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第三話 身を引く決意


梨紗は、母親が遺してくれた古い家に引っ越してきた。この家には母への思い出が詰まっており、今や彼女が頼れる唯一の場所となっている。梨紗は真っすぐ寝室に向かい、荷物を下ろした。体は力が抜けたように重く、ただ横になって休みたかった。


中絶手術を受けたばかりの体には、まだ鈍い痛みが残っている。しばらくは静かに過ごさなければ。

ついでに、撮影現場の代役の仕事もきちんと片付ける必要があった。スマートフォンを手に取ったその時、着信音が鳴る。義父の神崎宗一郎からだった。


少し迷ったが、梨紗は通話ボタンを押した。

「お義父さん。」


宗一郎の声には優しさが滲んでいた。

「さっき紀康に電話したんだ。検査で問題なかったと聞いて、安心したよ。」


梨紗の指先が冷たくなる。思い出したのだろうか?でも、彼からは一度も直接電話が来なかった。


「梨紗?どうした?」

宗一郎は彼女の沈黙に気づく。


「大丈夫です、お義父さん。私は元気ですから、心配しないでください。」

感情がこみ上げるのを必死で抑えた。宗一郎は腎臓移植後も薬が欠かせず、今も体は弱い。彼にはこれまでよくしてもらったし、心配をかけたくなかった。もう子どももいない、これ以上何も言っても意味がない。


「それなら良かった。紀康とはしばらく顔を出していないから、時間ができたら拓海を連れて母さんと僕にも会いに来てほしい。」


「分かりました。」

梨紗はそう返事しながらも、離婚が決まれば宗一郎への説明は紀康の役目だと、心の中で思っていた。


肩の荷が下りたからか、梨紗はそのまま深い眠りについた。目覚めた時、体はずいぶん楽になっていたが、手が自然と下腹部に触れる。そこにぽっかりと空いた感覚は、鋭い痛みとともに残っていた。


昨晩、プロデューサーに辞職の連絡を入れたが、まだ返信はなかった。スマホを確認すると、プロデューサーからは何の音沙汰もないが、監督から電話がかかってきた。


「神崎梨紗!どういうつもりだ?昨日一日休んだだけで十分迷惑なのに、まだ現場に来ないなんて!昨日、若菜がケガしたのも君がいなかったからだぞ。本気で辞めるつもりか?」

監督の怒りは露骨で、代役の彼女への配慮は全くなかった。


「監督、もう辞めます。」

梨紗は淡々と告げた。


「辞める?撮影も半分以上進んでるのに、今さら勝手なこと言うな!すぐ現場に来い!」

監督は怒鳴り声をあげた。


「もう行きません。」

梨紗はこれ以上関わりたくなくて、電話を切ろうとした。


「神崎社長に言いつけるぞ!」

監督は紀康の名を持ち出し、脅すように言った。


梨紗は冷たく笑って、「どうぞ。」と言い切り、そのまま通話を切った。


昨夜は食材もたくさん買っておいた。ちょうどお粥を煮ていた時、紀康から電話がかかってくる。梨紗は、彼が離婚届を見たのだろうと考え、電話を取った。


「誰の許可で仕事を辞めた?」

開口一番、冷たい声が浴びせられる。


「もうやりたくないだけ。」

梨紗は淡々と返す。


「君にそんな権利があると思ってるのか?」

紀康の声は、重い石のようにのしかかる。


その一言で、これまでのことが一気に思い出される。かつて宗一郎が腎臓移植を必要とした時、梨紗が稀な適合者だった。当初は断ったが、幼い頃に助けてくれた恩人が紀康だったと気づき、恩返しのつもりで手術を受けた。再会した紀康は眩しいほどの存在で、毎日を共に過ごすうち、梨紗の心は惹かれていった。


だが、若菜が芸能活動のため一時的に離れ、宗一郎は梨紗と紀康の結婚を望んだ。紀康は梨紗が家の地位を狙っていると誤解し、冷たく接した。

やがて、梨紗は拓海を妊娠。宗一郎の強い後押しと、医師からの「中絶すれば二度と妊娠は難しい」との忠告もあり、梨紗は神崎家に嫁ぐことになった。


二人は「子どもを産み、二年間育てたら離婚する」という約束を交わした。

しかし、宗一郎の病状悪化や、若菜のマネージャーから「体型が似ている」と求められた専属スタントの仕事、さらに実家の会社の資金繰りなど、様々な事情が重なり、約束の離婚は何度も先延ばしになってきた。


だが、もう離婚は決まった。今さら何を気にする必要があるだろう。


「昔はともかく、今の私はもう誰の言いなりにもならない。」

そう言い切り、電話を切った。その後、紀康から何度か着信があったが、梨紗は一切出なかった。


朝食を済ませ、できるだけスマホも見ず、オーディオブックを聴きながら気を紛らわせる。そんな時、有名な小田監督からメッセージが届いた。

「お願いしていた新作の脚本、進み具合はどうですか?」


梨紗はこの依頼を忘れていなかった。紀康が帰ってこない夜、彼女は机に向かい執筆を続けてきた。

「三分の二まで書きました。あとはラストだけです。」


「すぐに読ませて!」

小田監督は待ちきれない様子だ。


梨紗はスマホに保存していた原稿を送った。数時間後、小田監督から感嘆符だらけのメッセージが届く。


梨紗は少し不安になり、「ご期待に添えませんでしたか?もし必要なら別のものを書きますが……」と返した。


「いや、最高だよ!」小田監督は興奮気味に続けた。

「君なら絶対に僕の望む作品を書いてくれると思ってた!すぐにプロデューサーと詰めるから、早くラストを書き上げてほしい。できるだけ早く撮影に入りたいんだ!」


小田監督の熱意あふれる声に、梨紗も思わず微笑んだ。この八年間、唯一自分を救ってくれていたのは、密かに続けてきた脚本の仕事だった。

「暁美帆」というペンネームで書き続け、少しずつ業界で評価も得てきた。恋愛ではうまくいかなくても、せめて仕事で自分を取り戻そう――そう思えた。


……


一方その頃、撮影現場は大混乱に陥っていた。重要な雨のシーンの撮影が差し迫る中、数日休んでいた若菜は回復したものの、生理中で水に入ることができない。


「彼女しか若菜に瓜二つの体型はいないんだ!」

監督は苛立ち、声を荒げていた。


その時、紀康が梨紗の居場所を調べさせていたスタッフが住所を伝えてきた。紀康は無表情で報告を聞き、車の鍵を手に立ち上がる。


「俺が直接迎えに行く。」

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