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第五話 わがままはほどほどに


梨紗は、消毒液の匂いの中で目を覚ました。目に入るのは、どこまでも冷たい白い病室だった。


病室のドアが開き、紀康の姿が現れる。


「生理になっら、どうして言わなかったんだ?」

彼の声には何の感情もない。


「生理……?」

梨紗は思わず聞き返しそうになった。あの耐え難い痛みや血も、彼にとってはそんなに軽いものなのか?


「まさか、そんなに弱かったとはな。」

紀康は淡々と言い放つ。

「二日休めば治るだろ。」


梨紗が何か言いかけたとき、紀康の携帯が鳴った。彼は画面をちらりと見て、眉をひそめ、そのまま梨紗の言葉も聞かずに部屋を出て行った。


梨紗は苦笑いを浮かべる。彼の優しさを期待するなんて――八年も経ったのに、まだこの無関心に慣れない自分が情けない。

なんとか起き上がろうとするが、体の激しい痛みと底冷えする寒さで身体が動かない。


再び病室のドアが開く。高級そうな服を着た女性が入ってきた。冷ややかな目で梨紗を一瞥する。


「生理痛くらいで入院なんて」

それは義母の神崎雅子だった。


彼女が夫のために腎臓を提供したことには感謝しているものの、根本的には梨紗のことを気に入っていない。


梨紗が黙っていると、雅子は苛立った声で言う。


「玲奈が後で用事あるから、ココの面倒を見てちょうだい。」


紀康の妹の玲奈は若くして未婚で子どもを産み、子どもはしょっちゅう梨紗に預けられる。


梨紗が断ろうとするより早く、またドアが開いた。


白衣姿の背の高い男性医師が入ってきて、どこか気だるげな笑みを浮かべている。


「また梨紗をいじめてるの?」


この男は、神崎家の当主がかつて外で作った子で、母親の姓を継いでいる清和雅彦だ。


家に戻ることを拒み、自分の力だけで優秀な医師となり、事業も成功させている。


「叔父さん。」

梨紗が礼儀正しく声をかける。


雅彦は彼女を見やり、やや叱るように言った。


「誰が起きていいって言った?ちゃんと横になってなさい。」


雅子の不機嫌な顔を無視して、雅彦はベッドのそばまで来た。


「彼女は俺の患者です。もし病院で何かあったら責任取れますか?」

雅彦の声が冷たくなる。


雅子はその迫力にたじろぎつつも、強がって言い返す。

「ただの生理で、ちょっと雨に濡れただけでしょ?」


「誰がそんなこと言ったんです?」

雅彦の目が鋭く光る。


雅彦が真実を言いそうになり、慌てて梨紗が口を挟んだ。


「お義母さん、先にお帰りください。」


雅子は鼻で笑い、踵を返して出ていった。



「本当にひどいな。流産したばかりで、雨の中ロケに行かせて……殺す気かよ。

雅彦の顔が真剣になる。

「しばらくはしっかり休め。」


そしてじっと梨紗を見つめてから言った。

「どうして流産のこと、隠してるんだ?」


梨紗は黙って俯いた。雅彦もそれ以上は聞かず、彼女の額を軽く指ではじく。


「早く帰って休め。」


梨紗は感謝の眼差しを向け、なんとか体を動かして病院を後にした。


母の遺した家に戻ると、刺すような寒さにソファで体を丸めて震える。

携帯が鳴ったが、「拓海」の名前を見ても、出る気力がない。やがて着信は切れ、今度は固定電話が鳴った。梨紗は目を閉じたまま受話器を取る。


「奥様!」慌てた声は家政婦の松本だ。

「坊ちゃん、熱が三十九度もあるんです!ずっとお母さんを呼んで泣いてます。ご主人様に、いつ帰ってくるか聞いてくれと言われて……」


三十九度の高熱?

梨紗の心は一瞬沈み、すぐに落ちいた。


「また唐揚げやアイスをこっそり食べさせたんですね?」


松本は言い淀んだ。

「あの……それは……」

黙っているのが答えだった。


梨紗は冷たく笑う。やはりそうか。

紀康の「食べたいなら食べさせてやれ」という一言で、息子は「おいしいもの」とディズニーのためなら母親がいなくてもいいと願っている。

病気の時だけ母親を求めるなんて。


「松本、私は動けません。医者に従ってください。戻れません。」

そう言って電話を切った。


松本は電話を握りしめたまま、紀康におずおずと伝える。

「ご主人様、奥様はどうしても動けないので、医者の指示に従ってほしいと……」


紀康の顔がみるみる険しくなる。不調?動けない?くだらない言い訳だ。

朝、医者は「生理で安静」としか言っていなかった。

息子がこれだけ熱を出しているのに、母親が突き放すとは――この女、わがままもいい加減にしろ。


険しい顔のまま、紀康は拓海の部屋へ向かった。

家庭医がすでに点滴の準備をしている。


拓海は顔を真っ赤にして熱にうなされていた。

紀康の姿に気づくと、小さな手を伸ばして泣きながら訴えた。

「パパ……ママは? ママがいい……ママが来たら、拓海なおるのに……ママ呼んでよ……」


病気の息子が何度も「ママ」と呼ぶ声に、紀康の苛立ちはさらに増す。息子の熱い額に手を当て、眉をひそめる。


神崎梨紗――本当に「動けない」んだろうな。

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