を失っていた。
梨紗はペンを取り、静かに自分の名前――神崎梨紗と署名した。
この独り芝居、もう終わりにしようと、ようやく決めたのだった。