紀康が梨紗の旧宅に足を踏み入れたとき、靴の埃すら払わず、まっすぐ階段を駆け上がった。同行していた秘書たちは玄関で立ち止まるだけだった――今の社長の怒りが、きっと二階のあの女性に向けられていることを知っていたからだ。
寝室のドアが勢いよく開け放たれ、金属の軋む音が室内に響く。中絶後で体力も気力も落ちていた梨紗は、その音に怯えて目を覚ました。最近は眠りも浅く、昨夜も安定剤に頼ったばかり。今も顔色は青白く、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「俺が来るのがわかってて、わざわざ眉まで描いたのか?」
紀康の声は氷のように冷たく、指先で彼女の顎を掴む。
「そんなことで俺の気持ちが変わると思ったか?」
梨紗の胸がきつく締め付けられる。鏡に映る自分は目の下にクマを作り、唇は血の気を失っている。化粧なんてしているはずもない。彼がわざと傷つけるために言っていることは明らかだった。
「紀康……」
梨紗は彼の手を振りほどき、力なく震える声で言った。
「現場には行かない。」
この七年間、彼との結婚を守るため、あらゆることを我慢してきた。若菜の代役まで引き受けてきた。でも、離婚届に判を押した今となっては、もう誰の言いなりにもなりたくない。
「お前に拒否する権利はない。」
紀康の視線は鋭い。
「現場では大雨のシーンが待ってる。すぐに来い。」
梨紗はシーツを握りしめ、指先が真っ白になるほど力が入る。
「繰り返すけど、行かない。」
男は急に身を屈め、耳元で低く囁いた。
「忘れるな。お前の祖父の会社、まだ資金が必要だろう?」
その一言が梨紗の心を冷たく打ち抜いた。彼女は紀康を睨みつけたが、最後には目を閉じ、その「要求」を受け入れるしかなかった。
――
撮影現場のメイクルームで、梨紗はびしょ濡れの衣装を無理やり着せられていた。今回の現代劇の大雨シーンでは、後ろ姿だけが映る役で、髪型も簡単に整えるだけでよかった。
隣のメイクルームを通り過ぎると、スタッフたちの会話が耳に入ってくる。
「社長は本当に早乙女さんのことを気にかけてるよね。生理中で水に入れないって聞いたら、すぐに 彼女を呼んだんだって。」
「そうそう、さっきもカイロをいっぱい買ってたみたい。」
梨紗は手のひらに爪を深く食い込ませた。三日前、自分が病院で中絶し大量に出血していたとき、紀康は若菜の雪丸の「妊娠検査」に付き添っていた。それなのに、今は若菜の生理だけで、ここまで大騒ぎしている。
少し離れた場所で、若菜の送迎車のドアが開きっぱなしになっている。若菜は車のそばで、紀康に甘えるように微笑んでいた。
「ただの生理よ?そんなに心配しなくても大丈夫なのに。」
「こういうときこそ、女の子は一番弱いんだ。だから、ちゃんと守ってあげなきゃ。」
紀康の声は驚くほど優しく、さっきまでの冷たさとはまるで別人のようだった。
梨紗は思わず足を止める。出産後、初めてのひどい生理痛で夜中にソファでうずくまり、紀康に「紀康、お腹痛いからお湯を持ってきてくれない?」と頼んだことがある。
だが返ってきたのは冷たい一言だった。
「大げさに騒ぐな。うるさい。」
愛されている人と、そうでない人――その差は残酷なほどはっきりしていた。
「何してるんだ!」
監督の怒鳴り声が現場に響く。
人工の雨が一斉に降り注ぎ、梨紗の体を容赦なく打つ。服は一瞬で冷たくなり、彼女は震えを抑えきれなかった。だが、監督は怒鳴る。
「ストップ!何震えてるんだ!プロの代役だろ?これくらい我慢しろ!もう一回!」
二度目のテイク、梨紗は歯を食いしばりながら前に進む。濡れたロングヘアが顔に張り付き、冷たい雨といつの間にか流れた涙が混じって地面に落ちた。
「カット!感情が違う!」監督がまた止める。
「今の役は絶望して心が砕けた女だ。ゾンビじゃないぞ!やり直し!」
五回もNGが続き、梨紗の体力はもう限界だった。そんな中、男優がシナリオ通りに彼女を抱きしめる場面で、突然手が腰に滑り、明らかに意図的な触り方をした。
梨紗はとっさに男優を突き飛ばし、顔色を失う。
「監督、彼……」
「何だ?」監督は苛立ち気味に遮る。
「文句が多いな。進行が遅れるのはお前の責任だぞ?」
男優はすかさず梨紗に近寄り、小声で脅す。
「余計なことは言うなよ。監督が怒ったら、誰も助けてくれないからな。」
梨紗は拳を強く握りしめ、爪が掌に食い込む。この現場で自分を守ってくれる人などいないことを、嫌というほど知っていた。男優が再び彼女を抱こうとしたとき、彼女はもう抵抗せず、ただ解放された瞬間、思いきりその頬を叩いた。
「いいぞ!今の感情はバッチリだ!」
監督は手を叩いて称賛し、男優の怒りに染まった顔には全く気づかない。
撮影が終わるころ、梨紗はすでに限界だった。全身が濡れて視界もぼやけ、監督に退職の話を再度伝えようとした瞬間、意識が遠のき、その場に倒れ込んだ。
「誰か!?救急車を呼んで!」
誰かの叫び声とともに、現場が騒然となる。だが、少し離れた送迎車の中で、紀康は若菜に丁寧にブランケットをかけてやり、こちらの騒動には一切気を留めていなかった。
意識が遠のく中、梨紗はただ、この雨があまりにも冷たいと感じていた。
それはまるで、七年間の結婚生活そのもののように、頭の先から足の先まで、冷え切っていた。