梨紗は、消毒液の匂いの中で目を覚ました。目に入るのは、どこまでも冷たい白い病室だった。
病室のドアが開き、紀康の姿が現れる。
「生理になっら、どうして言わなかったんだ?」
彼の声には何の感情もない。
「生理……?」
梨紗は思わず聞き返しそうになった。あの耐え難い痛みや血も、彼にとってはそんなに軽いものなのか?
「まさか、そんなに弱かったとはな。」
紀康は淡々と言い放つ。
「二日休めば治るだろ。」
梨紗が何か言いかけたとき、紀康の携帯が鳴った。彼は画面をちらりと見て、眉をひそめ、そのまま梨紗の言葉も聞かずに部屋を出て行った。
梨紗は苦笑いを浮かべる。彼の優しさを期待するなんて――八年も経ったのに、まだこの無関心に慣れない自分が情けない。
なんとか起き上がろうとするが、体の激しい痛みと底冷えする寒さで身体が動かない。
再び病室のドアが開く。高級そうな服を着た女性が入ってきた。冷ややかな目で梨紗を一瞥する。
「生理痛くらいで入院なんて」
それは義母の神崎雅子だった。
彼女が夫のために腎臓を提供したことには感謝しているものの、根本的には梨紗のことを気に入っていない。
梨紗が黙っていると、雅子は苛立った声で言う。
「玲奈が後で用事あるから、ココの面倒を見てちょうだい。」
紀康の妹の玲奈は若くして未婚で子どもを産み、子どもはしょっちゅう梨紗に預けられる。
梨紗が断ろうとするより早く、またドアが開いた。
白衣姿の背の高い男性医師が入ってきて、どこか気だるげな笑みを浮かべている。
「また梨紗をいじめてるの?」
この男は、神崎家の当主がかつて外で作った子で、母親の姓を継いでいる清和雅彦だ。
家に戻ることを拒み、自分の力だけで優秀な医師となり、事業も成功させている。
「叔父さん。」
梨紗が礼儀正しく声をかける。
雅彦は彼女を見やり、やや叱るように言った。
「誰が起きていいって言った?ちゃんと横になってなさい。」
雅子の不機嫌な顔を無視して、雅彦はベッドのそばまで来た。
「彼女は俺の患者です。もし病院で何かあったら責任取れますか?」
雅彦の声が冷たくなる。
雅子はその迫力にたじろぎつつも、強がって言い返す。
「ただの生理で、ちょっと雨に濡れただけでしょ?」
「誰がそんなこと言ったんです?」
雅彦の目が鋭く光る。
雅彦が真実を言いそうになり、慌てて梨紗が口を挟んだ。
「お義母さん、先にお帰りください。」
雅子は鼻で笑い、踵を返して出ていった。
「本当にひどいな。流産したばかりで、雨の中ロケに行かせて……殺す気かよ。
雅彦の顔が真剣になる。
「しばらくはしっかり休め。」
そしてじっと梨紗を見つめてから言った。
「どうして流産のこと、隠してるんだ?」
梨紗は黙って俯いた。雅彦もそれ以上は聞かず、彼女の額を軽く指ではじく。
「早く帰って休め。」
梨紗は感謝の眼差しを向け、なんとか体を動かして病院を後にした。
母の遺した家に戻ると、刺すような寒さにソファで体を丸めて震える。
携帯が鳴ったが、「拓海」の名前を見ても、出る気力がない。やがて着信は切れ、今度は固定電話が鳴った。梨紗は目を閉じたまま受話器を取る。
「奥様!」慌てた声は家政婦の松本だ。
「坊ちゃん、熱が三十九度もあるんです!ずっとお母さんを呼んで泣いてます。ご主人様に、いつ帰ってくるか聞いてくれと言われて……」
三十九度の高熱?
梨紗の心は一瞬沈み、すぐに落ちいた。
「また唐揚げやアイスをこっそり食べさせたんですね?」
松本は言い淀んだ。
「あの……それは……」
黙っているのが答えだった。
梨紗は冷たく笑う。やはりそうか。
紀康の「食べたいなら食べさせてやれ」という一言で、息子は「おいしいもの」とディズニーのためなら母親がいなくてもいいと願っている。
病気の時だけ母親を求めるなんて。
「松本、私は動けません。医者に従ってください。戻れません。」
そう言って電話を切った。
松本は電話を握りしめたまま、紀康におずおずと伝える。
「ご主人様、奥様はどうしても動けないので、医者の指示に従ってほしいと……」
紀康の顔がみるみる険しくなる。不調?動けない?くだらない言い訳だ。
朝、医者は「生理で安静」としか言っていなかった。
息子がこれだけ熱を出しているのに、母親が突き放すとは――この女、わがままもいい加減にしろ。
険しい顔のまま、紀康は拓海の部屋へ向かった。
家庭医がすでに点滴の準備をしている。
拓海は顔を真っ赤にして熱にうなされていた。
紀康の姿に気づくと、小さな手を伸ばして泣きながら訴えた。
「パパ……ママは? ママがいい……ママが来たら、拓海なおるのに……ママ呼んでよ……」
病気の息子が何度も「ママ」と呼ぶ声に、紀康の苛立ちはさらに増す。息子の熱い額に手を当て、眉をひそめる。
神崎梨紗――本当に「動けない」んだろうな。