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第二話 譲れないもの


梨紗は、署名済みの離婚届を寝室のドレッサー、ひときわ目立つ場所にそっと置いた。


荷物をまとめているとき、ふと財布の中に一枚のクレジットカードが目に入る——


このカードを使うことは滅多になかった。使うとしても、ほとんどが拓海や紀康のための買い物ばかり。そのたびに使った金額も、彼にはすぐに知らされるようになっていた。


八年の結婚生活に、結婚式もない、公にされたこともない。外から見れば、紀康が既婚者だということすら知られていない。神崎家は控えめを重んじ、彼女自身も贅沢品を買いたいと思ったことは一度もなかった。


今となっては、このカードも必要ない。離婚後に受け取るべき財産については、すでに協議書に明記してある。慰謝料も財産分与も、当然の権利として一円も諦めるつもりはない。


ベッドサイドには、拓海のはじけるような笑顔の写真。

数日前の誕生日、彼が願ったのは「新しいお母さんがほしい」ということだった……。

梨紗は写真に視線を落とし、しばらく見つめた後、静かに目をそらした。彼がそれほど望むなら、その願いを叶えてあげよう——そう心に決める。


部屋を出ると、屋敷の中はひっそりと静まり返っている。使用人の姿もない。彼女はキャリーケースを引きながら、何の妨げもなく、この八年間自分を閉じ込めていた「家」から出ていった。

背後にある神崎家のすべては、もう自分には何の関わりもない。


……


紀康が拓海を連れて家に戻ったとき、出迎えたのはいつもと違う、妙な静けさだった。いつもなら、どんなに遅く帰っても、梨紗がエプロン姿で玄関まで迎えに来て、拓海のランドセルを受け取ったり、紀康のコートを脱がせたりしてくれるのが当たり前だった。


だが今日は、玄関に誰もいない。


拓海は不満げに口をとがらせる。今日はお母さんがロケに行かなかった理由を問い詰めるつもりだった——もしお母さんが家にいなければ、若葉さんがケガをすることもなかったのに。ほんのかすり傷とはいえ、彼の心は痛んでいた。


慌ただしく駆けてきた使用人の松本も、驚きを隠しきれない。

「奥様……いらっしゃらないなんて、こんなこと八年間で初めてです。」


「梨紗さんはどこだ?」

紀康は靴を脱ぎながら、いつも通り冷静な声で尋ねる。

その一言で場の空気が凍りついた。


「奥様は……午後にはお帰りでしたが、お部屋で休まれているかと……」

松本は自信なさげに主寝室のほうをちらりと見る。


紀康は軽くうなずき、拓海のランドセルを肩から外してやる。


「家にいるのに、迎えにも来てくれないなんて……」

拓海はぶつぶつと文句を言う。


松本は、寝室のドアが開くのを期待しながら息をひそめていたが、結局、何の気配もないままだった。


紀康は眉をひそめて階段を上り、主寝室のドアを開ける。しかし、部屋には誰もいない。バスルームも静まり返っている。見回してみても、何かが足りないような、けれど何も変わっていないような、妙な違和感だけが残る。


もともとこの部屋に足を踏み入れることはほとんどなかったため、ドレッサーの上に置かれた書類にも気づかず、そのままドアを閉めた。


「出かけたのか?」

階下に戻った紀康は、どこか苛立ちを含んだ声で松本に尋ねる。


松本は戸惑いながら、「いえ、奥様がお出かけになるとは聞いておりません」と首を振る。


すかさず拓海が口を挟む。

「今日、若葉さんがケガしたのを母さんが知って、気まずくなって出て行ったんだよ!」


子どもの言葉は時に、大人が目を背けたい真実を突く。紀康の中に、妙な苛立ちが湧き上がる。携帯を取りだし、梨紗に電話をかけようとしたその時、先に着信が入った——父親からだ。


「今日は梨紗を病院に連れて行ったのか?検査の結果はどうだった?」

父は気遣う声で尋ねた。


紀康は一瞬、意味が分からずに聞き返した。

「病院?」


「本人はお腹が痛いのは大したことないって言ってたが、油断は禁物だ。梨紗はこの何年も風邪ひとつひかず、お前たち親子の世話ばかりしてきた。もう少し彼女を大事にしてやれ」

父の言葉は静かだが、どこか釘を刺すような響きを含んでいる。


そういえば、数日前にも父から梨紗の体調について連絡があった。だが、梨紗はいつも元気で、病気などしたことがないと信じていた紀康は、ただの気を引くための芝居だろうと軽く受け流し、すっかり忘れていたのだった。


「問題ありません。ご心配なく」と、紀康はそっけなく答える。


「それならいいが……梨紗は本当にいい子だ。ここまでお前たちのために尽くしてきた。あまりないがしろにするなよ、でないと……」

父の言葉は途中で切れたが、その意味は十分伝わった。


電話を切った後、紀康はもう一度屋敷の中を見て回ったが、やはり梨紗の姿はない。そのまま、探すのをやめた。


きっと、病院の件で機嫌を損ねているのだろう。この数年、従順だった彼女にしては珍しい反抗だ。自分の気を引くつもりかもしれないが——


だが、紀康はまったく意に介さなかった。


母親がいないと知ると、拓海は途端にうれしそうな顔をする。


「松本、唐揚げとコロッケが食べたい!コーラも用意して。それから、大きなアイスも!」と、弾む声でリクエストする。


松本は困った顔で、「坊ちゃま、お腹が弱いので、奥様から控えるように言われてますよ……」とやんわり諭す。


「どうしてダメなの!ほかの子はみんな食べてるのに!僕も食べたい!」

拓海は足を踏み鳴らして抗議する。


「食べたいなら食べさせろ」

紀康が傍らから口を出し、有無を言わせぬ口調で命じる。


松本は渋々うなずいた。


拓海は本当は母親が嫌いなわけではない。ただ、この数年、母親に食事も生活も厳しく管理され、あれもダメ、これもダメと制限されてばかり。他の子が美味しそうに食べているのを見ると、悔しくて仕方がなかった。


若葉さんと一緒のときだけ、こっそり好きなものを食べられる。


最後に食べたのはいつだったか——一か月近く前のことだろう。子どもなので、あのとき暴飲暴食したせいで数日高熱を出したことなど、もうすっかり忘れている。


大人たちの複雑な思惑など知らない。ただ、母親が「怒って」家を出て行ったと思っているだけ。できればこのまま、数日帰ってこなければいいのに——そうすれば、思いっきり「禁止されている」ごちそうを楽しめるし、なにより、あさっての日曜には若葉さんと東京ディズニーランドに行く約束もある。


もし母親が家にいれば、きっと若葉さんと一緒に出かけるのを止められてしまうだろう。

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